あなたとの対話(Q&A)

行為と判断

パティパダー2006年11月号(111)

人から意見されたり批判されたりした時、納得できないことがあります。そういう時はどうしたら良いですか。

人の批判は、聞くべきです。自分一人でなんでも知っているわけではありません。自分は完璧でもありません。今までも、他人のアドバイスを受けて成長して大人になったのです。自分の短所、間違いなどは、自分では見えないものです。それは、簡単に、他人に見えるのです。ですから、人の意見、批判などは、ありがたいものなのです。
 
 だから人の意見は聞く。しかし、どんな意見でも受け入れる必要はありません。人の言うことを何でも聞くという態度も極端で間違いです。一切頑固に拒絶するのも極端で間違いです。
 
 真理に則った言葉、理性に則った言葉は真剣に聞き入れるべきです。それ以外は、それほど真剣に聞いて受け入れる必要はありません。もうひとつ、まじめにものごとを言う、理性のある、こころ優しい他人のことを心配する立派な人の批判なら、すごくありがたく聞くべきです。逆に、どうでもいい、ろくでもない批判は、気にしなくても良いのです。
 
 人にいろんなことをわざわざ言うのは、多くの場合、一番たちの悪い人間なのです。自分にも人格はない。ものごとは判断できない。精神的に混乱している。それで「あんたはこうしなさい、これはダメではないか、あれはダメではないか」と言いたい放題、人に言う。そんなことを言う本人が、一番大きい問題をもっているのです。そんな言葉は、まともに受け入れる必要はありません。
 
 世間では、その場合でも、こう言われたああ言われたと、生き方を変えようとします。一般人に、どうでもいい人間に、大衆に言われることは気にする。親が言うことには逆らう。それはとんでもないことです。
 
 信頼もできない、道徳もない、人間ができてもいない、人格もない、責任も持たない、そういういい加減な人に何か言われたからといって、「やっぱり気をつけなくちゃ、気をつけなくちゃ」と自分を戒めたなら、だらしない人間が自分の先生になってしまう。「酒も時には飲まないとダメだよ」「社会ではウソも必要だよ」など、ブッダの教えと逆のことを言う言葉さえ聞き入れる。それではひどいことになるのは目に見えています。そういう言葉を聞き入れないからといって、「あいつは頑固者だ」と言われても、頑固ではありません。頭が良いだけなんです。
 
 賢者の言葉を聞くべきです。これは大事なポイントです。生きている上で、いろんなことを言われるでしょう。言われたことを、気にするか、気にしないかということは、誰が言っているのかという、言う人の人格によって判断するべきです。世間では、たいがい、うるさく言う人の話を聞くのです。大きな声の人の話を聞こうとするのです。普通、我々の生きている社会は、頭の悪い人の言うことなら必ず聞く、信頼できない人の言うことなら必ず聞く、無責任でなんでもしゃべる人の意見は聞くということになっています。テレビでも、おしゃべりでうるさい人が売れていて、発言権が強いでしょう。だから、世間の生き方とブッダの推薦する生き方はいつでも逆なのです。
 
 人の話を聞くなら、その人はものごとを考えてしゃべっているのか、相手のことを本当に心配しているのか、そこを見るのです。その人が自分のことを心配して言ってくれているならば、その上、理性のある論理的な話であるならば、話を聞くべきです。そうでなければ「そうですか」と、それで終わっちゃえば良いのです。

善意でやったことを批判されることもありますが、それはどうしたら良いでしょうか。

もし、本当に自分が善意でやったのに、誰かが誤解して批判したのであれば、自分の気持ちはしっかりしているのだから、人の批判は気にしなくて良いのです。あるレストランでごちそうを食べて、すごくおいしかったのに、誰かが「あんなところ、すごくまずいよ」と言っても、関係ないのです。同じように、本当の善意の行為を批判されても、大きなお世話です。
 
 問題は、悟ってない場合は、善悪がゴチャ混ぜだから、純粋な善意ということはほとんどないことです。だから善意のつもりでいても、本当に善意なのかなということはあります。

 できるだけ曖昧な気持ちでやらないように気をつける。やるからにはしっかり善意でやろうと努力する。その場合でも、もし賢者に意見されたら、必ず耳を傾けるべきです。

ふだんは、我のない行動であるかどうか、常に自分で観ておくということでしょうか。どうしても我が潜んでいると思うんです。それを観れる智慧を育てるべきだということですか。

観念的な質問で大げさにも感じます。「自我を発見することを先にやりなさい」などと言うと、いつ善行為をするのでしょうかという矛盾も現れます。
 
 我が全く入ってない行為というのは純粋な善行為で、何の問題もありません。そこは厳密です。本当に我が消えたなら、その人には善も悪もない。善悪を超えているのだから、批判は成り立ちません。しかし、そこまでになるのは並大抵ではありません。普通の人々は、なるべく欲や怒りがないようにと気をつければ、それで善行為になります。
 
 我がない人は悟った人です。その人はすごく輝いています。すごく元気になって、なんでもできるし、なんでも成功できます。我が入ると、重くなって、どこかうまくいかないのです。
 
 たとえば、誰かが溺れているとします。我がない人は、助けようと川に飛び込んで、簡単に助けることができます。我が入ると、着替えをしようとしたりする。川に飛び込んでも自分も溺れたりしてしまう。我がない人は、純粋な好意だけで動くことができるので、奇跡的な力が入るんです。
 
 それで、我々は善行為をしながら、自我が割り込まないように、気づくことはできるのです。悟りを開いてないから、いとも簡単に自我が割り込む。その時、観察する人は、よく気づくのです。
 
 行為が面白くなくなった、嫌になった、批判する人に対して腹が立ってしまった、元気がなくなった、などの症状が現れる。それは、自我が善行為に割り込んだということです。
 
 そこで再び自我意識を退治すれば、元気になる。仕事も上手くいく。

無心になるというのと、同じことでしょうか。

そうですね。俗世間でも、経験から、無心というのがすごい力だとわかっているでしょう。無心とは、我がないということです。野球選手でも、無心になれたら、すごい力が出るのです。実際は、野球だって、お金のためにやっています。しかし、球を打つ瞬間だけでも無心であれば、ヒットすることが出来る。その時は、「自分は自分の仕事をするんだ」と、我を措いておく。
 
 どんな仕事でも、「仕事を失敗しては良くない」と、自我意識を後回しにして仕事をすると、成功します。なぜかというと、それは完全な善意だから、想像を絶する力が出るのです。

日常の行為では「やるべきかやらざるべきか」と、大したことなくても迷うことがあります。その時は無心ではないから、やらない方が良いですか。

それはケースバイケースで、一概には言えません。迷っているのはどんなケースか、その行為そのもので判断しないとね。
 
 たとえば「人にご飯をごちそうするのは善ですか、悪ですか」という問いには答えはありません。それは条件によって善にもなるし、悪にもなります。
 
 そういう些細なことでも、やった方が良いかどうかは、結果で判断するのです。「これをやったらどういう結果になるか、やらなかったらどういう結果になるか」ということを見ると、「やっぱりやろう」「これはやらない方が良い」と答えが出ます。

その場合は過去の経験で判断することになるわけですね。

あまり大げさに考えなくても、そんな遠い未来のことじゃないし、日常の些細なことなのだから、結果はだいたい見えるでしょう。良い結果が仮定できるなら、やった方が良いんです。良い結果があるとわかっていても迷うのであれば、自分の心が汚れているのです。

これをした方が良いと思っているのに、どうもやる気が出てこないことがよくあります。

善行為を邪魔するのは、たいがいは欲か怒りです。プライドや怠けなど、悪い心所(心のはたらき)がこころに入っているのです。
 
 悪い心所が入らない場合は、人は迷いません。淡々と生きているんです。「迷い」という言葉自体が無明でしょうしね。判断できない時は、昏沈(落ち込み)、掉挙(混乱)という混沌状態があるのです。「迷い」とは、感情的になって、「やりたいんだけどやりたくない」「やるべきか、やらざるべきか」と混乱している状態です。怠け、プライド、怒り、欲などの煩悩が迷いを生むのです。
 
 良いと思うことは、できるだけ迷わずにやった方が良いと思いますね。
 
 だからといって、人間にはできることもできないこともあるのだから、良いと思うことはなんでもやるというのもムリな話です。できることとできないことは、具体的にはっきりしているはずです。できないこと、不可能なことは、「これは良いことかもしれませんが、私には無理です」とはっきりした方が良いんです。無理だということを理解しないで、「やりたいけれどやれないんだ、やりたいけどやれないんだ」と悩む状態もまた悪行為になります。
 
 できるだけ迷いは避けるように、智慧を磨いた方が良いと思います。

良いことをすれば良い結果があるということが、なかなか納得できません。

善行為をすれば良い結果がある、悪いことをすれば悪い結果があるというのは、宇宙の法則のようなものです。宇宙といっても、生命の宇宙、全生命体の法則です。DNAで身体の構造が決まっているのと同じように、こころにある方程式が、我々の幸不幸を決めてしまうのです。
 
 すべては因縁で成り立つものであって、無常だから、いつでも変えることが可能です。だったら良い方向に変えた方が良いというのは、当たり前でしょう。だから人は常に良いことをするべきなのです。それを理解して、賢い人は良いことをする。アホな人は悪いことをする。それが仏教の道徳論です。道徳といっても法則だから、すごく徹底的に決まっています。
 
 道徳の場合、具体的な行為については、曖昧はダメです。実際にやることだからね。必ず左か右かはっきりしないといけない。左と右に道が分かれていたならば、どちらかを選ばなければならないのです。だから道徳行為はしっかりと決めておく必要があります。良いことは良い、悪いことは悪いと知っておくことです。
 
 例えば人を殺したら悪いと決めたなら、一切の人殺しは悪いと決めないといけません。言いわけは成り立たないのです。たとえ戦争だからといっても、人を殺して良いわけじゃないんです。殺されかけたから殺したというのも、人殺しには変わりありません。
 
 道徳は膨大な世界だから全部はしゃべれませんが、悪いことは悪いと、はっきりとしています。仏教の戒律を勉強すると、それぞれの行為について、これはこういうわけでこうなると判決を出してます。それはデータに則って、はっきりと決まっていることです。