供養は福を呼ぶ
テーラワーダ仏教では、亡くなった人への供養 というのはどのようにするのでしょうか。
供養には基本的な法則があります。まず、それを覚えておいてください。供養とは、亡くなった人に自分の徳を供与することです。お布施したり、瞑想したり、人助けをしたり、ボランティア活動したりなど、自分が何か善行為をして、それによって得られた善いエネルギーを回向するのです。徳というのは、幸福になるためのエネルギーです。供養とは、亡くなった方に幸せになるためのエネルギーを与えるということなのです。
例えば、今日は亡くなった両親のために供養しようと思って、どこかの施設に行く。そこで一日中ボランティアをして、「今日は両親の供養のためにがんばりました。両親が幸せでありますように」と念じれば、立派な供養になります。お墓に酒を供えたりするよりも、おいしいものを一人暮らしのお年寄りにごちそうしてあげて、その行為を回向するのです。それがテーラワーダの供養のし方で、自分が徳を積まないと回向はできません。
自分が何か善いことをしたなと思ったら、 自動的に徳が相手に届きますか。
自動的には届きません。相手にあげる必要があります。そこはお金と同じようなものです。いくら自分にお金があっても、「これを誰々にあげます。どうぞ使ってください」と言わないと、あげたことにはならないでしょう。そのように、自分が善いことをして、「この功徳を誰々にあげます」という気持ちを作るのです。あるいはちゃんと言葉で言う。その方が、もっとしっかりします。
それは独り言というか、言葉に出すということですか。
いくらか正式的にした方が、しっかりします。回向の文↓(※註)を唱えるのはそういうわけです。自分が善いことをした瞬間に、例えば亡くなったおじいさんを思い出して、「私は善いことをしました。その功徳によっておじいさんも幸せでありますように」と思えば、それだけでもおじいさんへの回向にはなります。でも、もっとしっかり回向したければ、仏壇でも写真でもいいから、亡くなった人を思い出せる場所で坐って、気持ちを整えて回向の文を唱える。そうすると、回向が正式に設定されます。やはりきちんと回向した方が、相手に届きやすいのです。
回向というのは、死んだ人ではなくても、生きている人にすることもできます。自分が善いことをして、「喜んでください」と回向の言葉を唱える。それで相手が回向を受け取ったなら、回向が成立します。
生きている人に回向するというのは、どういうことですか。
まず徳ということを理解しておきましょう。「善いことをすると功徳が積める」と言いますが、その「功徳」というのは、「こころの喜び」のことです。善いことをしたら、こころで喜びや充実感を感じるでしょう? その喜びの気持ち自体が功徳なのです。
それで、誰かが人を助けたり、こころを育てたりしているのを見ると、他の人のこころも喜ぶことがありますね。「あの人は善いことをしているなあ」とうれしくなる。そうやって人の善行為を認めて喜ぶと、その人にもその幸福な力が入るのです。それは自分の徳を相手にも与えたことになるのです。善い行いをした人は、善い結果を得る権利を持っています。それを誰かに分け与えることが回向なのです。分け与えるというのは、自分の善い行いを相手に報告して、相手にも共に喜んでもらうということです。それで相手も幸せになりますので、徳を与えたことになるのです。回向を受け取るということも、人の善い行為を喜ぶ優しい気持ちだから、善行為になります。
ふだん回向する時は、回向の文を唱えればいいですか。
それでいいのですが、自分がやった善行為のリストはそのつど変わるでしょうから、そこら辺は適切に変えたらいいでしょう。
そのつど、きちんと、実際の行為に合わせて、唱える言葉を変えた方がいいですか。
そうですね。皆で唱えるときは、決まった文言で、皆で揃って唱えればいいですが、自分一人で唱える時は、自分が行った善行為をそこに入れて唱えるといいと思います。
回向しても、相手が受け取らなかったら、その回向はムダになりますか。
「死んだ両親に回向しても受け取ってくれないかもしれないから回向なんかやめようかな」と思うなら、そんなことを思うこと自体が悪いのです。たとえ相手が受け取らなくても、生きている我々は、精一杯回向しなくてはならないのです。
スリランカで、例えば、「お布施して、亡くなった祖母に回向したいのですが、ちゃんと祖母に届きますか」と訊く人がいたら、「あんたはケチだ」とかなり叱られます。「それでは回向になりません」と。「あんたはそんなにもケチですか。ではなぜお布施するのですか。こちらも忙しいのだから迷惑だ」と。「回向をするなら、すべての親戚たちや、回向を受けたい生命皆に、無制限に回向しなさい。その方があなたのこころはすごく大きくなりますよ」と。
回向する時は、極端に太っ腹になるのです。ちゃんとその人に届いているのだろうかなどということは考えないのです。日本語の回向の文でも、「神々、先祖、祖父母、両親、親族、恩師、云々、生きとし生けるもの」と、一切の生命に回向しています。
ただ実際は、我々が神々に回向しても、神々はそんなことにはほとんど気づきません。神々はすでに天界で幸せにいるのだから、回向してもらう必要もないのです。回向を特に真剣に求めているのは、餓鬼道にいる生命です。餓鬼道というのも非常に大きな生命世界で、こころのランクによってたくさんの次元の世界があります。その中に、いつでも「何かいただきたい」という思いでいる餓鬼世界があります。人間は、死んでから、その世界に堕ちることもけっこうあります。先祖の誰かがそちらにいたならば、「何かもらいたい」と待ちかまえているのです。その世界の生命は誰かに回向してもらわない限り、そこから脱出できません。だから熱心に回向を期待しているのです。
限りない輪廻の中で、私たちの過去というのは余りにも長いのです。だから親戚の数は半端じゃありません。親戚には二種類います。いわゆる今の自分の家族の代々の先祖としての親戚と、自分が輪廻転生した中での親戚です。どちらも莫大な数です。そういうわけで、皆に回向したら、両親や祖父母に届くか届かないかはともかく、親戚の誰かには届きます。
たいがいの人は自分の先祖を供養しますから、その徳は親戚しか受けられません。だからそこを心配して、我々は、「誰でも受け取ってください。生命は皆、幸せになってください」と回向するのです。それも慈しみの行為なんです。本当に神々や餓鬼なんかいるのだろうかとか、それはどうでもいいのです。それよりも、自分が善いことをして、その幸福を制限を付けずに、すべての生命に配るということ自体が、すごく高度な善行為になります。その気持ち自体がとても優れているのです。だから、せっかく人間に生まれて仏教に巡り会っていっぱい功徳が積めるようになれたのだから、ケチケチせずに思う存分回向することを奨めているのです。
テーラワーダの国でも、お盆のように、特に供養する日はありますか。
もちろん両親の命日などにお布施したりすることもありますが、我々は、基本的に、毎日回向します。回向は決してマイナスにはなりません。少なくとも自分にとっては必ずプラスになります。自分が善行為をしないと回向できないのですからね。
だから回向というのも、結局、お釈迦さまが人々に善行為を勧めているのです。人間は、ずっと貪瞋痴で生きていたら、堕落することに決まっている。しかし、皆、せっかく人間になったのに、善行為だけは、なかなかやろうとしないのです。それでも少なくとも、自分の親しい亡くなった人のことは気になるでしょう。だったら、そのことを思ってでも善行為をしなさい、と。
人間というのは、「善行為」と聞くと、何か言い訳して、やらないことにするのです。それが普通の人間の生き方です。「今の時代では」とか、「仕事が忙しい」とか、「家族の面倒を見ないと」とかね。それで結局、そればっかりの人生になってしまうのです。それではあまりにも悲しいし、あまりにも虚しいでしょう。
一生善行為などしない人でも、お母さんの命日ぐらいは善いことをする気になるでしょう? 他の日は悪事ばっかりやっていても、たとえその一日だけでも善いことをしてほしいのです。悪事ばっかりで生きるというのは、あまりにも人間として残酷な状態なのです。
自分が善いことをして、それを回向したから自分の徳が減ったということにはならないのだからね。回向すること自体も善行為だから、徳が増えるのです。あげればあげるほど増えるということになります。回向すると、こころは大きくなります。自分が人に幸せを与えているのだから。限りなく広く、生きとし生けるものすべてに回向したならば、こころはギリギリまで大きなこころになります。人のことを恨んだり、憎んだり、自我を張ったりすることは、回向をまじめにやると、できなくなるのです。
功徳の中の一番の功徳というと、やはり真理を知るということですか。
そうです。こころを清らかにすること。だから一番高い功徳を積む行為はヴィパッサナー瞑想です。これはもう比べられないほどの功徳になります。お釈迦さまは、「ほんの瞬間だけでも今に気づいてみてください。それは何よりの功徳だよ」とおっしゃっています。慈悲の瞑想も同じことで、一分間だけでも生命に対する慈しみが生まれたら、すばらしい功徳になるのです。
回向の文で「慈悲の瞑想とヴィパッサナーによって得られたこの功徳を…」と唱える時に、いつも違和感があります。「自分はちゃんとヴィパッサナーができてないのに…」と、欺瞞的な気がするんです。
だから欺瞞にならないようにしようとすることが、自分の修行になるでしょう。そこでがんばらなければいけない。やはり供養することは、何よりもまず自分のためになるのです。自分がしっかりするのです。今言ったように、欺瞞的にならないようにまじめにがんばろうと思うだけで、自分にはすごく善い結果が出てくるのです。自分を育てようとする人であれば、そこは何とかしようとするはずです。しかし、自分を育てる気持ちがなくて、イライラしてやめたということになったら、そこで止まってしまいます。そうならないように、そこをがんばって、自分を育てるチャンスにしてください。
(※註) 回向の文
『仏法僧の三宝に礼拝帰依し、戒を守り、慈悲の瞑想とヴィパッサナーによって積まれたこの功徳を、神々、先祖、祖父母、両親、親族、恩師をはじめとし、一切の生きとし生けるものに回向いたします。
この功徳によってすべての生きとし生けるものが幸福に暮らせますように。そして解脱が得られますように』