ブッダの教えで幸せを得るために
仏の教えによって救われて、本当の幸せを得るといわれますが、この「本当の幸せ」の状態とは、どんな状態なのでしょうか? 仏教では諸行無常と言いますし、それに一切皆苦、それから諸法無我とも言います。すべて否定されているような感じがします。
諸法無我だから、今だって誰も個人は存在する訳じゃないんです。○○さんもスマナサーラも、ただ一時的な物事で、滝のようなものであって、実体として存在する訳じゃないんです。それで私たちは、スマナサーラが居るんだぞと思っていて、○○さんも○○さんが居るんだぞと思っていて、これで、困ったり悩んだり戦ったり、ぶつかったり不満を抱いたりして、不幸のどん底に落ちるんですね。それでお釈迦さまは真理を言うんです。「無常だよ」と。そんな気にせんでもいいんだと。無常だと分ったらその瞬間で、心は落ち着いてものすごく安穏な気持ちになるんです。無常というのは何時でもありますから、何時でも安穏な気持ちで、何があっても別に無常だから、そんな気にしないでもいいじゃないかという気持ちでいられる。それが安定した幸福の境地なんです。何処かに変わらない何かの境地があるということになると、話が矛盾になるんです。
不安定でいいわけですか? つまり我々の命も有限であるから…。
いつでも有限で、不安定なんです。私たちは「困る」のですが、それこそが不幸なんです。困ろうが困らなかろうが、事実はそんなものだから。
では、どこで救われるんですか?
無常だと分ったらその瞬間、心にすごい安らぎが訪れるんですよ。難しい話になるかも知れませんが、私たち人間は無常ではないと思っています。これは全く真理と反対なんです。無常ではないと思って踏ん張っても、ヒドイ目に遭うだけ。それですごい失望感が瞬間瞬間にある。不満感が瞬間瞬間にある。「そんな筈じゃないのに」と何をやっても不満で、上手くいってないのです。そうやって人間が無常に逆らうのだから、あらゆる不平不満を抱いてずうっと生き続けているんです。仕事をしても不満で、止めても不満で、病気になっても不満で、死ぬ時でも不満です。いくら探し求めても、充実感も安らぎも感じられない。それで一切は無常である、瞬間だけのものだと、はっきりくっきり自分で体験する。それでこの闇が破れてしまう。心の底からホーッとするんです。それがそのままずうっと続くんですね。何があっても、まったく感情が出てこない、怒りも出てこない。すごく穏やかな気持ちでいられるんです。
これが本当に感じる実感ですけど、喩えでしか言えないんですよ。山が火事になっていると怖いでしょう? そこで大雨が降って、山火事がサーッと消えて、熱もなくなったら、ホーッとするでしょう。そんな感じで、我々は心の中でずうっと燃えている不安の火事、憎しみ怒りの火、嫉妬の火がサーッと消えちゃう。それを本物の幸福と言うんです。それを目指して修行します。だから一切は無常だというのは決して否定的な話じゃないんです。それはただの事実を言っているだけ。諸法無我であるというのは、諸法無我だから言ってるだけ。地球が丸いということは否定的な話ですか? 肯定的な話ですか? どちらでもないでしょう。ただ真理を言っているだけでのことです。私たちは出来が悪くて、それは違うと思っているんです。その私たち個人個人の過ちを、直させているんです。無常なのに、何でそれを認めないのか。無常を認めることは、なかなか難しいんですよ。私たちはえらい無知ですから。それでヴィパッサナー瞑想で全ては無常だよと、瞬間瞬間変わるんだということを経験させるんです。そこで、より集中力を高めれば高める程、より次元が深くなって無常が見えてくるんです。やがて自分という個体的な錯覚が消えちゃって、「やっぱり無常だ」ということが出て来るんです。それで、あぁ、何だ、こんな困ること何もないんだ、怒ったり怒鳴ったりする、全然馬鹿馬鹿らしくて意味がないんだと。すぐその瞬間で心からあらゆる感情は全部落ちるんです。落ちたものは二度と現れません。また喩えで言いますけど、マジシャンのネタがばれたら二度と騙されないでしょう? 我々は幻覚によって騙されているんです。ネタがばれて、「あぁ、こういうことでこうなるんだ」と分かれば、それっきり心は不安定にもなりませんし、不安にもなりませんし、安穏な状態で、平安の状態でいられる。それで幸福というのです。
もう一つあります。私たちは苦しんでいるのだから、幸福と言った途端、何かワイワイ感情的な状態を考えてしまう。それは幸福じゃないんです。ただ疲れるだけ。悟ってない状態で、無常が分ってない状態で妄想した幸福に過ぎないんです。
慈悲の瞑想で「幸せでありますように」と念じますよね。その場合の幸せの感覚というのは、感情的なものでもいいんでしょうか。
その場合は、どっちでもいいんです、優しい人間になってもらえればそれで充分です。幸せの定義とかは、要りません。ただ優しい人間になりましょうと。結構、全部シンプルなんです。真理というのは、すごくシンプルなんです。だから日常、俗世間の人々が考えている幸福というのはすごい感情なんですよ。でもその感情は、すぐ減っちゃうしね。それで上手くいったという状態でも、かなり疲れますよ。例えば大きなパーティでもやったと考えて下さい。確かに楽しいんだけど、終わったら最悪なんです、疲れて。だから、それさえも仏教は、疲れるものであると言っているんです。で、これは何の疲れもなく平安な状態、だから何の疲れもなく何時でも穏やかで居られる。
難しいですなぁ。
それは、言葉では理解できません。まぁ理解は難しいけど、やってみれば分ります。これは「蜂蜜の味について説明しなさい」と言うのと同じなんですよ。そんな説明、出来るわけないでしょうに。いくら説明するよりも、とにかく舌で舐めてみれば楽々分かることです。一言も要らないんです。だから、実況中継で、自分を見るということをやってみればもう智慧が現れてきます。たとえ悟らなくたって心配する必要はないんです。何故かというと自分がその分、ちゃんと成長はしている。心が成長している。汚れが結構なくなっているはずなんです。とにかく幸福になることは確かです。こころを清らかにすること、これしか方法はない。曲がりなりにでも、やった方がいいんです。
とにかく、幸せにならんといかんのですね。
そうそう。短い人生なんだから、どうして苦しむ必要がありますか。一日苦しんだら一日の損でしょうに。だから何があっても、瞬間瞬間、穏やかでいればいいんです。
私は慈悲の瞑想を一応やっていますが、まだまだ何の実感も湧いてこない。やめたくもなります。どうすれば良いのでしょうか。
何を聞いているのかと、私にも実感が湧いてこないのです。少々具体的に説明して欲しいのです。
例えば、親しい人々の悩み苦しみがなくなりますようにと言うと、親しい人々の悩み苦しみとは何なのかと思ってしまいます。何もないのではないかと思ったりします。願い事がかなえられますようにと、相手が何を願っているのか、何を期待しているのか、さっぱりわからない。だから何の実感もなく、言葉だけオウム返しする羽目になっているのです。嫌いな人々も幸せでありますようにというセクションに入ると、この気持ちはなおさら強いです。別に、嫌いな人に慈悲の瞑想をやりたくないという意味ではありません。今はこれ、という嫌いな人もいません。
よくわかりました。そちらは慈悲の瞑想をすると、あまりにも他人に焦点を当てすぎです。自分のことを結構無視しているのです。私の悩み苦しみがなくなりますように、と言う時も、何の実感も湧いてこないでしょう。(質問者:そうなんです。)では、慈悲の瞑想の焦点を調整しましょう。
あなたが「生きとし生けるものが幸せでありますように」と念じたからといって、一切の生命が幸せになってしまうわけではありませんでしょう。そうなればとても有り難いですよ。なぜならたった一人が慈悲の瞑想をすれば、生命の問題は万事解決するからです。それはあり得ない。慈悲の瞑想は、全ての生命が必ず実践するべき普遍的な修行なのです。誰かの肩に乗ってフリーパスで幸せになれないのです。皆、一人一人努力しなくてはならないのです。
慈悲の瞑想は、個人の人格改良プログラムなのです。慈悲の瞑想をするあなたは、その瞑想によって自分の人格を改良・改革しなくてはいけないのです。正しく言えば、自分にも他人にも強烈に焦点を合わせるものではありません。人の気持ちもわからない、他人の痛みは感じない、自分こそ偉いという差別感を持ち、他に対して怒ったり憎しみを抱いたりする、感情の奴隷になっている自分の人格を改良するのです。そのために慈悲の瞑想をするのです。「悩み苦しみがなくなりますように」と言う場合、病気・受験などのストレスから解放された、ホウッとした気分をイメージして下さい。「願いごとがかなえられますように」と言う時は、受験勉強をして受かった時の気分のような明るさをイメージして下さい。
人と居るとすごく緊張するんですよ。落ち着かない。何か喋ろうとするんですけど喋れない。
そういう現象はだいたい、自分のことをあまりにも気にする人に起こるものです。自分をずいぶん高く評価しようとしていて、それで動けなくなってしまうんです。人間の心理っていうのは面白いんです。ほんとは自分をすごい高く評価しているけど、実感はえらく惨めなんです。ほんとに矛盾だらけですよ。自分を惨めに感じる人は、世界を大きく観ている。それで、「やっぱり間違ったらあかん。失礼に当たったらあかん。私が喋ってほんとに大丈夫かいな」とかね。みんなに何か言われたらとんでもないと思って、なんとなく妄想の中で社会や他人を大きいものやと思ったりする。そうすると自分が小さく感じているでしょう。それで惨めに感じているだけなんです。なぜ惨めに感じているのかというと、自分を結局は高く評価しているからです。自分を高く評価しているなら、「俺が偉いぞ」と威張るのが普通でしょ? しかし、この場合は惨めに感じるのです。結果が矛盾的に逆になってしまう。だからもう喋れなくなったりする。
それを治す方法は、自分を高くも低くも評価しないこと。世界も、自分も、みんな不完全なんだから、失敗しても別にどうってことはない。自分が何かを言って、「あんたの言うことさっぱり分かりませんよ」とあしらわれても、そんな気にすることはないんです。自分を高く評価しちゃうと、「その場に合う言葉を喋らなくちゃ、変なことは言ってはいけない、みんなに分かるように言わなくてはいけない、みんな賛成してくれる話をしなくちゃいけない」とか限りなく気にしてしまう。そんな態度ではもう生きていられない。
自分の言うことを他人に馬鹿にされたって、別に構わない。それは自分の人格なんです。人にからかわれる、馬鹿にされることを言う人間やということが、アイデンティティー(identity)というか、イメージとして成り立っているんです。自分のアイデンティティーを確立したら、それで生きていられます。その場合、あえてバカにされることを言うんだから気楽なものですよ。社会というのは、そういう風に成り立っています。決して完璧な関係などあり得ない。いつでも曖昧で、ガタガタで、もう問題だらけで成り立っているんです。一人一人不完全ですからね。その事実を理解していけば、それだけでこの問題は消えると思います。