あなたとの対話(Q&A)

瞑想中のトラブルについて

瞑想中、体がすごく重く感じられるのですが。
ちょっと動かしてみるのですが、重いのです。重く感じ始めたら、軽くなる方法を考えて動かしてもいいでしょうか。

そういう風に考えるから、その現象が残ってしまうのです。重く感じ始めたとき、重いということをサティ(気づき)はしているのだけれど、それを、「嫌だ」と思う感情もあるのです。
「嫌なもの」と「好きなもの」というのは、どちらも自分の執着があるもの、捕われのあるものなのです。我々は好きなものに捕われていると思っていますが、嫌なものにも捕われているのです。
「あの人が嫌い」という場合は、その人と何か関わりがあるのです。全く無関係ならば、好きでも嫌いでも何でもないのです。

ヴィパッサナー瞑想中には、色々な現象が現れてきます。その現象は2つに分類できます。嫌いな現象とすごく気持ちのいい現象の2つです。どちらにも決して捕われてはいけません。ごく冷静な心で確認しておくようにするのです。かたくなろうが、重くなろうが、軽くなろうが、勝手になれと、自分が完全に客観的になって観察すると、瞑想が進むはずです。

ですが、座っていて重い、かたいと感じるようなら「終了します」と言って歩く瞑想に変えてもかまわないでしょうか。

それでもいいのですが、少々我慢してみてください。嫌だからといってすぐやめて努力しないようでは、そのまま進まないということもあります。自分に好ましくない現象の方が、強く捕われることがないわけですから、まだいいのです。好きな現象ばかり出てくると、徹底的に捕われてしまって、それでストップしてしまうことになります。嫌な現象が現れても同じですが、努力して、ぎりぎりまでがんばってみることで乗り越えられるのです。

なるほど。いやだいやだと思うより、「なあんだ」と思えば良かったのかもしれませんね。でも座る度に重くなって、何か人形の首がぐーつと下に落ちていくみたいな首が短くなるような感じで、びっくりしたんです。

びっくりというより、面白いと思った方がいいですね。瞑想中に現れる現象というのは、大体決まっています。
いずれも、気にしないようにした方がいいのです。体を「軽い」と感じる、「かたい、重い」と感じる、「清い」と感じる、「気持ちいい」と感じる、そうでない場合は「ただ普通に」感じている、その5つしかないのです。どんな人間であろうと、他の生命であろうと同じです。
すべての哲学も思想も宗教も、その5つの情報に基づいて作っている「思索」でしかないのです。からだと心の2つに分けてみると、からだでは大体その5つしか感じないのです。それを色々に解釈するのです。からだが硬いと、悪い霊にとりつかれているのではないかとか、そのように解釈し始め、宗教になったりするのです。かたいのならかたいで、清いなら清いでいい、それ以上追いかけないことです。

私は、仏教の知識などは全くなく、勉強もしていません。ただ、ヴィパッサナー瞑想は本当に好きですし、信号を待っているときも、「立ってます」とかサティするのが好きなんです。階段も「左」「右」「左」「右」と上ったら苦しくないということがわかりまして、また着物を縫うときも「糸を引きます」「針を通します」と全部やっています。しかし、仏教の法則や知識については無頓着でわかりにくいのです。ですが、生活がいきいきしているならば、もうこれ以上何も考えずに、このままいこうと思うのですが、頭を使わなくていいでしょうか。

どんな人にもそれなりにふさわしい教えというものはありますのですべてを知る必要はないと思います。たとえば知らないことで何か問題を作っているなら、勉強しなさいと言うかもしれません。
しかし世の中にあるすべてのものをすべての人が知らなければならないわけではありません。何もかも知ろうと思うことはばかばかしいことです。

お釈迦様の弟子の目連尊者は、神通力がありました。しかし、お釈迦様の一番弟子は、神通力などないサーリプッタ尊者だったのです。人それぞれに能力は違う。天眼を持っていたお坊さまもありがたいし、智慧だけ持っていたサーリプッタ尊者もありがたい。人の能力に上下はありません。

瞑想をしていると、からだの外から自分を見ているような感じがしてくるのですが…

それでかまいません。続けてください。

座り瞑想を始めると、自然な深い呼吸ができず、「膨らむ、縮む」という言葉にあわせて呼吸をしてしまうことがあります。

その場合は、サティの方法に心が入っていないのです。実は嫌で義理でやっているのだと思います。
どういうことかというと、サティというのはからだの今の状態を確認することですが、そうではなくて言葉を頭の中で作って体をそれに強引に合わせるということをやっているわけです。
ヴィパッサナーはからだに言葉を合わせることです。ご飯を食べるためにお茶を入れようというのとお茶を飲みたいからご飯を買ってこようというのとでは結果がずいぶん違いますよね。ご飯を食べたいからお茶を入れるのであれば問題はありませんが、お茶を飲みたいからと言ってご飯を買ってきたのでは随分損をします。余計なものを食べてしまうわけですから。からだの行動をご飯にたとえて、言葉をお茶にたとえて考えてみてください。見た目は同じなのですが内容はかなり違います。

心が落ち着いていないと呼吸が乱れます。するとからだと言葉の行動が合わなくなります。その場合はからだと心の乱れる状態を確認してください。あるいは歩く瞑想をしてみてください。

瞑想が上達すると、心が統一されてきて、今度は意識で心を動かしていることが見えてきます。
普通は、心もからだも自分のコントロールと関係なく動いているものと思っていますが、仏教で言うのは自分の意識で動かしているということなのです。心が統一してくるとその状態が見えてきます。膨らみ、縮みであろうと、瞼を閉じることであろうと、膨らませたい、閉じたいという意識があってその行動を起こすということに気づきます。実践者が落ち着いていないときは、言葉に従って呼吸もしているように感じますが、心が落ち着いてくると、呼吸やからだの動きに言葉を合わせることができるようになります。そしてもっと落ち着いて集中力がついてくると、最初のときと似たように、意識でコントロールして呼吸も行っているということが見えてきます。膨らむという意識があって、膨らむ行為が始まる。縮むという意識があって縮む行為が始まる、ということがわかります。それは集中力の結果です。
意識ですべて動かしていることを知るのは、ヴィパッサナー瞑想から体験するべきひとつの智慧なのです。
これらをふまえ、質問にもう一度お答えすると、瞑想を進めるためには、意識が別にあるということをきちんと確認してみてください。