無知の直し方
無知というのは「何も知らない」ということですか。
そうじゃないんです。なんでも知っている百科事典みたいな人であろうが、すごい知識人だと言われる人であろうが、人は、悟らない限りは無知なんです。無知というのは「無常・苦・無我」という真理が見えないことです。とにかく人間は、無常であるものは無常だと見えない。無我だということも理解できない。苦ということ、何をやっても結局は空しいし不満だということは、誰一人もわからない。自分の身体(五取蘊)を高く評価して、喜びの泉だと思っている。世界のことを、幸福を与えてくれる対象として見てもいる。自分もこの世も、蜃気楼のようで、泡のようで、何も実体を持たない、執着に値しないものだと観ることはできない。五官から入る情報をそのまま観るのではなく、頭の中で現象化して、自分だけの世界で生きているのです。これは、釈尊が無知を名づけている心の状態です。
私たちは、そういう無知の状態(無明)の中で生きています。「私はどうするべきか」ということも、無知の中で考えて行動する。だから、やはり皆に親切にしなくちゃいけないと考えたとしても、そんなことどうでもいいんだと考えたとしても、どっちにしても、「私がいる」と思った上で考えているんです。とにかく世の中の道徳、倫理、哲学、生き方、経済、政治など、何でも全部、無知の上につくっている。それは仏教の人であろうが、なかろうが、関係ない。無明の中で何もわからずに生きているということは、皆、同じです。
お釈迦さまの道が正しいと知っている。仏教の理論もよく理解している。すべての現象は空しい、苦しい、それは乗り越えるべきだと知っている。そういう人々は結構います。その上に、何か解脱のような自由な立場があるだろうということもわかっていて、まじめに瞑想の修行までしている。それでも、なかなか悟りに至ることはできないのです。それはなぜかというと、その人が無知だからです。というか、無知という煩悩が強くはたらいているからです。
ですから無知は、一般の人はもちろん、仏教をよく勉強している知識人も、皆、基本的にもっている煩悩なんです。その証拠に「怒りは悪い」と知っていても、怒らない人はいないでしょう? 「欲はダメだ」と思っても、欲を出してしまうでしょう? そうやって、いつでも、自分で「これは良くない」と思っている状態に、自分が落ちてしまうんです。良くないとわかっているのに、どうしようもない。それは無知だからです。無知がそうさせているんです。
ダメだと知っているのにやってしまうのだから、頭でやっているわけじゃないですよね。
私たちは、どんなことも、何ひとつ、頭だけではやらないんです。頭というのは、ただ言葉で考えるというぐらいのことですから。例えば「私はアメリカが好き」と言う人がいるとする。そういう単純なことでも、頭の問題ではないんです。理屈で「こういうことで、こういうことで、私はアメリカが好きだ」という明快なものではない。もしかするとその人は、あれこれと理屈を説明するかもしれません。でも実際は、それは本当の理由じゃないんです。理屈で成り立たないところで「好きだ」と思ってしまうんです。
だから、頭でわかっただけでは、人間は、動きません。「欲や怒りは良くない」など、皆、よくわかっているのかもしれません。けれども、欲や怒りをやめることだけは誰もしませんね。「こういうことはやってはいけませんよ」と言われたところで、もしその人がそれをやめたならば、頭で考えたからではなくて、何か違うところで理解して、納得したからです。理屈だけは全然どうにもならないんです。
そのはたらきは、「無意識の世界」とか「隠れている自我」とか、そういう大げさなものではないんです。すごく明快なものなんです。だって、どんな時でも、毎日の日常の生活の中でも、私たちは理屈で行動しているわけではないでしょう? 例えば、お医者さんや栄養の専門家がきちんと健康的な生活をしているかというと、まったくそんなことはないんですね。その人々もやっぱり好きなものを食べて、嫌いなものを食べなかったりする。お酒を飲みすぎたり、運動しなかったりしてるんです。やはり、生き方は、こころで決めるんです。頭ではありません。
生きるということは、脳細胞のはたらきというよりは、精神的というか、こころの世界だと思った方がいいんです。だから、「一切は無常である」と頭でわかっていても、悟れないんです。煩悩をなくせないんです。
頭ではなくこころで真理を納得するためにはどうしたらいいんですか。
修行とか瞑想とかいうことが出てきたのは、そのためなんです。
でも、瞑想にしても、人間はどうしても頭でやっちゃいますね。「考えるな」と言われても、すぐに色々と考えるでしょう? 頭でやると、すごく知識的なように思うかもしれませんが、逆に智慧が開発されなくなって、幾つかの概念の中で頭が堂々巡りする状態になる。それで真理がわからなくなるんです。知識的にああだこうだと考えたりしゃべったりする人々は、結局頭ばっかり使って、こころでわかるということはできなくなるんです。
実際、我々は、頭というよりも、こころの機能で生きているんです。煩悩というのは、細胞一個一個の中に入っているんですからね。「生きていきたい、死にたくない」というこころのはたらきは、体中の細胞にあるんです。
とにかく無明をなくすためには、脳に頼るのではなくて、こころに頼る必要があります。だから脳ばっかりはたらかせている人には修行は難しいのです。そういう人に、仏教で説く幸福を理解することすらできません。その人が何でも知っている人だとしても、自分のためにも人のためにも役に立つようにはなれません。よく勉強していても、ただ勉強だけでは、自分のものにならないのです。こころでわかって、自分が変わったならば、自分のものになったということになります。仏教のすごい知識人の大教授でも、こころが変わらなければ、ただのお爺さんで、そのまま死んでしまうんです。その人はただ、知識の世界に雇われていただけ。その人が書いた本はすばらしい本かもしれませんが、それはただの知識であって、自分のものになってはいなかったんです。その先生の本を読んでこころが変わった人がいたならば、その人こそ、その徳を得ることができたと言えます。
「こころでわかった」という場合は、行動が伴ったということですか。
こころでわかるということは、自分が変わってしまうことです。自分が変わったのだから、わざわざ行動で示そうとしなくても、自然に行動も変わるんです。それは自然現象ですから無理がない。頭でわかって「このように行動しなくちゃいけない」と思う人は、苦しいんです。
例えば頭で「酒は悪い」と思って酒を飲まないようにする人は、酒は飲まないかもしれませんが、苦しいんです。こころで酒が嫌になったならば、自然に酒を飲まなくなるんだから、苦しくないんです。行動から見ると同じかもしれませんが、違うところは、こころでわかっている人の清らかな生活は、自然なんです。頭でわかって行動する人は、自然じゃないんです。
頭で行動して最初は苦しい場合も、続けていると慣れてしまいますよね。慣れてもやっぱり頭でわかったに過ぎないことになるんですか。
飲まないうちに酒が嫌いになったのなら別ですが、飲まないことに慣れてしまっただけでは、本物ではありません。やはり「悪いことだから飲まないぞ」とがまんしてるんです。いつかまた飲み始める可能性は十分あります。
だから普通の人は、将来のことを自信をもって言うことはできない。「私はもう怒ることはない」と決定的に言える人はいません。悟った人は、「私はもう怒ることはない」と、はっきり言えるんです。お釈迦さまは、「もう自分には煩悩はない、これからは苦しみはない、また生まれ変わることはない」と決定的におっしゃったんです。それは、こころでわかったからなんです。「こころでわかる」とか「頭でわかる」とかいう言い方は経典の中にないので、適当な言葉ではないのかもしれませんが、理屈ではなくわかる、完全に納得いく、という意味です。説明するのは難しいのですが、精神的な変化なんです。悟りの世界というのは、なかなか言葉では言い表せないんです。
悟りの方向に行くためのひとつの方法は、いつでも、なんでも「無常だ」と頭の中でくり返して、「無常」という見方ができるように自分をもっていくことです。普通の世界では、頭で「無常ではない」と見ることから始めるんです。頭の中で「無常だ」とくり返しているうちに、そちらの見方に近づけるかもしれません。または「苦であって、ドゥッカであって、空しい、価値はない」か「無我だ、私ではない、私はない」ということでもいいんです。その、無常、苦、無我を、ことあるごとに自分に言い聞かせるんです。
その、無常とか苦とか無我とかを少しずつ自分に言い聞かせていくことと、酒をやめることに慣れていくということは、違うわけですか。
似ています。酒を無理にやめていても、それがこころに響いて「酒というのは本当にイヤなものだ」と、嫌いになることもあるでしょう? それは、こころが変わったということです。
とにかく世の中には、物事をこころで見る人と、頭で見る人がいます。現代社会は、こころは殺せ、頭で動け、という価値観だから、こころで物事を見る子供はつぶされちゃうようですね。日本では、マニュアルで笑い方まで決めてサービスしているのだから。文明人は、それほど機械的になっているんです。だから我々は、寝ているこころを起こさないといけないんです。無知は突然、一度にはなくなりません。無知がなくなるにも段階があります。無知が弱くなるということは、自分が良い方向に変化するということです。