慈悲は真理の生き方
パティパダー2007年10月号(122)
慈悲の冥想に「私が嫌いな人も、私を嫌っている人も、幸せでありますように」とありますが、これは宗教的な理想像なのでしょうか。私には、その捉え方だとわかりやすいのですが。
「宗教的な理想像」として捉える意味がよく解らないのですが、「これはある特定の宗教の観念であって、信仰のない人には関係ない」ということであれば困ります。そういう捉え方をするよりも、真理として捉えればどうですか。「真理」というのは、一人一人の気持ち、好み、生き方などには全然関係ありません。真理とは、例えば「地球が丸い」というレベルの話です。地球が丸いという事実は、ミミズにも、犬にも、猫にも、誰にとっても地球は丸いのです。彼らに理解できないからといって、地球が平らになるわけではありません。
ブッダが語る教えもアドバイスも、「真理」なのです。ある特定の信仰組織の理想でも観念でもありません。仏教の対象は一切の生命です。ブッダの説かれた教えは一切の生命に当てはまるものなのです。ブッダは人間に向かって説かれているのだから、実践できるのは基本的に人間になります。しかし、他の生命にとっても、他者に優しく対応することは善いことなのです。テレビで猫が犬の子供におっぱいをあげている場面を見ました。その猫は母親猫というわけでもありませんでした。自然の摂理で考えれば、おっぱいは出ないはずなのです。しかし、親がいない赤ちゃんの仔犬を見て、こころが痛んだのでしょう。この優しいこころのおかげで、おっぱいが出たのです。これは誰でも感動することではないでしょうか。慈しみは、本来、すべての生命が行うべき「真理」の生き方なのです。「嫌いな人も私を嫌っている人も幸せでありますように」と思うことは、すべての生命が行うべき生き方です。特定の信仰ではありません。哲学でもありません。
しかし、会社の中で揉まれていると、そんなことを言ってる場合じゃないということがあると思うんです。
なぜ「会社の中」と限定するのでしょう。家の中でもどこにいても、「そんなどころではない」と言える場面はいくらでも出てきます。店の中でも、電車の中でも、外国旅行中でも、そのような環境に遭遇するのです。
「嫌いな人、嫌っている人」を攻撃すること、嫌うことは、誰でも自然にやることです。犬も猫も、当たり前で、自分の気に入らない相手を攻撃するのです。しかし、それこそがなすべき生き方だと言えるでしょうか。何の成長もない人間は、動物と同じく、「嫌な人を嫌になることは当然だ」「敵を攻撃するのは当然だ」「殴られたら殴り返すこと、殺されたら相手も殺すことは当然だ」と思っているのです。
またテレビの話ですが、イランの故アヤトラ・ホメイニ(最高実力者)の話の一部を聴きました。彼が、「イエスの教えは間違っている。右の頬を殴られたら左の頬も差し出しなさいというのは間違いだ。本物の預言者なら、そのように言うはずもない。目には目を、という教えこそが正しいのだ」と言っていたのです。本人が言いたかったメッセージは、イスラム教徒を批判する人々に対してテロ行為を起こすのは宗教の真理に適っているということなのでしょう。
このような考えは、ホメイニさんだけが持っているわけではありません。それが人間の一般的な気持ちなのです。だからこの世は苦しみに溢れていて、戦争、テロ行為、人殺し、奪い合いなどが絶えません。「嫌な人をつぶす」ということは、真理ではありません。幸福になる生き方でもありません。人間が成長する道でもありません。それは悪魔の道なのです。不幸への道なのです。
「嫌いな人も幸福でありますように」と思うことは容易いものではありません。我々は、我々の未熟な本能と闘わなくてはならないのです。勇気が必要なのです。自信が必要なのです。ですから、この教えをどの程度まで実行できるのかということは、その人の能力の問題です。弱くて自信がないこころでいる限り、人は未熟で動物的な感情に巻き込まれるのです。
なぜ不幸になる道が自然で、幸福になる道が困難なのでしょうか?
「無明だから」と言えば答えは簡単ですが、あまり具体的ではないですね。ですから別な角度で説明します。
「生きる」とはどういうことでしょうか?
我々は日々、常に何かの問題に出会います。その問題を解決しつつ前に進むこと。それが生きることなのです。「問題が何もない」ということはあり得ないのです。「問題」という言葉の意味も、ブッダの定義で理解しましょう。「息を吸うこと、息を吐くこと」、それさえも生きている生命にとっては問題なのです。「息を吸わなければいけない」という問題を解決しないと死ぬのです。「病気」という言葉がありますが、ブッダは、お腹が空くこと、大便小便をしたくなることさえも、病気だと言われました。「放っておけばいい」ということはあり得ません。適切な手当をしないと死んでしまうのです。
ですから「生きる」ということは、秒単位で次から次へと問題にぶつかることであって、常に問題を解決しながら前に進むことなのです。それは最後に死ぬ時まで続きます。誰でも人生の最後には負けて死んでしまう。しかし、それまでは、負ける必要はないのです。負けない生き方とは、問題に出会っても、それをちゃんと解決して生きることです。その生き方は、ずっと続けないといけないのです。一つ解決したらそれで終わりということはあり得ません。一つ問題を解決すると、また次の問題が待っているのです。
人間と他の生命との関係も問題の連続です。他の生命と仲良くしようと思うと、必ず乗り越えなくてはならない問題が、多数あるのです。それを解決することができたら、仲良くすることはできます。しかし、それで終わるわけではありません。仲良くし続けることも、また新たな問題になるのです。
人間というのは、どうせ強くはない。それが普通です。弱いがゆえに、自分が負けた時には、「あいつが憎い、嫌いだ」と思ってしまう。しかし、嫌な人を憎むと、攻撃すると、さらに自分が負けてしまうのです。幸福がなくなるのです。正直なところ、嫌な人や強い人々に囲まれた環境は好ましくありません。幸福になりたい人は、好ましくない環境を上手く乗り越えなければならないのです。「嫌いな人も幸せでありますように」と思うことは、そのやり方なのです。
競争に負けても別に死ぬわけではないでしょう。だから負けても、悔しくてさらに競争しようとするよりも、自分がその状況にどう対応するのかという「対応能力」を育ててみる。それを自分の課題にするのです。問題が何もないなら、人は成長もしません。そういう意味で、好ましくない環境というのは悪いものではないのです。
悪い環境を乗り越えるために、具体的にはどうしたらいいでしょうか。
いくつか方法がありますが、慈悲の冥想をするのが一番簡単で有効な方法です。慈悲の冥想というのは勝利の道なのです。慈悲を育てて「たとえ嫌な人に出会っても憎まない。自分は落ち着いている」と決めておくのです。そうすれば、たとえ好ましくない環境にいても、智慧が現れてきます。それでさらに成長できるのです。「そんなこと会社ではやってられない」と言ったら、もう白旗を揚げてます。仏教では「降参」というひと言葉は聞きたくないのです。だからしつこく「慈悲の生き方をしなさいよ」と奨めるんです。
慈悲が心の中に完成してくると、すべての問題は解決します。不思議なほど全部うまくいくんです。「どんな場でも慈悲の生き方こそが正しい生き方である」としっかり覚悟を決めて、生きてみてください。宗教的だとか、哲学的だとか、そんなことはどうでもいいのです。とにかくやってみること、実践してみることが何よりも大事です。本気でやってみれば、会社の中であっても、社会の中であっても、家庭の中であっても、そんなことには関係なくうまくいくとわかるはずです。
「その通りだ、本当にそうだ」と思うのですが、残りの半分で「そんなにしんどいことはできない」と思ってしまいます。「こちらに行くべきだ」と思うほど、「できない、こんなしんどいことはイヤだ」と思うんです。長老がおっしゃるように、覚悟を決めないといけないと思うんですが、やはり弱くてフニャフニャした自分が出て、弱い方が勝ってしまったりします。長老の近くにいると強くなれるのですが、日常生活に帰るとうまくいかないんです。でもこれじゃダメだと思って、何もできないのに苦しくなります。強くなればいいのだと思うのですが。
その気持ちはよくわかります。誰でもそのように感じると思います。だから諦める? だらしない生き方でよいと決める?
やっぱり頑張ってみるしかないでしょう。自分のこころの中に、「ちょっとがんばってみようかな」という気持ちを微妙に調合してください。それでうまくいきます。
頑張ってみようとしても上手くいかない理由があります。私たちは、人格は固定して変わらないものだと勘違いしているのです。ですから、「そう言われても、できるわけないでしょう」と思ってしまうのです。
本当は、人間には、固定した変わらない人格はないのです。人の人格、気持ちは、環境によって変わります。こちらにいる時と家に帰った時とでは、かなり変わるでしょう。会社に行ったらまた変わるのです。それはもう、誰でも同じことです。「我々には人格というものなど本当はないのだ」ということを、覚えておいてください。「あなたは何者か」と訊かれても、答えはないはずです。その場その場で変わるのです。「私は母だ」とか「何々会社の課長だ」とか言いますが、それは本当のことではありません。「母だ」というのは自分の子供の前での話でしょう。同じ人がバーゲンに行ったら、鬼ババになって、他の子供を「このガキ出て行け」とけっ飛ばすかもしれません。
人の人格はその場その場で変わるのです。また、変わるべきです。時々、妄想なんかにふけっている人は、勘違いして、上手に人格を変えることができなくなる。その時ですよ、失敗するのは。例えば会社で一日中「社員」という人格を持っている人が、そのまま家に帰ったとする。そうすると、子供が何の前触れもなしに身体に飛び込んできて自分が倒されたら、カンカンに怒るのです。その瞬間、「子供はうるさい、邪魔、迷惑」ということになって関係がこじれたのです。家に足を踏み入れた瞬間、父親の人格に変えていたならば、子供が前触れもなく身体に飛び込んできたことは最高に楽しいことになるのです。会社で溜まったストレスも吹っ飛びます。
というわけで、人間は、過去の人格を背負っていると、場違いな振る舞いをすることになるのです。それは失敗であり、不幸です。嫌いな人をいくらでも増やしてしまう行為でもあります。その場その場で自分が演じるべき人格にすばやく変える能力を身に付けておきましょう。