あなたとの対話(Q&A)

努力は必ず実る

「努力する」っていうのは、どういう意味ですか。

仏教で「努力する」というのは「結果を出す」ということです。努力しない人というのは、何も結果を出さないでしょう? 人生とは「どんな結果を出すか」ということです。だから誰でも努力はするべきです。
ただやみくもにがむしゃらに何かをしても、結果がなければ、そんなのは努力ではないのです。逆に結果を出しているならば、別に遊んでいてもいいのです。遊んでいても、試験に合格したなら文句はない。受験勉強して苦しまないとダメだ、という話はありません。結果を出せばいいんです。

「試験に合格するならば受験勉強しなくてもいい」というたとえが覚えやすいでしょう。でも、やはり口を開けて上を向いているだけではうまくいくはずがありませんね。何かプロセスが必要です。ただ食べて寝ていても成功できません。試験に合格したいなら、そのために何かしなくてはいけない。それが努力です。

そうすると、結果を出せる方法を知らないとダメだから、なかなか難しいですね。

世の中で多くの人ががんばっても、皆が成功するわけではないのはそういうわけです。結果を出す方法を知っている人がいて、懇切丁寧に教えてあげても、本人がまじめに聞かなかったり、理解できなかったりすると、どうしようもありません。努力だけは、その本人にしかできないんです。

結果は出なくても、一生懸命ににがんばったならば、それもその人なりの努力だとは言えませんか。

世間的にはそれも努力なのかもしれません。でも事実上、結果を伴わないことをいくらがんばっても時間の無駄なのです。「よく努力しました、がんばりました」とほめられるのは、結果を出した時なのです。口では、「ダメだったけど、よくがんばりましたね」と言うこともありますが、やはり結果を出してないと本当には評価されません。

逆に、努力しなくても結果が得られる場合もありますよね。

それは、因果法則として、成り立ちません。努力というのは原因です。原因なしに結果だけということはあり得ません。たとえば、ほとんど勉強せずに試験に合格した人は、遊んでいるように見えても、何かをしていたのです。やはり努力しているのです。合格する能力を持っていたということは原因があったということですからね。「必死で勉強したのにダメだった」と言う人は、努力ではなく、苦労していただけです。ちゃんとした原因を作っていなかったならば、それは努力としては加算されません。

本人が苦労しているか楽をしているかは、関係ないのです。だいたい、正しく努力する人は、かえって楽ができるのです。結果を出す方法を知っていて、自分がやるべきことをしていれば、休んだり遊んだりしてもだいじょうぶなのです。いちばんいいのは、少ない努力で、たくさんの結果を出すことでしょう? それが正しい道で、合理的です。がむしゃらに無駄な労力を費やすのは、無知なのです。「努力とは何かの結果を出すことだ」とわかっている人は、時間を有効に使うのです。

自分がちゃんと努力しているのか、不安になってきました。がんばっているつもりで、なんか無駄なことばかりしているようにも思えてきました。

何かの目的に向かっている途中で「これでいいのだろうか」という疑問が起こるならば、かなり問題です。そういう疑問が起こること自体が問題だと知った方がいいのです。ちゃんとがんばっていれば、「これでいい」とわかるはずです。「本当にこれでいいのか」と疑問に思うのは、今日一日の努力について疑問があるということでしょう? ということは、今日の結果は得られていないということですね。問題だと言ったのは、そういうわけです。

たとえば、英語が全くできない人が「英検に合格してやるぞ」と思ったとします。その人は、ABCから始めるかもしれません。でも、たとえ初歩的な単語をいくつか覚えただけでも、その分は上達したという実感が得られるのです。難しくてチンプンカンプンな問題集を開いて、全くわからないから日本語訳だけ読んで、選択問題から適当に選んで答えを出して、解答を見て答え合わせをする。そんなのは勉強でもなんでもないでしょう? 当然自分でも「これでいいのか」という疑問が出てきます。英語ができないのに「英検を受けたい」と考えることは、悪くはないのです。ただ、正しく計画を立てないといけないのです。自分のレベルからはじめたならば、自分がやった分は納得がいってるし、気分もいいのです。もっと早く上達したければ、勉強時間を増やしてスピードアップすればいいだけのことです。

結果というのは、ある日突然に現れるものではありません。毎日毎日、その日の結果が出るのです。だから途中経過において「これでいいのか」という疑問は、因果法則では成り立たないのです。リンゴの種をまいたら、芽が出て、木が生長して、枝が出て…など、リンゴが実る前からそれなりの結果が出てくるのです。ある日突然にリンゴが実るわけではありません。

目標に到達するためには日々の結果が必要だということですね。

そうなのですが、もう一つ気をつけることがあります。今日の結果と最終目標は別に考えるということです。たとえば、受験勉強は大学に入るためにしているかもしれません。でも、大学に合格することばかりが頭にあって、そのための結果を出そう出そうとしたら、焦りが出てしまってうまくいかないのです。「努力というのは結果を出すことだ」と聞いて失敗するのは、自分が決めた目標に引っかかることなのです。

そのことは、悟りを目指す場合は、厳密に厳しいのです。「悟ってやるぞ」と思ったら、悟れません。「今何をやるべきか」それを百点満点でやることです。目の前のことをちゃんとやらない人が、悟れるはずはないのです。今日やるべきことをちゃんとやって、まだ時間が残っているならば、明日の分もやっておく。そうすると遊ぶ暇も出て来るし、余裕を持って進めます。最終目的は、紙に書いてあるものにすぎません。今やるべきことは目の前にあります。それを次々とこなしていくと、最終的に目的に達するのです。それは不思議でもなんでもない。すごく自然なことです。

リンゴの種があるならば、「実がなったらきっとおいしいだろうな、どんな皿で食べたらいいのだろう」などと妄想するのではなく、まず種を土に植えるのです。土の状態や水はけ、日当たりなどに気を配るなど、今やるべきことをやっていると、結果が出てくるのです。遠い将来の結果ばかり考える人は成功しません。

でもやはり目標を定めることは必要ですよね。

まず努力ということを理解してから、何に努力すればいいかという選択の問題が出てくるのです。命は短いし、人生はリセットできません。今の瞬間にできることはたった一つです。だから何をやるべきかを選択して、それに向かってチャレンジするべきなのです。自分が何をやるか決めている人は落ち着いています。

お釈迦さまは「理想的な努力は、こころの汚れを落とすことだ」とおっしゃっています。他のすべてのことは、一時的ではかないのです。たとえ総理大臣になったとしても、4年そこそこで終りでしょう。多くの女の子の夢であるバレリーナも、男の子の憧れるスポーツ選手も、本当に活躍できるのはせいぜい30才ぐらいまでです。たとえそういう夢のような職業に就いたとしても、それで「私の人生が成功した」と言うことはできないのです。世間的な地位や名誉は、生きる目標にはなりません。

こころをきれいにすることは、どんな人間にも必要なのです。こころが清らかでないならば、いくら能力があってもしょうがないのです。強盗する人や殺人犯などは、いくら能力があっても、誰にも必要とされません。だから俗世間のことよりも、こころを清らかにすること、罪のない人間になることをがんばることこそすばらしいのです。俗世間のことは、生活のために何かそこそこのことを一つ選んで、それだけしっかりやればいいのです。

自分の道を決めたら、他のことはきれいに捨てて、自分の道のためには今日何をするべきかというところで地道に前に進むべきです。そんなことは当たり前なのですが、人間には色々な欲があって、それをすぐに忘れがちです。「やっぱりあれもやりたいな、これもいいな」と考えてしまうのです。そうすると、頭が混乱状態になって、目標に達することは難しくなります。

日々励むべきなのは、こころの悪を減らし、善を増やすことです。悪を完全になくして善を完成することは、理想的な目的です。「人は、目標に達するまで努力するものです」というのが、お釈迦さまの言葉です。

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