来世に持っていくもの
ご著書を拝読した者です。ご著書に『生き方の真理についての理解は、死ぬ時に来世に持って行ける』という趣旨の説明がありますが、『持って行く』という事がよくイメージ出来ません。人生の真理を理解すると、それなりの心の波動の状態(??)になり、それに応じたレベルの来世に行く、というような感じでしょうか?
このような理解もよいと思います。が、「イメージできません」という表現は問題です。なんでもイメージで理解しようとするのは仕方ないですが、すべて漫画的に理解しないほうがいいのではないでしょうか。「自分が行う善悪行為のみが自分のものだといえるのです」という仏陀のことばがありまして、それに合わせてお話したものです。一般的に説法する時は「お金も、家族も、財産も、社会的な地位も、権力も、知識も、死ぬ時は持っていけません。自分の善悪の行為のみもっていきます。それしか『自分のもの』といえる財産はありません。したがって、悪を止めて善を行いなさい」と説法するのです。
「持って行ける」と日本語で言えば、お金、おみやげ、カバンのようなイメージでしょうね。しかし、このような「異物」のことをいっているのではありません。人格の、性格の改良をいっているのです。性格の改良は異物ではないのです。自分そのものです。知識さえも異物です。
良い行為・悪い行為はどのようにカウントされ、まだ実現しない結果のエネルギーはどのように保存されるのでしょうか。ひとつひとつ行為の結果が現れるとしたら、簿記のように収支がひとつずつ記録された閻魔帳みたいなものがどこかにあって、死ぬ時に決算して、来世に繰り越すような感じ?
このようなくだらないことは考えないほうがよいと思います。すべて物質だとして、唯物的に考える人の疑問です。五感から得られる物質的な情報しか知識として持ってない人間の思考は単なる物質思考です。そうなると、記録する簿記も、記録するバカも、審判し、管理するバカ達も必要になります。データを保管する倉庫も必要です。そういうことではなくて、行為によって、作り出す感情によって、心という機能そのものが変わってしまうのです。それによって、次から次へと出てくる結果もかわるのです。いま現在生きている我々の個性も性格も生き方も好き嫌いも才能も、誰かにやらされているわけでも、どこかからデータを取り出して自分がやっているわけでも、何か企画書があるわけでもないのです。とにかく、性格は性格です。どうにもなりません。我々はこの個性、性格の改良を説いているのです。
すべては個人のこころに記録されています。どの行為に、どんな時、どのような結果が出るかということは、そのときそのときの条件によって定まります。結果を出すことが出来なかった行為は消えていきます。とりあえずこのように理解してください。