あなたとの対話(Q&A)

眠気は嫌気

パティパダー2007年2月号(114)

時々、ぼーっとして、眠いような、何もやりたくないようなことがあります。そこからなかなか抜け出せない時はどうすれば良いでしょうか。

そういうのは気をつけた方が良いのです。原因は色々ありますが、とにかく、夜が遅いわけでもないのに鈍くて眠いような状態はクセになります。心に眠気のクセがついたら大変です。簡単には治らなくなるのです。そういう状態は、できるだけ早く切らないといけません。抜け出せない状態は危険です。
 
 眠いような状態から抜け出すには、心を活性化することです。何をしたら心が活発になるかは人によって違います。自分でいろいろ試してみて下さい。体を動かして、少々汗を出して、血液が早く流れるようするのも良いのです。太極拳でも、また他の類似するものでも、やってみるのも宜しいです。何か自分が面白くなることを始めたら元気になります。
 
 眠気の煩悩を昏沈睡眠といいます。これは冥想の大敵で、とてもやっかいな煩悩なのです。日常生活にも悪影響を与えます。

眠くなると、体自体もだるくなるみたいです。

心は、常に、絶えず肉体に影響を与えているのです。仏教のアビダルマ論に基づいていうなら、肉体の物質(色)の四分の一ぐらいは心がつくります。ですから当然、眠気は体を変化させます。心が眠いと、体の中に眠い物質(地色が多い)をつくるのです。そうすると体が鈍くなって、それがまた心に影響を与えて更に心を鈍くして、ドンドン眠くなっていく。その悪循環は簡単に現れます。心と体は相互依存なのです。心は体に依存していて、また、体は心に依存している。眠気が出たら悪循環に陥らないように、なんとか早く心と体を活性化させることです。

 例えば、本を読んでいて眠くなったら立ってみたり、そのまま立ちっぱなしで本を読んでみるとかね。あるいは何か他の仕事、掃除したり、料理したり、自分が目覚めて元気になる仕事をする。実況中継しながら仕事をすれば、修行にもなります。

冥想していても眠気が出てきて苦しいことがあります。これはいけないとわかっているのに、眠気が出て、どうしようもないのです。

冥想は、眠気と戦いながらするものです。しかし、冥想しながら知らず知らず「眠気は嫌だ」という気持ちが生じていたなら、怒りが生じていたのです。そうすると、冥想という善行為をしているつもりでいたのに、自分の中に怒りという不善をいっぱい溜めていたことになるのです。
 
 怒りのストレスが溜まると、体はすごくだるくなる。重くなってくる。堅くなる。柔軟性がなくなる。それで痛みも出てくる。…とにかく悪い方向に行くんです。やっと怒りがなくなったと思うと、眠くなってしまう。そういう足踏み状態で冥想しても、当然、期待通りの結果は望めない。そこで続いて不審になって、疑という煩悩が出てくる。せっかく修行をしているのに踏んだり蹴ったりですね。
 
 しかし、これはよくあることです。どんな人も、冥想をしていると、かなり長い間、いろんな煩悩との戦いがあるのです。
 
 いろんな煩悩の中でも眠気は特に問題です。なぜかというと、眠気は心を鈍くするので、サティ(気づくこと)自体ができなくなってしまうのです。それは冥想そのものができなくなるということです。

冥想の時に眠気を覚ますには、どうすればいいでしょう。

「これ」という答えはありません。自分でいろんな工夫をするのです。坐っていて眠くなったら、歩く冥想をして体を動かしてみる。あるいは、冷たい水で手や顔を洗ったり、足を洗ったりする。実況中継しながらお茶を飲む、外を歩くなど、いろいろな方法があります。
 
 眠ってしまうのは負けたことの印で、眠気のゴールです。実際は、ゴールに到るずいぶん前から眠気が出ています。できるだけ早く眠気に気づいて、眠気が弱いところで切るべきです。その方が切りやすいのです。すごく眠くなってからでは、眠気のエネルギーが強くなっていて、どうにもなりません。
 
 眠気が出る前に、わけのわからない感情が生まれます。心がそれを感じて、もやっとした妄想がつくられるんです。その瞬間のゴチャゴチャした妄想をサッと確認できたならば、瞬時に眠気は、はじけてしまいます。

ひどい時は、歩く冥想をして歩きながらも眠いことがあります。

子供なら歩きながらでも眠い時には眠るが、大人は違うと思います。本当は、歩く冥想をしていたら、心が落ち着いて統一状態になるはずなんです。そうなったら眠気は出てきません。
 
 そうならないということは、意志が弱いというか、半信半疑というか、中途半端なのです。弱い意志で「まあ一応やってみよう」という感じでやるのだから、精神統一どころか混乱状態に陥る。イライラが出てくる。面白くなくなってしまう。面白くないことは、やめたくなるのが普通です。

 もっと真剣に歩く冥想をがんばってみて下さい。それで集中力が出て、眠気なんかは消えてしまうはずです。

要するに、決めていないということですか。心がはっきりしていない、中途半端な状態でやっているということですか。

確かにその通りです。いわゆる「疑」という状態ですね。

 疑いには二種類あります。「本当かどうか確かめたい」という善の疑いと、ただの無知から出る不善の疑いです。本当なのかと確かめようとする努力は良い疑いで、そういう疑いがあるとエネルギーが出てきて元気にしてくれます。それは知識人の、理性がある人の疑いです。これは疑いというより「意欲、やる気」と言った方が良いのですが、世間では「疑い」と名付けています。
 
 ぼんやりしてわけがわからない、わかろうともしないような無知の疑いが「疑」という煩悩です。これはエネルギーをなくしてしまうのです。冥想修行をがんばろうと思う人は、「冥想なんか真っ赤なウソではないか」というような強い疑はないんです。「冥想をやれば良いに違いない」という気持ちはあっても、やはりまだ悟ってないから、疑や眠気や欲や怒りなどいろんな煩悩が出てくる。そういう煩悩が出ると、歩く冥想にエネルギーが入らなくなる。歩くことに興味が得られなくなって集中力がなくなるんです。

歩く冥想をしていて「こんなことをして何の役に立つのか」と思う時があります。

それは、不善の「疑」です。そういう時は無知が強くなっていて、混乱状態にいます。疑という煩悩は、ちょっとずつ強くなります。あまりにも疑が強くなると、冥想をやめてしまうのです。そこまで行かなくても、疑があると、気持ちよく冥想することはできません。それに、疑が出ると、疑と共に生まれる他の不善心所(不善の心のはたらき)も出てきて、よけいに冥想がイヤになったり、眠くなったりしてしまいます。

歩く冥想は、時間的には結構長く歩いていますが、どうも集中できません。

冥想は力比べではない。時間を評価するわけではありません。どのくらいの時間落ち着いて気づき(サティ)ながら冥想できたかが、大事なポイントです。

「こんなことをやって何になるのか、こんなことは無意味でばかばかしいのではないか」と思った瞬間、自分の実践に対して自分が疑っている。そういう疑という煩悩が生じたということは、善からはずれて不善の道にいる状態なのです。善は善を呼び寄せ、不善は不善を呼びます。不善の道にいたら、当然、修行は進まないし、良い結果も出ずに、ストレスがたまります。

不善の状態に気づいたら、そこを抜け出すにはどうしたらいいですか。

この質問にも、「これ」という一つの答えはありません。がんばらないことも、がんばりすぎるのも妨げになるのです。ですから「中道でがんばる」ということを覚えておいた方がいいと思います。「中道」という言葉を覚えておくと、不善の道を調整できるのです。
 
 善の道は、一本のレールにたとえることができます。修行者は自転車で一本のレールの上をこいでいるようなものなのです。左も右も不善の道です。そちらに落ちないようにするためには、かなり気をつけて、微妙にハンドルを調整しないといけない。ちょっと間違ったら不善の方にこけてしまう。そうなったら、また起きあがって、再びがんばる。ただがんばるだけでは足りません。ちゃんと進むには、学習能力も必要です。左側に落ちたら、「なぜ自分は左に落ちたのか。右手の力が入りすぎだからだ。なるほど、左の手の微妙な筋肉をもうちょっとコントロールすればいいんだ」とコツをつかむ。そうやって進んでいると、今度は右にこけたりする。「なるほど、自分はまたバランスが取れていない。バランスを取るためにはどうすればいいのか」と。自転車そのものも精密に調整する必要がある。車輪の輪もミスがない状態で、ハンドルもきちんとまっすぐにしていないとうまくいきません。レールにはカーブもある。その時はカーブを曲がる工夫をしないといけない。
 
 修行も同じように、微妙な調整をしながら中道で頑張らないと、つい不善の道に入ってしまうのです。

どうして疑が生まれてくるんですか。

私たちが修行をしていると、どこかで疑が生まれてくる。あるいは、眠気、怒り、欲、慢が生まれてくる。それがなぜかというと、基本的に無知だからです。無知をなくすには、心の理解というか、心からわかることが必要なのです。修行する人は、頭では「やらなくてはいけない」と思っていますが、頭だけの理解でやっているから、こけてしまうのです。心でわかることを、悟りと言っています。
 
 私たちは、悟らないうちは、どうしても煩悩に足を引っ張られます。眠くなったり、痛みに負けて修行をやめたくなったりする。それに気づいたら、またがんばって持ち直して、なんとか努力する。それで元気になりますが、またこけてしまう。そこをなんとか、またがんばって持ち直す。そういうことを、くり返してくり返して、修行が進んで行くのです。

 そこをうまく乗り越えるには、中道という言葉を忘れてはいけません。中道を歩くとは、智慧の道を歩むということなのです。中道とは、やりすぎず、やらなさすぎず、適度にがんばることです。といっても、中道を理屈で理解しようとすると、すごく難しいのです。しかし、実践しようとすれば、それほど難しくないと思います。実践の中で、自分を観察しながら、善いエネルギー(サティや精進など)が弱くなってきたら、その辺でやり直せばいいのです。それは自分にしかわかりません。例えば、坐禅をしていて眠気ばかり出るのであれば歩く冥想をしたり、歩く冥想にも集中できなければ気づき(サティ)ながらお茶を飲んでみたり、自分で試行錯誤しながら中道を捜していくことです。