あなたとの対話(Q&A)

仕事

長老のご著書『恐れることは何もない』の中で、八正道に関するご説明があります。
その二番目の「正思惟」の中で、非暴力に関して、法律もひとつの暴力であって、軍隊や警察は法律を盾にとった一種の暴力団体であるという内容でした。

これは軍隊を設定する思考のことです。表向きには「国を守る、犯罪から国民を守る」機能として、相手を脅すことで成り立っています。反逆者に晩餐会を開いて仲良くしようとする軍隊があるかどうかわかりません。軍事力が強い場合、政府がたとえ独裁的で悪政治であろうとも一般国民は立ち上がれないのです。
考え方は「暴力で抑える」ではないでしょうか?

長老のいわんとしている事は「他に害を与える仕事はするな」という事でしょう。違法な行為やうしろめたい事をやって儲けるのは確かに良くない事だと分かります。
が、合法的ではあっても、仏教的に見て正しくない職業というものもあるということでしょうか?

いっぱいあると思います。共産主義の国家が合法的に独立運動を抑えることはいかがでしょう? 殺生は良くない。だとすれば保健所が飼い主のない犬や猫を処分することは? 大量な酒の製造は? 合法的なカジノは? 武器の開発は?

軍隊の人々や、警察官という職業は、法律上は認められております。しかし、もし暴力団体という事であれば正しくない職業という事になってしまいますね。

警察官、軍隊などは合法的な暴力団体ですが、違法暴力団体もあります。警察の場合は暴力を振るわないで法を守ることもできますので、正しくやろうとすれば出来る仕事です。
仏教的に「正しくない職業に入るか入らないか」は私にも疑問です。仏典ではこの間題に触れていないのです。軍隊について語ることは、直接政治に触れることになります。民主主義国家で平和な国であるならば問題ないでしょう。しかし、警察、軍人は上の命令に疑問を抱くことなく従うべき身分です。故に人間としての自由がないのです。その仕事を合法的に辞めて自由にならない限り、出家は禁止です。

確かに長老のおっしゃるように、軍隊や警察が法律を盾にとった暴力団体の一種であることは否定できないと思います。警察なら、罪を犯した人達を捕まえて刑務所に入れる訳ですから、捕まえられる人達にとっては暴力的行為でしょう。そういう意味では、法律の裁きを行う裁判官なども同じ部類になりますね。

罪を犯した人を刑務所に入れるのは皆のための行為ですから、それが犯罪者にとって暴力であっても悪い行為ではありません。正しい行為です。しかし犯人は簡単に捕まえられますか? 真犯人がわかるまでの過程はいかがでしょうか? この点で日本はまだいいのですが、諸外国のいくつかは最悪の状態ではないでしょうか。警察の暴力は世界的によくある、ごく普通のことです。警察官は素晴らしい仕事です。
が、犯人を捕まえるためには関係がある人にもない人にも暴力を振るう習慣のある国で警察官になったら、自分でも罪を犯すはめになります。自分だけ違うと言って逃げることは不可能です。

裁判官はまた違います。違法にならないように証拠を評価することが仕事ですから、良い行為です。判決は自分が決めるものではなく法律が定めたものだから、個人には関係のないことです。定められた法律自体が不公平に見えたならば、それを言い出すことも裁判官には出来るので、罪にならないように仕事ができるのです。

一方弁護士さんは、被告側の罪を軽くするために働くのが主な職務でしょうから、良い仕事ということになりますね。

これは日本だけのことでしょう。真理は普遍的見地から考えるものです。外国では弁護士は一般的に、犯人を無罪にすることで精一杯です。

スリランカで1956年に総理大臣になった人は、天才的な弁護士でした。負けたことは一度もなかったそうです。ある日彼は、明らかに犯罪者だと知っていた人の弁護をして無罪を勝ち取りましたが、「自分まで罪を犯したくない」と、それを限りに弁護士を辞めました。アメリカは更にひどいのではないでしょうか。そこで弁護士にとって大切なのは、犯罪かどうかではなく、依頼者がお金を払えるか払えないかでしょう。お金さえあれば勝てる状態になっている法律の世界も、それほど清らかな職業とはいえないかもしれません。

法律に関して言えば、刑法は犯人に罰金や懲役など刑事罰を与えるものであり、警察。検察がそのために働くわけですが、民法の方は、トラブルの当事者間の争いに裁判官が審判を下すという形式をとります。訴えられる側は訴える側に損害を賠償したりするのですが、刑務所に入れられる等の罰は受けません。例えば、何らかのダメージを受けた人がいて、ダメージを与えた人に慰謝料を請求する訴えを起こすという形で、警察も関与しません。このような行為は、ダメージを受けた側が自分の意思で相手に対し損害を賠償して欲しいという思いで行うものであり、正当な権利のような気がするのですが。

当然、正しい行為ではないでしょうか。不公平は良くないでしょう。民事裁判は不公平な出来事を公平にすることです。ダメージを与えたら損害賠償するということは、出家比丘たちの間でも行なうものです。お釈迦様がそれを戒律で定めています。

これ程細かくお聞きするのは、私自身が仕事として民事的なトラブルを扱う仕事をやっているからです。不正な手段は使わないよう心掛けておりますが、調査して得られた証拠が裁判の資料として使われるケースは出てきます。仕事の結果は、トラブルの当事者の一方に有利に働きますが、他方、つまり調査する対象者にとっては不利に働くわけですね(慰謝料を支払わなくてはならなくなる等)。しかし、依頼者にメリットがあるから仕事があるわけだし、調査自体は真相究明に役立つものであり、依頼者に正当な理由があるのだから、調査自体も暴力的行為ではないし、依頼者の行動も暴力的行為ではないと思えるのです。
これも長老のおっしゃる非暴力の考え方からすれば、良くないということになるのでしょうか? もしそうなら、弁護士さんも、民事裁判等では一方の有利になる為に働いて報酬をもらう以上、その相手にとっては不利になるのだから、良くない事になってしまいます。「仕事が罪になるようならやめてしまえ」という長老のお言葉を真剣に受け止めておりますので、アドバイスを宜しくお願いします。

人は間違いを犯します。いくら「間違わないように」とがんばっても失敗は起こるものです。
その時は「不公平」ということも起こります。
それを本人が気が付いて処理するならば良いのですが、殆どの場合は隠したくなります。それもまた、相手に対して不公平です。不公平を公平にすることが善行為です。がんばって下さい。

罪になる仕事というのは、人を殺すこと、強盗をすることなどです。武器、毒などの製造も罪になります。人間の売買も大罪です。これらは一日も早く辞めることです。また、自分では「あまりきれいな仕事ではない」と悩みながら仕事をすることはつらいです。「立派な仕事をして家族を養っているのだ」と自慢できる仕事をしていれば、たとえ収入が少なくても幸福だと思います。

他にも、合法的ではあっても正しくない職として、動物を殺してしまう漁師さんなどは当然として、殺生自体はしない食肉加工販売店(魚屋や肉屋等)、お酒を売ったリ出したりする仕事(これは現在、食料品店や飲食店では一般的です)も、飲酒を奨励しているという点で良くない事になりそうですが、五戒を守るというだけなら、自分が殺生したり飲酒したりするわけではないから悪くないという気もします。

昔と時代が変わっていますから何ともいえないところも確かにあります。商売するなら沢山売るために励むのは当たり前のことです。そうすると肉、酒を沢山売らなくてはならないことにもなります。結果として、沢山動物が殺されるし、酒で沢山の人の頭が悪くなります。自分で罪だと思って飲まないものを他人に売りさばくことが倫理的かという疑問もでてきます。完全な善は無理ですから、最大限の善、最小限の悪で生きるしかないのではないでしょうか。仏陀の時代の仏教徒の生き方もこのようなものでした。完全に戒を守り、全く罪を犯さずに生きることが無理だとしても、善悪に対する正しい理解は必要です。これは正見です。真理と実践の差が本人にも理解できますから、偽善にもならないし、倣慢にもなりません。「正見の人は悪趣に堕落しません」と仏陀は説かれています。

私は会社で管理職の地位に就いている34歳の男性です(家庭もあり、子供が3人います)。会社では中間の地位にありますが、自分に能力がないので、それがかなりのストレスになり、今自分を見失いそうです。能力の開発は自分なりに努力しているのですが、追い付かないのが現状です。会社は辞めたくはありません。どう努力すれば良いかアドバイスをお願い致します。

無意味な能力開発思考を止めて下さい。今まで能力を開発するために真面目に努力をなさったと思います。それなのに結果が「自分を見失いそう」であるならば「アホらしい」努力を止めるのが賢明な判断です。何故いつも、「能力、能力…」ばかりを妄念、妄想、妄言、妄作して、自分が本来もっている体力、精神力、活動力を浪費しているのかと観察してみて下さい。自分のことだからおわかりだろうと思います。暗くて小さな箱の中に入って生活しても、箱の壁に針で穴を開けて目を当てると、「なんと摩訶不思議」な世界が見えるのではないでしょうか。

でも、穴から見える世界は箱にいる人にとってあまりにも大き過ぎ、箱を破ることは出来なくなるのです。「自分も世界ほど大きかったならば箱を破れるのに」と思うでしょう。箱を破った人々が世界と同じ位大きかった訳ではありません。この「自我」という箱を破っても破らなくても、自分の大きさは変わらないのです。問題は、箱を破るか、破らないかにあります。自分が大きくなるべきか、強くなるべきか、美しくなるべきか、醜くなるべきか、もっと若くなるべきか等は問題にならないのです。問題として考えてみても、どうにもならないことです。自分という存在を変えることはできないのです。それは猫を犬に変えることと同じです。猫は犬になることを考えずに、猫として何ができるかを考えればいいのです。能力のことはどうでもいいですから、自我(自分のことばかり過剰意識すること)を壊して下さい。これだけではわからないと思いますので、具体的な意見を述べさせていただきます。

「能力がない」と泣いている人々は、外を見て、「誰々さんのようになりたい」と思っているのです。何かを見たら、何かに驚いたら、感心したら、それと同じになりたいと思ってしまいます。このように思う権利は子供のもので、大人にはないのです。大人は〇〇さんにも××さんにもならないのです。

陰気な能力開発を永久的に止めて「今の私に出来ることは何ですか」と問うてみて下さい。自分に聞いてみてください。34歳で管理職で、中間の地位と言えばうまくいっているほうではないでしょうか。自分に出来ること、自分だけに出来ることがいっぱいあると思います。

自分の人格が固められる歳になりましたから、「雲を追う」人生ではなく「土を掘る」人生を生きることです。
自分にできることだけを果たして下さい。自分に出来ることにのみ力を入れて下さい。
自分にできることについては「他人が口を挟めないように」と精進してみてください。(だからといって、他人や世間が自分を批判しないということにはなりませんが)

この世が必要としているのは、能力ある人ではなく役に立つ人です。自分が役に立てばよいのです。能力バカではなく、役に立つ人が可愛いのです。

自分の仕事を喜んで下さい。果たす一つ一つの仕事について「うまくいった、これで良し」という気持ちを味わえるように努力してください。あなたはもしかすると真面目に仕事をしない人間ではないかという疑いが私にはあります。真面目に仕事をしなかった場合、後味が悪くてこころが後悔することになります。他から批判もされます。批判は的中しているから、さらにこころが傷つきます。そのときこころは逃げ道として“能力”という鎧をかぶります。

仕事の仲間に慈しみを育ててください。彼らが、敵でもライバルでもなく、運命を共にする兄弟だと、親しみが育つようにしてください。後輩の才能、能力に(あればの話ですが)正直に驚いてあげてください。誉めてあげてください。そして、それに助けてもらうようにして下さい。

先輩の能力、才能についても誉めてあげる習慣が身に付くようにして下さい。人生を楽しんでください。

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