功徳と善行為について
もし、大阿羅漢がどこかのサンガに集っている事がはっきり解ったら、そこのサンガへの布施よりも大きな徳を積める御布施は存在しますか?
言語的にはサンガは「グループ」という意味です。この場合の「サンガ」とは仏弟子のすべての比丘たちを意味します。
釈迦牟尼仏陀に個人的にする布施よりも「サンガ」に対する布施の方が徳は高いです。
仏陀の言葉に「ゴータミーよ、サンガに布施をしなさい。サンガに布施をしたならば、私にも布施をしたことになります」とあります。
注:仏母ゴータミー比丘尼が「仏陀たるわが子のために」と思って時間かけて手作りの衣を織って染めて、袈裟を作って差し上げようとしたときの仏陀のことばです。お釈迦様も自分の母により大きい徳を積んで欲しかったのでしょう。故に、ゴータミー比丘尼よりも年下の、仏陀の弟子達にさし上げるように教えたのです。
サンガへの布施は、仏陀にも、大阿羅漢達にも、阿羅漢果下の聖者達にも、その他のすべての比丘たちにも行き渡るものです。サンガには大小が成立ちません。大きいのか小さいのかということを考える必要はありません。(たとえば日本国といえば日本国であって、小日本国、大日本国は成立ちません。)徳を無限大にするか、大にするか、中にするか、小にするか、無にするか、非にするか、負にするかは、さしあげる側の気持ちと理解の問題です。
積む功徳の大きさは、相手ではなく、自分のこころによってきまるのでしょうか。
違います。功徳には二種類あります。ひとりで行うことができる「戒を守ること」「瞑想実践すること」などがひとつです。もうひとつは、相手があることによって成り立つ布施をすること、看病することなどです。ひとりで行うことによって成り立つ功徳の場合は、自分のこころの徳によって功徳が大きくなったり小さくなったりします。相手がいて成り立つ功徳の場合は、功徳の価値が高くなる方程式があります。布施を例にして、高くなっていく順に書くと、
- こころ汚れた人がこころ汚れた人に布施をする(自分も悪いことをする人間で、悪いことをする人間に何かしてあげることです)。この場合も、必ず功徳を積めます。
- こころ汚れた人がこころ汚れていない人に布施をする。この場合、功徳は、もらう側の持つ徳が大きければ大きいほど大きいものになります。
- こころ清らかな人がこころが汚れた人に布施をする。この場合は徳の高い人が相手の悪事を気にしないで慈しみのこころで布施をするのですから、より功徳の功が大きいのです。
- こころ清らかな人が、こころ清らかな人へお布施する。この場合、功徳の功がいちばん大きいのです。
この方程式から解ることがひとつあります。我々には他人のこころを知ることも難しいし、管理することもできないのです。相手のこころが清らかだろうと自分で推測することしかできないのです。自分で自分の心が汚れているかいないかは知ることもできるし、汚れたこころをきれいにすることもできるのです。ですから功徳を確かなものにしたければ、管理できる自分のこころをきれいにすることになります。相手の徳によっても、自分のこころがきれいにはなりますが、この場合はあまりにも受動的で、自分の意志の力が弱いのです。功徳を大きくする決まり手は、意志の強さです。意志は自分で管理できるものです。
貪瞋痴で汚れた行為は悪で、不貪不瞋不痴のこころで行う行為は善だと聞きました。自分のこころの状態は我々にそう簡単にキャッチできないのです。どのように気をつければ悪行為をしないですむのでしょうか。
貪瞋痴が激しいときは簡単にわかりますが、それほど激しくない場合は区別できないことは確かです。実践してこころを観られる智慧を開発すれば問題ないのですが、はっきりとわかるほどの悪行為をするようになったら、元も子もなくなります。ですから、すぐ善悪判断をできなければいけないのです。その方法を説明します。
それは結果を見ることです。まず、何か行為をしたくなったときは、その行為をすることが自分にとってメリットがあるかどうか考えてみる。自分にはメリットがあるとわかったら、次にまわりの人々にメリットがあるかないかを調べてみる。もしまわりの人にもメリットがあるとわかったならば、さらに、世界に、人類に、生命に、自然に、この行為によって何かメリットがあるかないかを調べる。この3つのテストを通過したならば、完全な善行為です。その行動をすればよいのです。
この3つともを通過する必要があるのでしょうか。自分にメリットがあるという一つの条件でも善行為ではないかと思ってしまうのですが。
これは、例を見ながら考えると理解できると思います。ある人が、ストレスがたまって、こころが暗くなり、何とかストレスを解消して明るくなりたいと思ったとします。そこで、自分の家で大きい声でしゃべったり、カラオケで歌ったり踊ったりします。本人にとっては速効的な行為でメリットがあるでしょう。でも家にいるほかの方々にとっては最悪の状態になってしまいます。皆の楽しみ、落ち着きが、跡形もなく消えてしまう。ですから、まわりの人々にもメリットがあるかどうかを調べるべきなのです。では、その同じ人が、家族にとっても楽しいことだからハイキングでも計画したとします。すると自分も明るくなって家族も明るくなる。キャンプ場でバーベキューをやりながら、自由自在に遊びます。けれども他人のこと、まわりのことに気がつく余裕がなくなって、不注意で山火事になったり、あるいはとなりのテントまで燃えたとします。その場合は自分と家族にはメリットがありましたが、社会にはデメリットになったということです。ですから明らかに悪行為になります。
我々の科学発展は、人間だけの一時的な利益を考えた結果、自然破壊につながってしまいました。資源が底をついてしまって、楽に生きられるはずの行為が逆の結果になりました。これは行為を、上に述べたような3つの立場から検討しなかったからです。