本当の「願い事」
慈悲の瞑想の言葉ですが、「苦しみがなくなりますように」と唱えると、例えばライオンは鹿を食べないと生きられないし、苦しみがなくなることなどあり得ないじゃないか等と思ってしまいます。「願い事が叶えられますように」というのも、自分に危害を加えそうな人の願い事が叶うことを考えると抵抗があります。そういうことは、どう考えたらいいのでしょうか。
まず、「慈悲」はブッダの智慧で説かれた世界ですので、なかなか理解するのは難しいということがあります。私も日本でかなり長いこと、あらゆる方面から、これ以上できないぐらい慈悲について語っていますが、本当にこれを理解してもらうのは難しいことだと感じます。人は、慈悲とは何なのか全然知らないのです。経験したこともありません。推測もできません。 だから自分の理解でいろいろと慈悲の瞑想について考えてしまうと、必ずと言っていいほど間違います。それで慈悲を育てることはできなくなってしまうのです。慈悲の瞑想をする時は、素直に、単純に、慈悲の言葉を念じるのがいちばんいいのです。正直に、素朴にがんばると、じわじわと慈悲の人間になっていくのです。慈悲の生き方ができるようになったら、自分の人生は、驚くほど幸福で豊かになります。たとえそれで自分自身が幸せになってさえ、なぜそうなったのかということは、考えてもわからないと思います。こころの仕組みというのは、そう簡単にわかるものではないのです。
お釈迦さまは、「生きることはたいへんでしょう? では、君たちはこれをやってみなさい」と、慈悲の瞑想を教えられました。みんな、生きるのがたいへんだということは、わかっているでしょう? しかし、慈悲とはどういうものか、どういう育て方がいいのかと、我々の知識で考えてもわからないのです。だからこころを育てる方法を自分で考えると、間違ってしまうのです。とにかく、瞑想実践の時は、考えることを止めることが必要です。あれこれ考えることは、結局は妄想なのです。考えることは置いておいて、シンプルに実践に集中することです。
それが慈悲の瞑想の基本なのですが、「苦しみがなくなりますように」という言葉に納得いかないと思う人は、その逆を思ってみてください。「私が苦しみますように」「親しい人々が苦しみますように」と(笑)。おかしいでしょう? やはり「苦しみがなくなりますように」という方が正しいのです。そういう風にシンプルに理解した方がいいと思います。
願い事というのは、良いことばかりではなく、色んな願い事がありますよね。
そういうことは置いておいて、そちらも慈悲の言葉を逆にしてみてください。「私の願い事は失敗しますように」と(笑)。やはり、それは変でしょうしね。だから、慈悲を主観で考えると、すごくおかしなことになるのです。
お釈迦さまは、生命とは何なのかということをはっきりと具体的に発見されて、その智慧によって適薬を与えているのです。薬の機能とか成分を分析しようとすることは、できないわけではないのだけれど、病気で苦しんでいる人には「まず薬を飲んでください」と言った方が正しいのです。薬の成分を分析して、自分で実験したり、サンプルを取ったりすることは、ふつうの人にできることではありません。ですから私は、まずやってみたらどうですか、と言うのです。やってみて健康をとりもどして、やはり研究したい、もっと知りたいということであれば、それから成分なども説明することはできます。
「願い事」と聞くと、ついあれこれ頭に浮かんでしまいます。
妄想の世界で考える願い事と、仏教で考える願い事は違うのです。
私たちには、「お金がいっぱいあったらいいな」とか、「すごくきれいな人と一緒になりたい」とか、「歳を取りたくない、病気になりたくない」などの願い事がありますね。しかし、真理の立場から見ると、それらは全部、ただの妄想にすぎません。どれ一つ具体的な願い事ではないのです。
仏教の世界では、徹底的に具体的に人生を見るのです。具体的に見ると、私たちには、まず生まれた瞬間があります。死ぬ瞬間もあります。その二つは確実にあるでしょう? いつだとはっきり知っているかどうかは別として、我々がその二つの瞬間の間で生きていることは確かなのです。だから、論理的には、自分の人生は何秒間なのか、いとも簡単に電卓で計算できるのです。「すごい美人になりたい」とか「全国に一万軒のフランチャイズ店を作りたい」というのは、ただの頭の中の観念だけで、そんなことが実現できるかどうかわかったものではないのです。そんな妄想とは関係なく、自分が具体的に、秒単位で寿命を縮めながら生きているということだけは、確かです。命の秒数は決して延びません。縮むのです。誰でも必ず死ぬ。死ぬ瞬間までの秒数はしっかりと決まっている。それは一秒単位で減っていく。今も、一秒ずつ時計が進むたびに、自分の寿命が縮んでいる。それが本当の確実な自分なのです。皆、そのことを「忘れよう、忘れよう」としています。
そして、「世界旅行をしたい」とか、「やがては独立して自分の会社を作りたい」とか、あれこれ妄想ばかりの世界に住んでいるのです。
しかし、実際に具体的な一秒の命を見ると、我々には秒単位で色んな願い事があるのです。一秒の命には何か願い事があって、次の一秒に進んでいる。仏教で「願い事」というのは、その秒単位の願い事のことなのです。お腹がすいたら何か食べたくなる。そこにあるバナナを取ろうとする、取ると皮をむきたい、口に入れたい、口に入れると噛みたい、味わいたい、呑み込みたい。我々にはそういう具体的な願い事が、常にあるのです。それをなんとかしようと、次の一秒でがんばるのです。それが本当の、願いの流れなのです。その願いはずっと流れています。その願いが失敗ばかりだと、生きていられないのです。息を吸ったら、吐きたい。吐くと、吸いたい。それが叶わないとすごく困るでしょう? 人が金持ちになってもならなくても、それほど困ることはないのです。世界旅行がしたかったけれどもできなかったというのは、大したことではありません。そんなことよりも、本当の、生きるのに必要な願い事があるのです。そちらにスポットを当ててみてください。一秒も失敗しない人生というのはそこに現れてくるのです。具体的にものごとを考えない人は、頭の中で夢ばかり見ているのだから、成功はできません。人生の勝者には決してなれないのです。
ですから最初の質問にあった、「私に危害を加えようとする人の願い事が叶うと…云々」というのは、全くの妄想の世界です。心配しなくても、そんな願い事は叶うはずがないのです。すごい美人になるぞとか、世界記録を作るぞとか、そういう妄想的な願い事というのは、まず叶いません。自分が頭で考えることなどは、百分の一も叶わないでしょう? そういうものなのです。
一秒単位の具体的な計画であれば、実現させることができます。喉が渇いたら水を飲む。それはしっかりした具体性があることです。そういうことが叶わなかったら、たいへんなのです。そういう願い事は、成功できます。
いくら嫌な人でも、その人の一秒が成功したならば、決して迷惑ではありません。一秒単位で成功している人は、嫌なことはしません。落ち着いています。人に迷惑をかけるのは、我慢できないほど何かが溜まっているからです。妄想ばかりして今の一秒をちゃんと生きてない人は、ストレスが溜まって、嫌なことをするのです。ストレスが溜まるのは、一秒単位で成功してないということです。
ですから、皆、大きく考えないで、「この一秒だけを成功する」という生き方をした方がいいと思います。人生に成功する必要はありません。「人生」というのもただの観念的な言葉です。具体的には今の一秒しかないのです。今の一秒は、自分で握ることができます。今の一秒というのは、厳密に、今の一秒です。例えば「私は成功した」と言ったら、それを言ったとたん、それはもうすでに過去の話です。過去だからもう終わったことで、それはもう存在しないのです。我々は、すでに、次の「今の一秒」にいるのです。
「願い事」の意味がわかりました。ありがとうございました。
いいえ、まだはっきりとわかっていないと思います。
「私の願い事、親しい人々の願い事、生きとし生けるものの願い事、嫌いな人々、嫌っている人々の願い事が叶えられますように」と念じる時の「願い事」って何ですか? 私の願い事と、私を嫌いな人の願い事は正反対ではないのですか? 私の願い事が叶ったらその人の願い事は叶わないし、私を嫌いな人の願い事が叶ったら私の願い事は叶わない。ゆえに慈悲の瞑想は矛盾だ。成り立たない。実践する気にならない。皆、このように考えていると思います。それらの思考はすべて妄想で、不善なのです。
正直に言うと、自分にとって何が最善かは私にはわからない。同じく、私を嫌いな人にとって何が最善なのかもわからない。「願い事がかなえられますように」と慈悲の実践で念じる場合は、好き勝手に妄想する汚れた不全な願い事ではありません。私にとって、他人にとって、最善な願い事なのです。「(自覚はないが)最善たる願い事が叶えられますように」という意味で実践してほしいのです。
私を嫌いな人にとって最善の願い事は私の足を引っ張ることではないか、と妄想するかもしれません。しかしそんな願い事は、その人にとって最善ではない。最悪なのです。各個人が、あらゆる悩み苦しみに絡まれているのです。幸福になりたいとやみくもにもがいているのです。全ての生命の悩み苦しみが消えて幸福に達することが、最善たる願い事なのです。慈悲の実践をする仏教徒は、最上の清らかな聖なるこころを育てようと精進するのです。
まとめて言うと、慈悲の瞑想の言葉は、「皆、穏やかで、落ち着いて、ストレスなく生きていってほしい」という気持ちなのです。たとえ敵であっても、その人が穏やかで落ち着いた人になったならば、自分にも良いでしょう? 私たちは、慈悲の瞑想で、自分自身が何もストレスがない穏やかで落ち着いた生き方ができる人になることを目指すのです。それこそ、力強い生き方なのです。いつも穏やかでいるならば、常に人生の勝利者として生きているのです。
だから仏教の人々は、観念的な目的などよりも、日々のことをしつこくがんばるのです。今のことを絶対に成功するぞ、と生きるのです。一秒くらいのチャレンジは、大したことないから成功できます。たとえ失敗しても、一秒だから大したことはない。次の一秒をがんばればいいのです。それで一生幸福でいられます。頭から妄想概念を捨ててしまえば、すごく楽に、楽しく生きることができるのです。慈悲というのは、そういう、人間の真実の生き方なのです。ですから、私は、とにかくこれをやってみなさい。人生は好転するんだよ、うまくいくんだよ、とはっきりと言うのです。