あなたとの対話(Q&A)

瞑想の目的と方法論の詳細

悟りへの道~感受(テープ)を聞く中で、触によって誘発される感覚すらも超えることによって悟るとありましたが、行為についていちいちにサティ、もしくはラベリングすることによって妄想できなくして、その後に来る純粋な感覚(意?)を感じ、それすらも消していく…ということでヴィパッサナー瞑想をするということですか?

その質問には、このままでは答えられません。瞑想の目的と方法をいっぺんに聞いているようです。まず、瞑想の目的のことを考えてみましょう。触(phassa)というのは、眼、耳、鼻、舌、身、意という6つの認識器官に、色、声、香、味、触、法という情報が触れることです。触れたならば、受(vedanā感覚)が生まれます。私がいるのだという実感も、魂や霊魂があるのだという概念も、好き嫌いの問題も、他のありとあらゆる人間の苦しみも、「受」から生まれるのです。この働きを理解した人が、いかなる受(vedanā感覚)にもとらわれないようになります。その状態が悟りだの、解脱だの、涅槃だのといろいろな言葉で言っているものです。ヴィパッサナー瞑想で目的としている解脱は、こういうものです。

次に方法のことを考えてみましょう。サティの実践というものは、その瞬間その瞬間で、現れては消えてゆく感覚を確認することです。ラベリングというのは、眼耳鼻舌身意に触れる色声香味触法をラベリングする、それから、触れることによって生まれる受(vedanā感覚)もラベリングするということです。この仕事を続けていれば、認識過程が明確に見えるようになります。たとえば、耳があって、音がある。この二つが触れたら、聴覚が生まれる。音は瞬間的に流れていくものだから、聴覚も瞬間的に流れている。固定概念によって、音を好き嫌いに勝手に区別するだけであって音そのものは、好きでも嫌いでもない単なる物質的なエネルギーの流れです。音が流れであるならば、私が聞いた、という感覚も瞬間的に流れて消えていくものです。が、人は変化しない自分がいると、智慧がない故に錯覚します。

論理的にヴィパッサナーの構造は、このようなものですが、そのとおりの瞑想実践はむずかしいかもしれません。ですから、膨らむ、縮む、歩く、食べる、などの働きを確認することで、瞑想修行は始まります。何を確認していっても、答えとしては、すべては無常である、何も変化しない実体はないということに目覚めるはずです。

それぐらいのことは、頭でも理解できますが、それは悟りではありません。たとえば、怒るのはよくないのだと皆知っているのですが、だからといって怒らないわけではありません。理解と経験は違うものです。

純粋な感覚も消していく…など、頭で考えるような考え方も捨てて、ただ、確認し続けることでよいと覚えておいてください。

妄想を貪瞋痴不貪不瞋不痴に区別して、ラベリングするためには、どのようにすればよいのでしょうか。

わかりやすくするために、妄想という言葉を使っていますが、それは実際は、意と法とが触れることで生まれる感覚のことです。法という言葉は、わかりにくくてややこしいものです。なぜならば、お釈迦様の教えも法といいますから。この場合の法というのは、意(こころ)に浮かぶすべての現象のことです。たとえば、今の瞬間に、実際に見る、聞く、味わう、などについて、こころで考えたりする。過去のこと、将来のことも考えたりする。ゴジラやウルトラマン、幽霊やお化けなど、実在しないものも、考えます。実在するかしないかに関わらず、こころはいくらでも回転します。そのようなこころの働きをわかりやすく「妄想」という言葉でラベリングします。あまりにも激しく、大洪水のように思考が回転すると、落ち着きも集中力も消えてしまいます。ものごとがわからなくなります。ですからこころの回転はできるだけ控えた方が、集中力が増してきて、智慧が現れてきます。ですが、妄想するな(非思慮、無念無想)といっても、それは、音を聞くな、目を開けていてもものを見るなというようなもので、無意味で不可能なことです。それで、その妄想自体を貪瞋痴不貪不瞋不痴にわけて、ラベリングしてみることを勧めているのです。でも、かなり瞑想を続けて経験を積んでいないと、むずかしいと思います。これは、できればやること、なのです。

それに必要なのは、ラベリングするための、貪瞋痴不貪不瞋不痴の定義です。そのなかでも、貪瞋痴は比較的理解しやすいものです。我々の思考のほとんどが貪瞋痴ですから。貪の妄想ー自分の好みの思考です。好きな、やりたくなる、妄想です。妄想して(考えて)楽しいこと。瞋の妄想ー暗い思考。いやな気持ちになる思考です。自分の好みと反対の感覚。痴の妄想ー好き嫌いどちらとも言えない、ただ流れていく思考。たとえば、うとうとしているとき、流れる思考など。

不貪不瞋不痴の思考は、むずかしいですし、頻繁に生まれるものではありません。また、貪瞋痴が不貪不瞋不痴の仮面をかぶることもよくあります。不貪の妄想ー慈しみの思考です。他人を助けたい、やさしくしてあげたい、という気持ちです。人のことを心配する気持ちなどです。不瞋の妄想ーこれは、怒りの反対の気持ちですから、他人に対するやさしさでしょう。また、人の過ちを理解できる、許せる状態。ひとつの例で考えてみましょう。たとえば、人が大きな声でしゃべっている。それを、うるさいと思うと怒りの妄想です。いやな気持ちが生まれています。そういう気持ちが何もなく、あの人の声はかなり大きいですね(ラベリングとして「大きい声」)、と認識することが不瞋です。不痴の妄想ーわかりやすくいえば、ヴィパッサナー実践でラベリングすること自体が不痴の妄想です。いわゆるありのままに見られること。善悪判断なしに、欲です、怒りです、音です、などの認識をすることも不痴です。また、ものごとは変化するのだ、変わらぬものは何もないのだ、すべてが苦であります、などの思考も不痴です。

このように、妄想のラベリングができるようになると、瞬時にこころが落ち着いて、集中力が増してきます。智慧が発達してきます。だからといって、無理やり、自分の妄想を貪瞋痴不貪不瞋不痴に分けてラベリングしようとしても、混乱するだけで、早くも疲れてしまいます。始めるタイミングが必要です。まず、洪水のように妄想が流れていくとき、その場合は、貪瞋痴のどれかだろうと思います。次に、かなりサティの実践ができて、ゆっくりと思考が流れるとき。たとえば音が聞こえたとする。その音はきれいだと感じたりする。その場合は、音、と確認する。そして、欲が生まれたと確認する。この二つのタイミングを覚えておきましょう。妄想を区別してラベリングするのは、できれば、の話です。できなければ、妄想、妄想だけで結構です。