生命(死を想うことの効用)
瞑想もしているのですが、体調もすぐれないので、このごろ死のこともときどき考えます。やはり怖いと思います。「死」とは人間にとって何でしょう。
一度も死んだことがないのに、「死」が怖いというのはおかしなことなんです。怖いというのは感情であって、経験ではありません。死は単なる事実です。心がそれを知っているのです。生は死に基づいて成り立っているのです。どういうことかといえば、死が事実だからこそ、我々はがんばることができるのです。もし誰ひとり死なないとしたら、どういうことになるでしょう。死なないなら、ぜんぜんがんばることもないのです。会社でなぜまじめに働けるかというのも、やはり「死」を知っているからです。クビだと言われたら困るからです。会社がいくらクビにしても、ごはんが一粒もなくても、寝るところがなくて雪の中に寝ても、人は死なないで元気だというなら、何もしないのではないですか。うちで寝ているときに火事になっても、死なないなら、面倒くさいからもう1時間くらい寝ていよう、と言って寝てしまうかもしれません。
でも我々は瞬間瞬間、ずっとがんばっているのです。ガスの元栓は切るし、電気は消すし、鍵も確認するし、会社で真剣に仕事するし、料理のときも塩は適量入れますよね。塩は安いからと言って1キロ入れてしまったら、食べられないだけでなく、食べてしまったら死ぬ可能性があるからです。ですから我々は、しっかりがんばってしまうのです。頭も冴えているのです。それは、死の事実があるからなのです。「死」ということを知っているから、いつでも頭が冴えている。ふらふら車道に出ていったりしないのです。
お聞きしていると、死を肯定されているようですね。死を肯定していくと、問題が起きると思うのですが。
死を肯定するか否定するかという単純な話ではないのです。私が言いたいのは、死があるからこそ、我々は「生きる」という努力をするのだということです。生命の原動力は「死」です。「死」を悪魔扱いして逃げ回るのではなく、明確に理解する必要があります。死は絶対避けられないものだと理解した人こそ、「では『死』までをどのように生きればよいのでしょうか」と考えるのです。
死については、どの宗教も深い関心があると思いますが、どの宗教でも同じことしか言えないと思うのです。仏教ではなにか特別なことを言っているのでしょうか?
死に対する仏教の見方は、他の宗教とかなり違うところがあります。宗教は多かれ少なかれ、死に対して悲観的です。永遠の天国があって、死後にはそこに生まれ変わりたい。天国に生まれ変わった人は、ユーモラスに言うなら、『死』に対して「ざまあ見ろ。オレはもう不死だ。死なせられるものなら死なせてみな」と言える状態になるのです。それはどういうことでしょう。つまりは『死』から逃げる方法しか考えていないということなのです。それで、確固たる事実である『死』をごまかすのです。人が死んだことを「永眠、他界、安らかな眠り、成仏、逝去、神に召された、天寿を全うした、旅立ち、来迎」などの言葉で美化します。死がそれほどの祝事であるなら、どんないい加減な生き方をしてもかまわないのではないかと言いたくなります。あるいは、死が早ければ早いほどありがたいのではないかとも思えます。
仏教の立場は違います。仏教は『死』を、以下のように観察します。「生まれるものは皆死ぬ。生は死とともにある。今まで生きていたものは皆死した。今生きているものも皆死していく。故に私も必ず死す。死へ向かって生きている。水の上に書かれた線が必ず消えるように、生きているものは必ず死ぬのだと、また生は危ういものであり、死だけが決定的なものである」と、日夜観察するのです。この見方は楽観的でもなく悲観的でもない。ただ事実をありのままに観るだけです。
仏教の考え方はわかりますが、そのような見方をすることは、人間にとって何かメリットでもあるのでしょうか。
確かにあります。確実に死ぬのですから、『死』自体は何の自慢にもならない、つまらない、あたりまえのことなのです。死ぬとき問われるのは「あなたはどのように生きてきたか」ということです。死が有意義か無意味かは、生き方で決まるのです。ですからいい加減には生きていけなくなります。日々を大変真剣に、また罪を犯さず、清らかに生きていかなければならなくなります。そこで生きることに意味が生じます。私が時々、自殺は腰抜けで負け犬だと言うのも、死は自慢にならないからです。勝負は『生』にあるからです。
しかし死ぬときは一瞬ですね。どんなに頑張っていても、やりかけのことがあっても、死んでしまいますね。
そうですね。それでも人は、死ぬ瞬間になってもいろいろと心配しているでしょう。あれをやらなくては、子供は大丈夫だろうか、借金を返さなければならない、あるいは貸したお金を返してもらっていない…でも、どんな状況でも、その人が死んでしまえば、お金を貸したままでも死んでしまうのです。赤ちゃんがいる母も、いくら赤ちゃんがいても、死ぬときには死んでしまいます。つまり我々は、一瞬にしてすべてを捨てるときが来るのです。ですから仏教では、死というものを、とことん観察しようと言っているのです。観察して、リラックスしなさいと。「死の瞑想」というものがあります。死の瞑想をする人は、どんどん明るくなるのです。常識的な世界では、「死」というのは口にしない言葉、嫌う言葉です。でも「なぜ人間は死を嫌うのか」、わかっていないのです。黒い服を着たり塩をまいたり、死を嫌うしきたりや風習もたくさんあるし、何かあってはいけないようなことがあった感じで、どれほど理屈が通っていないことかおわかりでしょう。先ほど申し上げましたように、人間、死がなければ、何もできません。「死」というのは、とてもありがたい概念で、とことん観察すればするほど、頭は冴えるのです。それを世の中では否定する。お釈迦さまだけが、「死」をよく観察しなさい、1分でも自分の死を念じる人は、徳を得るのだとおっしゃっています。
しかし、死は悲しいものです。親しい人の死に接したとき、常識的な人間であれば、涙も出るし、それが親しい人であれば、いつまでもいつまでも悲しみます。
ここにもときどき誤解があります。悲しくなるのは、自分が優しい人間だからだと思っているのではないでしょうか。亡くなった相手のことを考えて自分が悲しんでいるというのはちょっとした誤解であって、よくよく考えてみると、自分に「損」があるから悲しいのです。他人の死によってまったく損をせず得をするということなら、同じ状況でも悲しくないのです。結局自分の欲で泣いているのです。よその国のまったく知らない他人が死んだと聞いても悲しくはないでしょう。まったく平気でおれたりするのです。
本当に優しい人は、どんな人が苦しんでいても、その人と同じように痛みを感じる。この人々が幸福でいて欲しい、と思う。たとえばセルビアの子供が大人の戦いに巻き込まれて、足を失った姿をテレビで見て心に痛みを感じるなら、それは自分には損も得もない、優しさなのです。
我々が通常、親が亡くなった、子が亡くなった、だんなが亡くなった、奥さんが亡くなった、といって泣くときは、自分がなんらかの損をするからだと考えて間違いありません。そういうことがあっても泣かない人を、血も涙もない人だというかもしれませんが、そんな常識は、仏教では常識とはいえません。そういう世間の「常識」に従うのではなくて、心の中でじっと真理を見つめていくと、心静かになるのです。心静かになって、物事が見られるようになってくるのです。