あなたとの対話(Q&A)

幸も不幸も自己責任

パティパダー2007年4月号(116)

子供の病気が心配で、すぐあれこれ考えてしまいます。「心配する」というのは冥想すると直りますか。また、冥想したら子供の病気が良くなるということはありますか。

一番目はできますが、二番目は無理です。自分が冥想して子供を何とかしようというのは、私が薬を飲んで子供の病気が治りますかというのと同じことでしょう。良くなるどころか、親が心配ばかりしたら、子供は更にストレスを感じたり、自分が親に迷惑をかけているのではないかと逆心配して、反って治りが遅くなることもあり得るのです。
 
 心配も二種類です。慈しみになる心配と、怒りになる心配です。純粋に相手の幸せを願って、早く治って楽になれば良いと思うのは慈しみの心配です。慈しみの心配なら、仏教が実践しなさいと推薦することでもあるし、相手に良い影響を与えるから治りも早くなります。しかし、「なんでうちの子が病気になるの?これは嫌だ。早く治らなくては困る」というような心配は「怒り」で、悪い波動です。

 二種類の心配の区別を明確に言葉で書くことはできませんが、一人一人が自分で区別できるように工夫しなくてはならないと思います。

慈悲の冥想で親しい人々の幸せを念じますが、それが回向(えこう)されて相手に届くということはないのですか。

回向というのは、自分が徳を積んで、その徳を他人に与えることです。「親しい人々が幸せでありますように」と念じることは、慈悲の実践で、自分の修行なのです。「回向」ではありません。ただし、いっぱい慈悲の冥想をして、その功徳を回向することはできます。回向したら、その功徳は届きます。といっても、それは様々でバラバラです。回向は、相手が拒絶するならば入りません。相手が受け入れても、受け入れる側の心境によって結果が変わります。相手が、怒り、憎しみで悩んでいる人なら、また、仏教が大嫌いで拒絶反応でいるならば、受信状態は厳しいでしょう。相手方も慈しみの気持ちを持つ人であるならば、繋がることは簡単でしょう。
 
 回向だけでなく、「親しい人々も幸せでありますように」と念じ続けると、その波動が届かないとは言えません。しかし、そんなことをあまり強調するのは良くないのです。仏教は祈祷の宗教だと勘違いされる恐れもある。迷信だと誤解される恐れもある。さらに問題なのは、こちらが勝手に慈悲の冥想をしたり回向して誰かを幸せにできると言うと、本人は努力しなくても幸福になるということになってしまう。努力せず幸福になるというのは邪見です。因果法則に合いません。極限的に言えば、私が修行してあなたを悟らしてあげると言えることにもなって、なんだか「私がご飯を食べてあなたの空腹感を治してあげる」というようなことになってしまいます。
 
 ですから、慈しみの気持ちは通じるのだと理解しても、それを極限に強調すると邪見になると理解しなくてはなりません。慈しみ、回向などは通じるが、因果法則を超えることはできない。理性のある人は、そんなことはあまり気にせず、一生懸命に慈悲の実践をします。いつでも全ての生命に自分の功徳を回向し、見返りなどは気にしません。しかし、自分の行為は空回りにはなってない、それなりの幸福の結果がある、と納得できるぐらいの証拠は得られます。

親はどういう態度で子供に接するのが良いのですか。

先ず仏教で一般的に教えているところを説明します。慈悲喜捨《じひきしゃ》は「母の子供に対する気持ち」として説明してあります。子供に接する親の態度は、慈悲喜捨なのです。

 慈は友情です。子供にとってこの上のない友人になること。悲は抜苦ともいいます。相手の悩み苦しみをなくしてあげたいという気持ちですね。子供が困っている時、悩んでいる時、助けることです。喜は相手の幸福を素直に喜ぶことです。子供の幸福、成功、努力などを、親が素直に喜んで、お祝いしてあげることですね。捨は冷静にいることです。ものごとを平等に受け入れることです。子供が独立して自分なりに生きるようになったら、何も言わずに見守ってあげることです。冷静に、落ち着いて、自分の老後のことでも考えることです。
 
 子供に必要なのは、小さい時には自分のことをそのまま理解してくれる人。それから自分が成長しようと努力すると応援して、それなりに協力してくれる人。その二つが両親の仕事です。
 
 仏教では、「わが子は我の分身」という考えはありません。全ての生命は、それぞれ別々な生命です。「私の子だ」と愛着すると、その生命の自由を侵害したことになります。自由を侵害すること、権利を侵害することは、罪です。罪は悪い結果を出します。激しい愛着で、執着で、自分の分身だと思って、自分の所有物だと思って子育てをするから、沢山の問題が起きるのです。正しく(慈悲喜捨の基準で)育てれば、子供は一生親を尊敬します。大事にします。面白いですよう。執着すればするほど互いに憎むようになり、敵同士になります。執着を捨てれば捨てるほど、互いに親しくなり、信頼するようになります。大事にするようになります。しかし、親に「自分の子供に執着してはいけません」と言っても、よくわからない。無執着とは無関心だと勘違いして、反発するのです。無執着は無関心の同義語ではありません。執着・愛着ではなく、慈悲喜捨ですよう。
 
 私は、このように話したことがあります。「自分の子供を見て『これは自分の所に来た宇宙人だ。私以外誰もこの子のことは知らない。だから育て上げなくてはいけないのだ。異星人だから理解に苦しむところはたくさんあるだろうが、徐々に互いに理解できるようになるだろう。とにかくこの世で皆に認められるような人間に育てます』と考えたらいかがでしょうか。子育て程簡単なことはないと言えるようになりますよう」と。このように面白可笑しく言いましたが、冗談を言ったのではありません。生命に対する真理と、相手に対して取るべき正しい態度を説明したのです。これが無執着のアプローチです。

それは、冥想をすると、そうなれるのですか。

そうです。慈悲の冥想をするならば、子育てだけでなく、人間関係で起こる全ての問題は解決します。冥想を、観念的な頭だけの運動にしないで、人に対して慈しみで接することも必要ですね。それを忘れると慈悲から恵みを頂くことは難しい。一人でいる時は一切の生命に対して慈しみがあるのだが、社会に出たり自分の子供のことになったら感情的になる、カッとなる、怒ってしまうと言うならば、意味がありませんね。ですから、子供に対応する時、社会に入る時、「では、慈しみでやってみます」と決めなくてはならないのです。そうすれば、「生きることが奇跡的に楽になった」と言うに違いありません。
 
 ヴィパッサナー冥想もやらなくてはなりません。慈悲が育つと、悩み苦しみを作る病原菌は発病しない睡眠状態になりますが、ちょっとの不注意で煩悩が活動を始める恐れもあるのです。ヴィパッサナーで智慧が現われます。智慧は心の煩悩を消します。悩み苦しみの病原菌を殺菌するのです。身体から細菌が消えて抗体が出来たなら、もう心配することはありませんね。常に注意していなくても良くなります。智慧が育つと、煩悩がなくなるし、抗体もできて、世の中の人が煩悩で悩んでいても、自分を誘惑しようとしても、自分には何の影響もなくなるのです。
 
 というわけで、慈悲の冥想で素晴らしい性格の人間になって欲しいのです。その状態をヴィパッサナー冥想で固定して欲しいのです。

自分の心を自分で育てて幸福になるのが仏教だというならば、慈悲の冥想で、親しい人々の幸せや悩み苦しみがなくなることを願うことは矛盾にならないですか。

矛盾になりません。慈悲の冥想は自分の問題です。自分が本当に人の幸福を願うような広い心を持っているのか、そういう優しい人間になっているのかということです。それは私の修行であって、私が人格者になるための実践であって、相手を直すためではありません。自分がすごく清らかな精神的エネルギーを持っている人格になったら、人を助けることもできます。
 
 本当は、人間というのは、自分のことしか心配しない。わがままなんです。そこが一番問題です。わがままで期待するものは決まって逆になります。わがままは、どんな幸せも粉々に壊してしまうのです。

 しかし、自分がわがままであることは、修行しない限りわかりません。そう簡単にわかるものではないのです。なぜかというと、生命は、わがままになるようにできているのです。自分が知っているのは、自分が見たもの、自分が聞いたもの、自分が考えたものでしょう? 隣の人が見たもの、聞いたもの、考えたものを理解する能力は、我々にはありません。「私は人の気持ちがわかりますよ」と言っても、それも自分の主観です。ホームレスは気の毒でかわいそうだと思っても、本人がどう思っているかはわかりません。どう頑張っても、他人のことというのはわからない。その問題は、「私」という、自我というものがあるからです。ものごとがうまくいかないのは、「私」という気持ちがあるせいなのです。
 
 慈悲の冥想は、その自我というものを薄くしてくれます。私の小さな汚れている自我を、大量の水に溶かして、溶かして、自分だとわからなくなるところまで薄めてくれるのです。そういうことだから、これは私の修行であって、そちらに矛盾は成り立ちません。慈悲やヴィパッサナーで自我をなくすことは、他人の幸福にもなります。自我のない人には、他人を幸福にしてあげることもできるのです。
 
「親しい人々は幸せでありますように」と念じたところで、次から次へと皆が幸福になってしまったというならば、因果法則に合わないのです。矛盾です。これは、先程説明しました。
 
 幸せは、常に、今ここにあるのです。エゴで、自我で、目が見えなくなっているから、期待はあるが幸福にならない。美しい作品を鑑賞したいと希望しながら、美術館で目隠しをしているようなものです。

先生は、今、私たちが美術品のように美しく見えているということですか。

そんなに美しいと思ってるの?(笑)

 皆様方が美しくて、そのおかげで私が楽しくなっているのだというと、それは幸福を他人のせいにしています。それが成り立たないんだと言ってるんです。幸福は他人のせいではない。すべては自分の見方次第だということです。自分がどう思うかは自分の問題で、人のせいにはしない。他人はどうであっても、自分は穏やかな気持ちでいるんです。
 
 例えば、すごくうるさくて迷惑な、嫌なことばかり言う人がいたとする。その人に「嫌な人だ」と腹を立てると、自分が不幸なんです。「この人ってうるさいなあ、どこか壊れているみたいだ。だからなかなか止まらないんだ」と思う人は楽にいる。そういう人の幸福は誰にも奪うことはできないんです。
 
 とにかく、エゴはすべての幸福を壊します。エゴというのは、自分でプログラムを組んで「世界がこうなってほしい」と期待・希望することです。エゴをなくす一番早い方法は慈悲の冥想です。冥想は自分の性格を直してしっかりさせるための訓練ですので、しっかりがんばってみてください。

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