あなたとの対話(Q&A)

執着を離れ、明るく生きる

パティパダー2006年9月号(109)

私は、お金や安全や自由や楽しいことなど、いろんなことに執着して生きています。確かに執着は苦しみも生み出しますが、同時に私の生きる原動力だと思っています。その執着を捨ててしまうというのは、生きる力がなくなってしまうようで、生きることを放棄してしまうようにさえ思います。執着を捨てるということについて教えていただきたいです。

良い質問です。今おっしゃった気持ちは、普通はね、人間なら誰でも持っている。これは人の正直な気持ちです。自分の原動力はこんなものだなぁと理解していることは、何も理解しないで生きるよりはよっぽど良いのです。
 
 楽しく生きることは問題ではありません。執着するというところが問題です。執着が割り込むと、人生に逆風が吹きます。人間だけでなくどんな生命もいろんなものに執着して生きていますが、皆、そちらに束縛されて自由を失っていることに気づかない。そこを理解していません。
 
 例えば、自分の古い家に執着しているお年寄りは、息子が都会の広いマンションで同居しようと誘っても、来ません。マンションは冷暖房完備。大きな病院も近くて環境が良い。田舎の古い家は交通も不便で、病気になったら大変なのです。執着がないなら、「どうせ家なんか古くなったら捨てるもんだ。おまえのところで面倒をみてもらうよ」と楽になるのに、執着があると、それができない。苦労しながら、皆に心配をかけながら、古い家に住むことになるのです。
 
 動物は、縄張りを作って、そこから出て行きません。人間も、いろんなことに執着した時点で、小さな世界を作ってしまって、その中に閉じこめられるのです。執着は自由をなくすのです。執着を捨てると、生きる原動力がなくなるどころか、すごく自由になるのです。本当は、執着は、生きるエネルギーをすごく減らすのです。

何かの目標を決めてがんばるのも、一種の執着ではないですか。

それはケースバイケースです。

 執着がない人が何かに挑戦したら、うまくいかなくても、「まあいいや、別のことをするぞ」と気楽にいる。執着のある人がうまくいかなかったら、「二年も挑戦したのにダメだった」と、人生は終わりだという感じになってしまう。執着がない人は落ち込まないし、軽々と別のことに挑戦するのです。
 
 論理的に執着というものを見ると、執着は足かせであって、何かに縛りつけるはたらきなのです。執着がないと、こころはすごく自由なのです。
 
「骨董品を集める、毎年外国旅行する」などの目標は執着になりますが、「欲を減らす、怒らないようにする、落ち着いている、慈しみを育てる」などの目標は執着になりません。逆に、そのような目標は、執着をなくす原因になるのです。
 
 微妙なところですが、「解脱したい、悟りを開きたい」などの目的は、執着になってしまう恐れがあります。しかし「苦しみをなくしたい、煩悩をなくしたい」と思うことは、執着になりません。「解脱する」と「煩悩をなくす」とは結局は同じ意味なのに、本人の取り方次第で、執着になって結果を遠避けたり、無執着になって結果を早めたりするのです。

執着があるから楽しいということはないのでしょうか。

若い人たちが明るく生きているのは、執着があるからではないのです。いろんなことをやって、面白かったらやるし、面白くなくなったらやめて他のことをやる。だから明るく生きていられるんです。執着があったら、それができなくなる。例えば、若者達が失恋したら、執着がある人は失恋に耐えられないが、執着の少ない若者は次のガールフレンドに挑戦するでしょう?
 
 執着があったから楽しく生きてきたのだと勘違いしていますが、日々いろんなことをやって楽しみが生まれていたのです。執着がある人にいろんなことはできません。決まった一つ、二つの目的の中で回って生きています。他のことに挑戦することが出来ないので、「私はこれをやっていると落ち着く、楽しい」と思ってしまうのです。
 
 執着は楽しくない。こころは暗くなるのです。でも、読書家は読書に執着しているのに読書を楽しんでいるのでは? …微妙ですが、違います。読書などに執着すると、場合によって、集中力が現れます。その集中力は楽しいのです。楽しいのはその集中力であって、執着ではありません。
 
 執着と集中力を混同している人に良いアドバイスがあります。執着するタイプなら、善いことに執着したらいかがでしょうか? 善いことをした充実感で楽しみが生まれたら、それこそすばらしい生き方です。そういう生き方を目指すべきです。何かに執着するのではなく、充実感を目指してがんばるのです。
 
 何か仕事を決めて、始めたとします。途中で苦しくなっても、中途半端でやめたら、充実感は得られません。「とにかく終わりまで負けずにやるぞ」と舌を噛んで歯を噛んで終わりまでがんばると、「やりましたよ」という充実感が出てきます。充実感は良いものなんです。喜びも良いものなんです。執着は悪いものなんです。喜びはあるが喜びに執着しない。充実感はあるが充実感には執着しない。そうなると、原動力は増える一方で、減ることはない。仏教で推薦するのは、執着じゃなくて、充実感、達成感。そこからエネルギーを得る生き方です。

世の中には、執着を原動力にして生きる人が多いのではないですか。

そうですね。99・9%の人間は、執着を生きる原動力にしています。だからすごく暗いのです。達成感という喜びを原動力にしている人は完璧に明るい。その人の楽しみを奪うことは、誰にもできません。たとえ家が火事になっても、彼の明るさが消えないのだから。
 
 人間は毎日歳を取って、やがて死ぬ。死ぬ日がわかれば、後何日生きるか計算できます。だから一日悩むと一日損です。「家が火事になった」と二年間悩んだら、二年間も損なんです。執着がなければ、「火事になったか。じゃあ今日はホテルに泊まろう」と瞬時に心を入れ替えられます。それで、損をしない人生になるのです。
 
 執着しようがしまいが、我々の人生は流れているのだから、執着というのは本来成り立ちません。執着とは止まるということなのだから。本当は、何ごとも止まることなどできないはずなんです。止まれないのに止まろうとしたら、苦しいのです。誰かが運転しようとする車に乗って、窓から手を出して、何かを必死でギッと握っていてください。楽しいですか? 楽しいどころか、死んでしまうでしょう? 執着もそれと同じようなもので、すごく苦しいし、危険なのです。

執着が成り立たないとはどういうことですか。

執着がなぜ成り立たないかというと、対象はずっと変わっていっているからです。しかも、自分自身もずっと変わっていっているのです。だから執着というものは、決して成り立たないのです。不可能なことをやろうとするのだから話にならない。執着を捨てるというのは、流れてみなさいよということなんです。
 
 例えば、私が何かを見て欲しくなって、それを取ろうと手を伸ばす。しかし、「欲しいと思う自分(a)」と、「手を伸ばす自分(b)」は違います。すでに変化しているのだから。「手を伸ばして取るもの(y)」も、「欲しかったもの(x)」とは変わっています。ということは、aがxを欲しがったのに、bがyを取ることになるのです。取る時には、aはもういない。執着というのは、aとbは同一で同じものだと勘違いすることです。xとyも、同一で同じものだと勘違いするのです。執着が成り立つには、自分も、ものも、変化せずに止まっていなくてはなりません。しかし、この世で変わらないものは何一つもありません。全ては流動して変わっていくのです。
 
 別の例えで考えましょう。20歳の人が恋をする。相手と楽しく遊ぶために車を欲しがるが、まだ学生で買えません。その人と結婚して子供も生まれ、当時欲しかったタイプの車を買う。しかし、夢は叶っていません。今はすべて変わっている。二人で自慢げにデートすることは、もう出来ないのです。
 
 執着を捨てると、すごく楽です。執着で踏ん張っても長持ちはしません。執着を生きる原動力にするのではなく、その場、その場で、充実感、達成感、喜びを感じるという生き方で、生きる原動力がドンドン現れてくるのです。

人間は楽しく生きていきたいと、楽しみを探し求めて生きているのに、なぜ生きることを楽しめなくなるのでしょうか。

皆さんも、幼い頃は、楽しかったでしょう? 日本では、小さい子供にも、ああなれこうなれと言ってすごく苦しめてますから、たまにしか本当に楽しそうな子供に会えません。でも人生を楽しもうとしている子供はすごく頭がいいし、勇気があります。幼い子には、希望も期待も将来もないのです。子供は「将来」と聞いても、何のことかわかりません。
 
「期待も、希望も、望みもない? そんなのは悲しいではないか」と思うでしょう? 逆なんです。今が楽しい人には、期待も希望も要りません。希望や期待を作った時点で、今の人生に満足していない。生き地獄に墜ちているのです。
 
 もうひとつ、小さな頃は、親が何でもやってくれる。自分のわがままが満たされるのです。眠くなったら、どこででも寝る。心配はなし。それで完全に楽しく生活していたんです。大きくなるに連れて、ゆっくりと、自分でやるようにとたたかれます。ところが、自分でやってもなかなかうまくいかない。それで悔しくなる。人は、「自分でやらなくちゃいけない」とわかった時点で、人生が楽しくなくなるんです。
 
 自分でいろいろやらないといけないようになると、さまざまな要求が出てくる。そこから、希望や、期待や、将来性やら、いろんなことが現れてきます。期待や希望が現れて、それに失敗すると、またそこから期待や希望を作る。「失敗しなければ良かったのに」と思った時点で妄想です。うまくいかないと、希望、期待、夢が、必ず現れる。夢を作った時点で、現実から離れている。「今」ではなく、将来のことを考えるのは、妄想に過ぎません。そんな妄想はいくらでも考えられます。
 
 本当は二、三歳の時に、そういうことを教えてあげるべきです。「がんばれば何でもできるよ」という嘘を教えても、何でもできるはずがない。そういう屁理屈を聞いて夢をつくるほど、苦しみが増えるんです。元気は増えません。夢があると元気だというのは、とんでもない話です。
 
 楽しくいるのは、「今」に生きている現実主義者です。現実主義者は楽しくいるんです。

「佛弟子たちは森に住んでいる(住むところもない)。托鉢(乞食)で一食だけ食べている。持ち物は何もない。それなのになぜ、贅沢に溢れている我々より楽しく生きているのでしょうか? なぜ顔色が美しいのでしょうか?」と仏陀に質問がありました。

「過去のことで悩まない。将来に対する期待もない。こころに執着もない。ただ、(あらゆる妄想を停止して)こころを統一して、その日その日生きている。ですから聖者は楽しいのです。顔色が美しいのです」と仏陀が答えたのです。(サンユッタ・二カーヤ、I.4)
“Anāgatappajappāya, atītassānusocanā;
etena bālā sussanti, naḷova harito luto”ti.

 
 将来のことを悶々と妄想する。過去のことをどこまででも悩む。そんなことばかりしているから、無知な人は、伐られた竹のように枯れてゆくのです。

現実主義者になるとはどういうことなのか。どうすれば現実主義者になれるのか、教えてください。

簡単に聞こえるが、簡単なことではありません。仏道を歩まなくてはならないのです。仏陀に説かれた生き方をすれば、徐々に現実主義に達するのです。しかし、仏陀の教えを実践する人も、結局は「自分の思考・感情・好き嫌い」などの高温の油で揚げてから使用するので、本物にならない。健康になるはずのものが、脂肪が溜った不健康なものになってしまうのです。文句を言わずに釈尊に説かれた道を歩む人は、確実に現実主義になるし、幸福になります。妄想するから現実離れになるのです。論理的・具体的で有効な思考以外は、何の役にも立ちません。生きるエネルギーの浪費である妄想を制御することで、現実主義に達するのです。
 
 妄想の生みの親は感情です。怒り、欲、嫉妬、落ち込み、恨み、後悔、傲慢などです。感情には理性も、論理もありません。感情に支配された人は理性的ではありません。だから妄想は制御しても宜しい。感情は制御しても宜しいのです。妄想を停止するVipassanā実践は唯一の方法にもなります。
 
 では、現実主義を説明いたします。実際我々が生きているのは「今」の瞬間で、「今」の場所です。「今、ここ」です。それ以外のすべては頭の中のできごとです。観念的なことです。過去の瞬間は今の瞬間の原因です。今の瞬間は、次の瞬間の原因です。「今、ここ」という瞬間は過去の結果ですから、今更それはどうにもならない。しかし、今の瞬間は次の瞬間を生み出すのです。だから、今の瞬間に気をつける。今の瞬間を正しく完璧に生きたなら、次の瞬間のことを気にする必要はありません。今の瞬間で精一杯忙しい人に、過去のことを思い出す暇も、将来のことを妄想する暇もないのです。過去や将来を妄想したら、その人は「今の瞬間」を無駄にする。無駄な原因は、無駄な結果を生み出します。人生には、リセット、やり直しはありません。あるのは前へ進むことだけです。我々は、瞬間瞬間単位で生きている。人生の全ての瞬間は、一回限りなのです。
 
 この一回きりの瞬間のみを、無執着の気持ちで生きる。これが、現実主義ということです。難しいかなぁ。とりあえず、聖者、悟った人の生き方と言えばこれなのです。

私たち俗人はどうすればよいのでしょうか。

聖者の現実主義の真似をすればいかがでしょうか? あるいは、「無駄になることはしない。有効に生きる。感情に負けない。慈しみを衝動にする。自分にも他人にも役に立つような生き方をする。罪なんかはたとえ小さいものであっても犯さないぞ」と戒めて生きていればいかがでしょうか?

 または、sati(気づき)の実践をすると、見事な現実主義になります。初めは真似にすぎないが、やがて真似は本物になるのです。