あなたとの対話(Q&A)

行為と結果

地獄に堕ちた生命はどうやって地獄から抜け出せるのか、それがよくわかりません。苦しむのは悪行為なのだから、論理的に考えると、苦しんで苦しんで悪いカルマを作りつづけ、永遠に地獄から出られないのではないかと思うのです。

あなたの質問には重大な間違いがあります。
苦しむことは悪行為の結果であって、苦しむこと自体が悪行為になるわけではありません。苦が悪果の原因になることはないのです。苦しむことが悪行為だというならば、楽しむことは善行為になってしまうでしょう。遊んで楽しくいることが善い行いだといえますか。そんなことはあり得ません。

でも、地獄に堕ちたら想像を絶する苦しみで、あまりにも苦しくて考える暇もないと聞きました。そうであるならば、どうしても地獄から抜け出せないように思えるのです。

考える暇もなく苦しむのであれば、悪業をつくる暇もないでしょう。だからその人は過去の悪行為の結果を受けているだけ。それで苦しむことはしょうがないのです。例えば人が罪を犯して刑務所に入れられたとします。殺人罪で20年間の刑期を言い渡されたとして、その刑期が終わったらどうしますか。

刑期が終わったら刑務所を出て自由になります。

そうでしょう。20年間刑務所に入れられたならば、刑務所の中で毎日、自分の罪を償っていたのです。同じように、悪業を犯して地獄に堕ちた人も、その業の報いが終わったら、その先があるのです。

地獄に堕ちた悪業が終わった先というのは、どこに行くのでしょうか。

それはわかりません。人それぞれでしょう。

刑期が終わったら、罪は全部チャラになるわけですか。

全部チャラになるのではなくて、審判を受けた罪がチャラになったのです。

では審判を受けてない罪はまだ残っているということになるわけですね。その地獄に堕ちた悪業がつきても、それぞれのカルマに従って、どこかに輪廻転生していくということですか。

それしかないでしょう。地獄に行ったらすべての罪が消えるのであれば、皆、地獄に行けばいいということになってしまう。そんなことあるはずがありません。

「苦」という結果が原因になると考えた理由は、日常生活においても原因を作って結果を受けますけど、その結果がまた原因になるということが大いにあるというか、ほとんどがそうだと思ったのです。

結果がそのまま原因になるのではなく、その結果について自分がどうしたかが問題なのです。例えば、殴られたら痛いことは避けられませんね。でもそこで、いろんな反応をする可能性はあるでしょう?

はい。殴り返すとか、がまんするとか、許すとか、色々あります。

「殴られたこと」が原因になって「殴り返す」という結果が現れることはありません。殴られたら、まず、殴られた人が怒る。その怒りが原因となって、殴り返すのです。

ああ。「殴られたこと」に対してのリアクションは「怒るか、怒らないか」ということですか。

そうです。怒りは貪瞋痴(煩悩)だから、悪業となって悪い結果を出します。殴られて痛いことは悪果であって、過去の自分の悪業の結果を受けているのです。そこでもし怒らなかったならば、過去の自分の業が消えて、それで終わりになります。

原因と結果は連鎖的な機能です。例えば、働いて給料をもらった。それは自分の行為の結果です。お金をもらったこと自体は、善因でも悪因でもないのです。しかし入った金について欲や怒りが生まれたら、その煩悩は原因になります。それが結果につながるのです。結果 → 原因 → 結果というように、連鎖しているのです。結果から感情が起こらず、何も連鎖しなければ、結果は結果を出しただけで終わります。連鎖がきれいさっぱり消えるのです。

原因をつくるのは自分の意志だから、自由です。結果は自由ではありません。殴られたら痛くなるのは避けられない。そこで怒るか、忍耐するか、何とも思わないか、そこは選ぶことができます。自分が選んだ行動には必ず結果がついてきます。善行為と不善行為はシンプルに理解できます。罪の原因は貪瞋痴、徳の原因は不貪不瞋不痴。それ以外は何もないのです。

たくさんの人を殺したアングリマーラ長老は、釈尊に弟子入りして最終的な悟りを開かれたそうですが、悟りを開くことによって殺人の罪が全部消えたのですか。

そうです。俗世間では納得いかないかもしれませんが、悟りを開いてこころから貪瞋痴がなくなると、過去の悪業による罪は完全に消えてしまうのです。完璧にこころがきれいになったのだから、それ以上の償いはありません。それはごまかしでも何でもないのです。

アングリマーラ長老は、悟りを得てからは、一生懸命に人々のために行動されました。それでもやはり長老を恨んでいた人もいたようです。そういう人々は長老を殴ったり石を投げたりしたのだそうです。何の罪もない清らかな人をけなしたりいじめたりしたらすごい悪業を積んでしまうのだから、かわいそうに、長老をいじめた人々は、またさらに大変な不幸を背負うことになったのです。

そのケースで理解してほしいのは、たとえ殺人のような極端な場合でさえ、被害者側が怒り憎しみで加害者に罰を与えようとすることには何の意味もない。それどころか、かえって自分が罪を犯してしまうということです。殺されたのも殺された側の業だと受けとめて怒りをつくらなければ、そこで過去の業が終わるのです。加害者を憎むと、また新たな悪業をつくって、輪廻の中で同じようなことを繰り返しつづけるハメに陥ります。

とにかく、いくらひどいことをされても、自分は決して怒りや憎しみをもたないのが正しいのです。アングリマーラ長老のようなごくまれなケースは別として、加害者は自分の悪業による悪い結果を必ず受けるのです。自分の行為は必ず本人に返る。それは誰にもどうすることもできません。私たちは、自分のこころを汚さないことを何よりも大事にするべきです。なぜ悪人のために自分が罪をつくって苦しまないといけないのですか。どんな被害を受けても、加害者を許してあげることです。自分に対する他人の過ちは許すということが、一番安全な生き方なのです。

過去の悪行為の結果として被害を受けた。それが業だというのはわかります。でも、人に害を与えるというのも業なのでしょうか。それとも、それは自分の意志の問題ですか。

「害を与えよう」とする意志が業になるのです。仏教で「業、kamma」という場合、結果も、結果をつくる行為も、その両方とも「業」と言います。被害を受けるのは過去の業の結果で、害を与えるのは将来に結果を出す行為でしょう。両方とも業なのです。

業には過去世のことが関係してくるから、ややこしいし、わかりにくいのです。だから皆、いろいろと納得できませんね。特に何か悪いことに出会うと、どうも納得がいかなくなるのです。それはしょうがない。なぜならば「自分」というのはただの言葉であって、実体としての「自分」はいませんからね。変化しない自分がいるならば、「ああ、過去世のあの時のあれが悪かった」と覚えているでしょうが、ただの流れだから、生まれ変わると忘れてしまうのです。

だから、今世の行為の結果については、我々はいくらか納得しやすいでしょう。学生の時に全く勉強しなかったから、今仕事もなくて皆にバカにされている、それはしょうがないと納得するのです。過去世の結果を受けることには、どうしても納得いきません。幸福になっても同じことで、「この幸せは神の恵みだ」と思ったりしますが、実際は、幸福も不幸も自分の過去の行為の結果なのです。

過去の業とは関係なしに、その時の自分の意志だけで行動するということはあり得ないですか。

それは、ケースバイケースで考えなくてはいけない。業をつくる場合は、いろんな原因があります。しかし、結局のところは自分が選択する。自分の意志です。だから「業をつくる」と言うのです。決断したのは自分なのです。

人は、いつでも殺さないこともできるでしょう? たとえ自分が殺されそうになった場合でも、「それでも私は相手には害を与えないぞ」と決めることはできるのです。それは教育次第です。相手を殺すか、許すか、選択することはいつでもできます。

環境や教育は、業を作る場合は、必ず影響を与えます。やくざみたいな怖い世界で育てられた人々は、いとも簡単に悪い業を作ってしまいます。大変行儀のいい道徳的な環境で育った人は、そんな簡単には悪い業を作りません。殺し殺されるという概念もない環境で育ったならば、殺される所に行っても逃げるだけで、相手を殺そうとは思わないのです。

生命とはこころそのものだから、ヴィパッサナー瞑想でこころを清らかにすることが最高の善行為だと聞きました。瞑想すると、過去の悪いカルマを清算して、きれいにすることもできますか。

過去の業を清算することは悟りを開かない限り無理なのですが、瞑想してこころが清らかになっていくと、悪行為の結果が出にくくはなります。

すべての業が結果を出すのではなくて、力強い業が結果を出すのです。弱い業は後回しになります。業の一部は時間が経つと消えてしまいます。善でも悪でも、強いエネルギーが前面に出て機能するのです。業の性格として、最近に行った行為、大胆な行為、習慣としてやっている行為などは力強い。そういう力強い業が何もない場合に、何かそこにある、まだ結果を出してない業が結果を出すのです。

瞑想というのは非常に強引にやっていることだから、かなり強いエネルギーになるのです。ヴィパッサナー瞑想は善行為だから、何か悪いエネルギーがあったとしても、それは後回しになる可能性はけっこうあります。業の清算というのは、きちんとしたエネルギーの法則の世界です。我々は、死の危険を避けながら生きるような感じで、悪い業を避けるようにといつでも頭を使って生きるべきなのです。