妹をなぐさめてあげたい
妹は53才の時に癌が発見されました。手術後も転移が見つかり、とても悲しくなりました。私は泣き出しました。妹の気持ちがどのようなものか考え付かないのです。私に想像できないほどショックを受けていることには違いありません。妹にどのように話しかけたら良いかわからなくて混乱しています。
混乱したり、悲しくなったりするのは当たり前のことですね。しかし、この悲しみも一種の癌のようなもので、どんどん増殖していきます。「悲しむなかれ、人は誰でも病気にもなるし、必ず死ななくてはならない」云々と言っても何の効果もないし、正しい言い方でもないのです。相手のことを大事に思えば思うほど、悲しみは強くなります。これは「愛と憂いの不可分関係」です。だからといって「親しい人たちのことを大事にしないで無視する態度をとればいい」ということにもなりません。悲しむのは避けられないからどうにもなりません。しかし悲しみが増殖しないよう、悲しみの癌でみな冒されないように気を付けなくてはならない。これは、仏教徒が取る態度です。
悲しみを増やさない、よい方法はありますか?
それは確実にありますよ。
「時間が経てば忘れる、ほかのことをすれば忘れる」などと言う人がいるかもしれませんが、仏教的な、知的な処理法ではありません。まず、なぜ悲しみなどが増えてコントロール不可能な状態になるのか、またその結果、さらに不幸になってしまうのかを考えてみましょう。
病気になったり、不幸になったりすることは自分には起こらないことだと、誰もが常日頃思っているのです。ですから、「なぜ私が、なぜうちの家族が、なぜうちの子が?」と思ってしまうのです。それで、自分だけ特に不幸になっているのではないかと妄想するのです。不幸に出会っていない人、病気にかかっていない人を見ると、更にその気持ちは強くなって行くのです。そして、自分に対しても他人に対しても、怒り、憎しみを増幅し、また自分自身はどんどん落ち込んでいくのです。「この世には神も仏もいないのではないか」と泣き叫ぶ姿は、自分勝手に増幅した悲しみ、怒り、憎しみを表しています。自分が、また家族の誰かが病気になったり不幸に遭遇したりした時というのは、普段よりさらに何倍も元気に明るく努力しなくてはいけない時なのに、不幸から不幸へと走っていってしまうのです。たとえで言えば、机の上にある新聞に火がついたところ、それに油をかけてしまい、さらに火があがるのを見て、またさらに油をかけて家を全焼してしまうようなものです。ですから、「なぜ? なぜ?…」と余計な妄想をすることは禁物です。起きたことはもう起きてしまったこと、過去のことはどうでもいいことです。問題は「これからどうするのか」ということです。それぐらいわかっていると思うでしょうが、実はわかっていないのです。それが証拠に「どうすればいいかわからない」と言っているのではないですか。また、あまり先のことを考えるのも余計で、妄想になります。高価なグラスが割れたとしましょう。「代わりのものを買えるか買えないか、どれぐらい損をしたか、なぜもっと大事にしなかったのか」云々と考えてはいけないのです。「グラスが割れた。ではどうすればよいのか? 破片を片付けましょう」と次の瞬間の行動を考えれば十分です。人が癌になってしまっても、「今日はどうすればいいか、明日はどうすればいいか」程度のことを考えて行動するのです。このように行動してみると、不思議にすべてうまくいくはずです。末期の場合も「死んだらどうなるのか? 本人にどう説明しようか? どのように慰めればいいか?」などとくだらないことを考えるのでは火に油です。末期の人は、まだ、死んでいるわけでもないし、いつ死ぬかは医者でさえもわからない。事実は、今日もその人は生きているということです。今日一日楽しく、優しく愛情と慈悲に溢れた付き合いをすればよい。それしかありません。
それは仏教の見方ですか? 仏教ならば、業や輪廻転生や理解しにくい宗教概念もあるでしょう。
今お話ししたことは仏教的アプローチです。仏教徒はこのように考えます。「業や輪廻転生などは釈尊しか完全に理解することはできません。我々は、そのような理解できないことに困る必要はありません」。
業というのは、因と果の話です。原因があると、結果が出ます。「癌に冒された」のならそれなりの原因があったことは確かです。「癌が治りました」というとまた、それなりの原因があったはずです。だから「なぜ? なぜ?」とくだらない、ネガティブな思考は決してしません。今の生き方は次の生き方を形成する原因です。ですから、「今、明るく、慈しみに溢れたこころで行動するしかない」と何の迷いもなく決めるのです。
輪廻転生の概念からみても、明るく清らかなこころで生きていなくては来世も危険ということになります。人は、癌であろうが、脳梗塞であろうが、リュウマチであろうが、風邪であろうが、末期であろうが、毒を飲ませても死なないほどしぶとい体であろうが、日々明るく、慈しみに溢れた生き方をするしかないのです。今よい原因を作れば、次にはよい結果が現われるのです。
言葉による慰めは絶望的、何の意味もないと実感しています。上座仏教では言葉をどのように考えているのですか。それともそれなりに大事にしているのでしょうか。ヨハネ福音書に「はじめに言葉ありき」とありますよね。それと比較したらどうなのでしょうか。
あなたの実感について後で話します。ヨハネ福音書に何を記してあっても上座仏教に関係はありません。仏教徒にとって、それは単なる文学的なフィクションに過ぎないのです。上座仏教から見ると、はじめに「犬」がいて、それからその動物に「犬」と名付けるのです。「はじめに言葉があってそれから天地創造だ」いうのは「椅子という言葉があるから椅子が作られた」という論理になります。上座仏教から見ると「そんなアホな」(笑)という感想でしょうか。ですから、ある働きをする品物に「椅子」といってもよいし、chairと言ってもよい。der stuhl (ドイツ語)でも、āsana(パーリ語)でも、sedia(イタリア語)でも、kiti(スワヒリ語)でも、kursi(インドネシア語)でも、la chaise (フランス語)でも、kalahtain(ミャンマー語)でもよい。大事なのは言葉よりもその言葉が伝えようとしている意味です。
言葉は無意味なものではないのです。意味を運んでいるから、とてもとても気をつけて使うべきものです。うかつに言葉を使うと大変危険です。だからこそ仏教では、嘘をついてはいけない、粗暴語を使ってはならない、噂を流してはいけない、無駄話はやめなさいと言っているのです。この四つは罪とされます。悪果をもたらす原因です。
「言葉による慰めは絶望的、何の意味もない」と「実感している」というのは、嘘を言っているからです。空っぽの言葉を喋っているからです。感情も、意味も持っていないからです。「何かを言わなくてはならない」と思って何かを言っているからです。美辞麗句を連ねているからです。このような「浮いた」言葉を使うと、「慰めるつもり」は逆効果になります。
正直にならなくてはいけません。こころのなかで相手に対する慈しみが、実感として湧いてこなくてはいけません。「できることなら治ってほしい」という気持ちがなくてはなりません。治らないのは事実だとしても、「できることなら治ってほしい」という気持ちは正直だと思います。このように、自分のこころを慈しみの気持ちで一杯にして、その感情、その気持ちを正直に言えば、確実に悩んでいる人の慰めになります。生きる力と喜びが湧いてくれば治る見込みのある病なら、たちまち治ります。末期の場合も、病気を気にせず明るい気持ちで残された時間を過ごせます。
正直な気持ちを伝えてください。その言葉にはかなり力があります。「あなたの病気は末期だよ~」と言うのは事実を言っているのではなく侮辱です。女性に向かって、「あなたは不細工ですよ~、気持ちわるいですよ~」と言うのと同じです。「私も本当に悲しいですよ~、ショックですよ~、夜も寝られないですよ~、御飯も咽が通らないですよ~、悲しい顔を見るとたまらないですよ~、悩まないで明るく楽しくしていれば治療の効き目はあがるはずですよ~」などの言葉はいかがでしょうか。仏教徒は患者にくだらないことを考えさせません。その時、罪になる思考をしてはいけませんと叱るのです。代わりに、慈悲の瞑想をさせるのです。
子供への執着・心配がある人にどのように対処したらいいのでしょうか?
親戚も財産も、自分の身体も、死ぬ時は捨てるものだと伝えるのです。「自分のもの」といえるものは何一つもないことを教えるのです。我が子でも、己の意志の通りには成長しないと事実を言うのです。たとえ百歳まで生きていても子供に大したことをしてあげられません。余計な心配をすると、かえって子供は「キモイ」と思うことに悟らせるのです。