慈悲の瞑想②
☆慈悲の瞑想(前号からの続きです)
「私は幸せに生きたい」「私は真の平安を得たい」と願うのはエゴでしょうか。
エゴとは何でしょうか?
自分のことのみを考える。合理性も具体性も関係なしに考える。他人のことを忘れてしまう。他人のことを気にする余裕がない。自分のことだけを考え、妄想しすぎになると、エゴになるのです。エゴイストは精神的な病気です。
この場合も逆に考えてみるとよいのです。「私は幸せに生きたくない」「私は真の平安は得たくない」と。そう考えると「違うんだ」ということがわかるでしょう。こころの正直な叫び声が聞こえるでしょう。ですから正直なところは、どんな生命でも幸せに生きたい、真の平安を得たいということです。その、こころの正直なところに戻ってほしいのです。偽善的な人間、見た目だけの善人になってほしくないのです。
ですから「私は幸せに生きたい」というのはエゴではないのです。エゴというのは「私だけ幸せになりたい。他人のことは関係ないんだ」と思ってしまうことです。そのようにエゴとは何かを考え、理解した方がいいのではないかなと思います。
「私は幸せに生きたい」という思いを捨てない限り、悟りは得られないのでしょうか。
「我執を捨てない限り、悟りは得られない」という教えを誤解しておられるようです。
お釈迦さまは「悟りは最高の幸福である」とおっしゃっています。ですから、「幸せに生きたい」というその衝動が、悟りにまで人を成長させてしまうのですよ。
悟る人は我執を捨てるのです。エゴイストのこころの終末です。
人は自分に『私』という実体があると錯覚して、『私』に囚われて苦しむ。『私だけ』という世界に生きていて苦しむ。
仏弟子は、『私だけ』という世界はあり得ないのだと理解します。すべては無常であって実体は存在しないと理解するのです。『私』という実体はないとわかると、悟りを開けるのです。それですべての苦しみが消えるのです。すべての苦しみが消えることを目的に努力するわけだから、「幸福でいたい」「楽になりたい」という気持ちは決して邪魔にはなりません。
「私の悩み苦しみがなくなりますように」と念じる際、「存在はすべて苦であるということを私が理解しますように」という気持ちで念じてもよいでしょうか。
この場合も、思考が曖昧になっています。ですが、決しておかしい考え方ではないのです。
「存在は苦である」というのは、真理であって、事実です。でもこの場合は慈悲の実践ですから、「私の悩み苦しみがなくなりますように」と念じてこころを清らかにすることを目指しています。慈悲の実践で、存在が苦であることが理解できるかどうかは、少々疑問です。存在がすべて苦であることは、智慧の領域のことであり、ヴィパッサナーの実践で理解することです。
慈悲の実践の場合は単純に、「苦しみがなくなりますように」と念じた方がいいと思います。この二つの実践の目的は仏教用語で心解脱(慈悲)、慧解脱(ヴィパッサナー)と区別しています。
私は、「幸せに生きたい」と願うこと、これもまた渇愛ではないかと悩んでおりましたが、そうではなく、これは願いではなく、「幸せに生きたい」という思いの気づき、確認であると理解してよろしいでしょうか。
それでよろしいと思います。「幸せに生きたい」ということがどこで渇愛になるかといいますと、「とにかく生きていきたい」、あるいは色々な欲に溺れて「欲を楽しみたい、そのために生きていきたい、死にたくない」と思うことが渇愛なのです。生きることは苦しみであって、その苦しみは渇愛から生まれます。ですから「渇愛から離れて心に平安を感じたい」と思うことが、渇愛から離れることなのですね。ですから、「渇愛から離れることが幸せである」と理解して、実践した方がいいのではないかと思います。
「生きとし生けるものが幸せでありますように」というのも、希望、願いではなく、そういう心で生きよう、そういう心を育てよう、という気持ちの確認であると理解してよろしいでしょうか。
「生きとし生けるものが幸せでありますように、という気持ちで生きていますよ」と、その確認ですよ。ですからこれは、人の生きる哲学なのですね。
人に「あなたは何のために生きていますか」と訊かれたら、その場合はこういう答えになるのです。「別に何のためという目的はありません。まだ死んでいないのだから生きている。でも生きている上では、すべての生命に幸福を願いつつ、すべての生命が幸福になるような生き方をします。それが私の生きるポリシーです」と。
心が入れ替わって、このような人間になるまで実践しないといけないのです。ですからこの質問はおっしゃる通りだと思います。