あなたとの対話(Q&A)

世俗の「ムダ」と、聖の「ムダ」

パティパダー2007年8月号(120)

お釈迦さまはムダなことはされないと聞きました。「ムダなこと、ムダでないこと」とはどんなことなんでしょうか。

ムダについては、俗世間的な立場と、精神的な立場と、二つの立場で見た方がいいのです。精神的な立場も二つの段階に分かれますが、それは後で述べます。


■俗世間的な「ムダ」

まず俗世間的な立場。我々は生きている、死にたくはない。ですから、生きるために、いろんなことをしています。
 
 生きていくためにやることはムダではありません。生きるために必要なこと以外のことは、ムダです。ムダなのだから、生きるために必要なこと以外のことについては考える必要はありません。不必要なことを考えることも、ムダなのです。生きるために役に立たないことは、全部ムダだということになります。
 
 それを基本に、自分の行動を観察してみましょう。
 
 例えば、勉強することはどうかというと、生きるために役に立つでしょう? ですからムダではありません。料理をつくることも、生きるために必要ですね。だからムダではない。しかし、料理にも、別に必要のないこと、ムダも見られます。服を着ることやお化粧することも、一概にムダとは言えませんが、ムダも見られるはずです。
 
 ムダか、ムダでないかの判断基準は、「本当に役に立つか、それがなければ生きていられないのか」というくらいのことです。そこを理解しておくと、お釈迦さまがおっしゃった「節度を持って生きる」ということが完成します。
 
 例えば、おしゃれする時も、ムダにならないように、適度を知って装う。食事を作る時も、ムダにならないように、適度に料理する。映画を見ること、テレビ見ること、買い物をすることなど、何でも、ムダにならないようにする。何をする時も、「必要か、必要でないか」と常に気をつけるのです。映画を見る時でも、「これはこういうことで必要だ」ということで見るのです。
 
 これはシンプルに聞こえますが、大変なことです。本当にこの生き方をすれば、一日で、人生が変わるのです。この生き方で、どんな時間もムダにすることがなくなるのです。
 
それが俗世間的な、ムダなく生きる方法です。


■精神的立場の「ムダ」……第一ステップ

次に精神的な立場についてお話しします。精神的な立場は二つの段階に分かれます。まず第一段階の精神的ムダの基準は、「煩悩(貪瞋痴)の衝動による行動であるのか、そうでないのか」ということです。
 
 煩悩(貪瞋痴)の衝動による行動は、すべてムダなのです。怒ったり、欲張ったり、嫉妬したり、怠けたり、とにかく感情的に何かをしたならば、その行為は全部ムダです。例えば、怒って何かをしたら好ましい結果が出るはずがないのだから、結局やり直さないといけなくなる。だから時間のムダ。失敗です。
 
 仏教では、欲や怒りによる行為は「罪」なのです。なぜなら、それは自他を不幸にする行為だからです。罪を犯したなら、生きる役に立つはずがありません。
 
 この段階の精神的なムダと俗世間的なムダは、つながりがあるのです。貪瞋痴で生きると、「生きていきたい」という俗世間の目的とも反対のことをしたことになります。
 
 精神的にムダなく生きるとは、貪瞋痴から離れるということです。ということは、当然、ムダなく生きた人は人格的にも優れた人間になるのです。
精神的立場の「ムダ」……第二ステップ
 
 それだけでは終わりません。精神的な立場は二段階あるのです。「貪瞋痴から離れる」ということの次のステップは、「輪廻転生から離れること、解脱すること」です。
 
 人は、「生きていきたい、死にたくない」と思ってはいるが、誰でも必ず死ぬのです。しかし、それで終わりではないのです。生命は、限りなく輪廻転生していくのです。限りなくというのは、永久的に繰り返していくということです。これをイメージすることは非常に難しいのですが、たとえて言えば、檻に入ったリスが、運動のために備え付けられた輪っかの中をグルグル廻りながら永久的に走りつづけているようなものです。終わりがないのです。生まれては死ぬ、生まれては死ぬ、生まれては死ぬ、生まれては死ぬ……の繰り返し。死んだら今の人生よりも良いところに行けるのであればまだ良いのですが、そうでもないのです。
 
 ですから、輪廻転生とは、決して楽しい話ではない。怖ろしい話なのです。輪廻転生することこそ最大のムダな行為だということ。これが二段階目の精神的ムダの基準です。
 
 輪廻転生することは、グルグル廻るだけのことで、ムダである。高いレベルでは、輪廻転生するというムダもなくす。たとえ罪を犯さなくても、それだけでは、輪廻転生からは逃れられないのです。最終的な段階では、輪廻を肯定すること、つまり、俗世間を肯定すること、生きることを肯定するものは、一切ムダになるのです。仏陀の高いレベルから見ると、食べて楽しく生活することはムダです。この立場では、勉強することでさえ、ムダになるのです。


■聖と俗

三段階のムダを理解するのは難しいかもしれませんが、気をつけて、俗世間と精神的な世界を分けて考える必要があるのです。精神的な世界も、罪を犯さないという段階と、輪廻から脱出するという段階と、二段階に分けるのです。
 
 理性のある人は、その三つをゴチャ混ぜにしないのです。例えば、わざわざ学校に行って、「勉強はムダなのだから、学問なんかムダだよ」と言ったらどうなるでしょうか。とんでもないことになってしまうでしょう。聖と俗をゴチャ混ぜにすると、そういうおかしなことになるのです。完全にムダのない人生を生きるためには、三段階を区別して行動する必要があります。仏教を語る時、必ず皆矛盾してしまうのは、この三つの立場があることを理解してないのです。聖と俗をゴッチャにして、生きることを肯定しようとするから、わからなくなるのです。
 
 例えば、仏教では「殺生してはいけない」と言います。すると、「そんなことを言っても、食べることはどうするのか」とすぐ質問が来るのです。こちらは、あなたは漁師でしょうかと聞きたくなるのですが。漁師でなかったら関係ないでしょう。しかし、それを言っても、理解できません。「でも私は食べているのではないか」と反論するのです。
 
 そのように真理が素直に入らないのは、あくまでも生きることを肯定しているからです。お釈迦さまは、生きることを肯定して法を語られたわけではないのです。解脱を肯定して語っておられるのです。輪廻を脱出することを肯定して語っておられるのです。そこが理解できると、生きることと幸福というのはかみ合わないんだよということも、理解できるのです。
 
 魚を釣って料理して食べたらおいしいかもしれません。しかし、その分、殺生することによって、自分が不幸になる業をためているのです。病気になる業、短命になる業、いじめられる業、殺される業など、不幸のもとをたくさんためることになるのです。たまの休日に魚釣りを楽しむというのは、ほんのわずかな楽しみでしょう? しかし、そのツケは、比べものにならないほど膨大なのです。


■本義の「ムダ」

真理の立場から見ると、生きることと幸福はかみ合わない。それが本当のブッダの世界の話なのです。これは一般的な説法の話ではありません。私も、一般的な話では、「幸福に生きる」という言葉を使います。しかし本当はそんな言葉は矛盾で、成り立たない話なのです。真理は、生きることは苦なのです。苦しんで生きるしかないのが本当の姿です。「幸福に生きる」というのを正確に言えば、「苦しみをできるだけ控えめに生きる」ということなのです。
 
 そういう真理の立場から見ると、生きることを肯定する生き方、教え、思考など、とにかく輪廻を肯定することは、すべてムダなのです。本義の、本当の意味のムダというのは、これです。
 
 輪廻を脱出するための行為、解脱するための行為こそ、有意義な行為です。これは純粋に有意義です。

 そういうわけで、妄想することは完全なムダになるのです。何の意味もありません。妄想を断とうとするヴィパッサナー冥想は、唯一の有意義な行いなのです。サティという機能は、唯一の、有意義で、ムダにならない行為なのです。
 
 これで終わりです。ムダという質問に対しては完全に答えました。ムダについて語り残したことは、もう何もありません。
 
 ムダには三段階があります。まず、俗世間のムダと、精神的な世界のムダ。俗世間のムダも無視できません。悟るにしても、悟るまでは生きていないと成り立たないし、悟りを開いても死ぬまでは生きている。だからこの世界のムダを知っておくことも、どうしても必要なのです。精神的なムダのところは二段階にしておく。貪瞋痴を離れる段階と、輪廻を離れる段階です。
 
 この三セットのムダをちゃんと理解して、場を間違わないで使わなくてはいけません。場を間違ってしまうと最悪なのです。場に合わせて、そちらでの有意義な行為をしないといけないのです。場を間違うと、おかしくて、話になりません。
 
 パーティーで楽しくおしゃべりするのは当たり前で、何もおかしくはない。だからといって、修行中にしゃべっていたら、話にならないのです。俗世間でサッサとなるべく早く仕事をするのは、理性的でしょう。冥想の時は超スローで動きます。会社でそんな調子でいたら、場違いで、叱られてしまう。叱られたのは、ゴチャ混ぜにしたのです。ゴチャ混ぜにしたら大失敗になるんです。
 
 そういうわけで、三つの場を理解して、間違わないように使用すれば、完全にムダのない生き方ができると思います。