あなたとの対話(Q&A)

智慧を育てるヴィパッサナー

パティパダー2007年12月号(124)

ヴィパッサナーの坐る冥想で実況する時には「膨らみます、縮みます」など「私が」という主語が入る言葉で実況せず、必ず「膨らみ、縮み」など動きを客観視する言葉を使わなければならないと聞きました。それで、歩く冥想の時に「上げます、運びます、下ろします」と、主語が入る言葉で実況するのが気になるのですが、それはいいのでしょうか。

歩く時でも「私がいない」という調子で実況できれば、ありがたいんです。歩く時だけじゃなく、いつでも、「私」という気持ちを、措いておいて生きているなら、すごく楽にいられます。しかし、歩く時は、人の意志ははっきりとはたらいているのです。ですから、「右足が上がっている、右足が移動している、右足が下がっている」と実況するよりは、意志で動かしているので、「右足、上げます、運びます、下ろします」と実況する方がシンプルではないでしょうか。
 
 修行を続けると、意志と身体の動きの関係が明確になります。意志と動きが見えるが、そこに「私が」と言えるものはないこと、意志に対して不注意で「私」という主語を使っていることなどを発見できると思います。

坐って冥想する時、「吸います、吐きます」という言葉で実況することは、良くないんですか。

それは良くない。坐って観察するお腹の膨らみ・縮みは、意志のあるなしにかかわらず、生きていたら呼吸に沿ってお腹が膨らんだり縮んだりするのだから、意識的な行為とは違います。「吸います、吐きます」という実況は、自分の意志が入っている言葉だから、混乱してしまって、うまくいきません。「膨らみ、縮み」のような、自分の意志と離れた言葉で実況しないといけないんです。ですから、完全に自分を捨てて実況中継できるのは、坐る冥想なんです。立ったり歩いたりする時は、どうしても自分の意志が入ります。意志が入る行為と意志の入ってない行為は違うでしょう? 例えば、かゆくなるのは、自分の意志でかゆくしたわけじゃないでしょう。

歩く時に「上げます、運びます、下ろします」という言葉で実況したら逆効果になるということはないんですか。

それはないんです。そうやって観察していると自分の意志を発見できる。うまくいけば、意志はあるが、変わらない自我はないこと、瞬間的に変わる意志に対して、不注意で「自分・自我」というレッテルを貼っていることを発見できるでしょう。
 
 坐っている時に、そういう主体的な実況をしたら、混乱してしまって冥想は続かないんです。坐ったら「膨らみ、縮み」「かゆみ」「痛み」など、その状態を客観視した言葉で実況するんです。このやり方で混乱することなく、早くも無我の真理に達することができると思います。ですから、そこは明確に、分けた方がいいんです。
 
 一般的には、いつでも「自分がいるわけじゃない」という生き方ができれば、結構楽に生きられます。疲れませんしね。感情的にならないし、罪も犯せない。こころは汚れません。「自分がいない」という前提でいれば、怒ったりすることもなくなります。
 
 結局、「私がいる」という自我意識というものが問題を起こすんです。「自我」というものはあるわけではないのに、我々にはいつでも自我意識が生まれてきますね。それは一つの幻覚なんです。幻覚だから、修行によって、なくすことができるんです。幻覚ではなく、実際に「自我」というものがあるのであれば、いくら冥想しても消えるはずはありませんからね。だから、できるだけ日常生活の中でも「私」という自我なんかないということで生活してみると、結構、楽になります。
 
 それで、坐って冥想する時は、本格的に「私はいません」という態度で、客観的に観察していく。そういう風に実践していると、なぜ自我意識という幻覚が現れてくるのかというシステムが見えてきます。

いろんな本を読むと、ヴィパッサナー冥想にはこちらで教えていただいたやり方以外にも、いろんな方法があるみたいで、自分でいろいろ試しているのですが、自分で試したりすることはやらない方がいいでしょうか。 

ヴィパッサナー冥想のやり方はシンプルだから、誰にでも本は書けます。でもこれは人間の知恵を乗り越えている世界であって、本当は、誰にでも書けるものでもないのです。中には、肩書きだけで本を出したりする人もいます。冥想の本の良し悪しを見分けるのは、皆さんには難しいかもしれません。
 
 といっても、私は皆さんが勉強する邪魔をしたくはない。だから、次のことを理解しておいてください。ヴィパッサナー冥想は、思考をストップすることです。ですから、その実践で思考をやめることに挑戦しているのかということは、大事なポイントです。
 
 思考をやめるといっても、それまた、そう簡単ではない。思考というのはデータを合成することです。合成しないと認識になりません。「思考」というのは、単純じゃないんです。例えば花を見たとする。その場合はもう頭の中で思考を合成しているんです。だから同じ花を見ても、誰でも同じように見ているわけじゃない。我々は知らないだけで、それぞれの頭の中で、いろんな概念を合成しています。他の人がどう見ているのか誰にもわかりません。猫や蝶々が花を見たら、まったく違うものを見ているでしょう。ですから「花」という実感が生まれることさえ、思考なんです。
 
 しかし、いきなり「これを見ても花に見えないようにするぞ」と思っても、意味がない。今自分がいる位置からこころが成長するしか、方法はないんです。思考にいろんな雑念・邪念が入らないようにこころを持っていって、その状態をさらにさらに続けていくと、ドンドン思考と合成が減っていって、データのみ確認するということができるようになります。そのようなヴィパッサナーの理論を理解しているなら、どんな本を読んでもかまいません。

坐る冥想をする時に、目を閉じたら寝ちゃうという感じなんですけど、それがなかなか克服できなくて、どうすればいいかわからないんです。

これは、まあ、やる気がないということですからね。やる気があれば、なんとか克服しますけどね。それは、それぞれの個人の問題だから、他人にはどうすることも出来ない。「やってみようかなー」とか「眠気をなんとか克服しようかなー」とか、曖昧で中途半端な気持ちでは、何もできるわけがないんです。問題はそのあたりです。そこは他人には助けてあげることはできないんです。冥想の指導をする側は、やり方は教える。後は、自分の仕事です。
 
 このあいだ冥想会に、80才の、杖でしか歩けないお婆さんが来たんです。膝が痛くて座れないし、体がいうことをきかなくなっている。ですから、私が「体を止めてください」と言ったのに動いてしまっても、しょうがないんです。しかしその方は、動きませんでした。他の人々は30代、40代のあたりでしたが、誰一人も私の言う通りにはやらなかったんです。あのお婆ちゃまだけは、、仏教って何か、冥想って何かと、一時間以内できちっと理解したんです。そこまで行くのか、と私もビックリするくらい。
 
 歩く冥想も、私の言う通りにやろうとして、杖を置いて冥想しようとしたんです。私は杖を渡して使ってもらうようにしましたが、そのすごい意志を見て、これこそ人間だと思ったんです。他の連中は、あのお婆ちゃまの前で土下座して拝んでもいいのではないかと思うくらい、しっかりした人格でした。グニャグニャしていたら何一つも身につけることはできないんです。食って寝るだけの動物の生き方と何の変わりもないでしょう。カラスと違ってテレビくらい見るかもしれませんが。
 
 だから、やるならばやる。皆、悪いことだったらずいぶん元気でやるんだけど。ヴィパッサナー冥想は世界最高の善いことなのに、それにはやる気は出さない。「やってみようかなー」とか、「できれば30分くらいは毎日冥想したいなーという気持ちはあるんだけど」とか言っているのを聞くと、私のしゃべる時間はムダだ、時間のロスだと思うんです。
 
 冥想修行は厳しい。厳しいというのは人格が必要だという意味です。苦行という意味の厳しさではありません。生ぬるくやるのではダメだと、精神をしっかりさせる。自分の弱みを克服することは、自分の仕事なんです。結局は自分のこころの汚れでしょう。こころの汚れというのは、完全に自分の問題です。
 
 眠気を克服するというだけでも、そんなに単純じゃない。ものすごく人格をしっかりさせて、死んでもやるんだというくらいの精神がないと、できるもんじゃないんです。皆、一日中妄想ばっかりしているでしょう。貪瞋痴、高慢、見栄で生きていて、頭が混乱状態で、強烈に妄想に支配されている。ヴィパッサナー冥想をすると、激しい妄想ができなくなる。すると、眠くなって、ぐうぐうと寝てしまう。例えば、すごい心配や悩み事があったら、なかなか寝られないでしょう。それは、膨大な妄想で、頭が混乱しているからなんです。それで、ちょっと妄想を控えたら、もう寝ている。「よく寝るためにヴィパッサナーを教えてください」と言う人までいるのですからね。
 
 眠れない時に「羊を一匹、羊を二匹……」と数えるでしょう。あれも、妄想を抑える効果があるんです。精神的に力がない場合は、妄想が少なくなると、無知が出てきて、眠くなるんです。それと同じような感じで、目を閉じて「膨らみ、縮み」といい加減に実況していたら、眠くなるんです。
 
 妄想を控えたところで寝てしまうという問題は、誰にでもあります。ではどうすればいいのか。
 
 本来は、煩悩が減っていくと、無知が減っていくと、昏沈睡眠は飛んでいくはずなんです。だから、勇者というか、勝利者というか、ヒーローの精神で、すごく元気で明るいこころでいるならば、そういう気持ちの人々は、サッサッとすごく早く修行を成功させます。まあ、そういう元気がなくても、ワンパターンでやるのではなくて、しっかり背筋を伸ばして体を固定して一ミリも動かないようにしたり、坐ったり歩いたりなどで形を変えたり、部屋で実践してみる、公園で実践してみる、など条件を変えたりして、眠くならないように工夫すると、頭が良い人にはなります。
 
 そういうことで、かなり厳しくやらなくちゃいけないということを覚えておいて、がんばってみてください。

ヴィパッサナー冥想で智慧が現れるそうですが、智慧の現れ方というのはそれぞれ違うんですか。

違わない。同じです。

具体的には、どんな状態になるんですか。

妄想をやめたところで、そこにあるのが智慧なんです。智慧を具体的に言うのは難しいんです。智慧というのは、そういう「何か」だと思わないでください。「何か」だったら消えます。智慧は、なくなりません。
 
 一つ例を出します。考えて出す答えは智慧じゃないんです。それは過去の経験からの類推です。だから、かなり外れます。皆、問題に遭ったら、考えて考えて、「こうしましょう、ああしましょう」と工夫して、その問題を乗り越えようとするでしょう。でもその答えがぴったり合うことは、めったにない。一生懸命に考えた結果、それがうまく行かなかったことはいくらでもあるでしょう。
 
 智慧がある人には、問題が現れたとたんに適切な答えが出る。普段は頭の中に何もない。問題が出たとたんに「この場合はこうすればいい」と知っているのです。その場合は、ピッタリの正しい答えなんです。それが智慧のある人の特徴です。「こうだったらこうする、ああだったらこうする」と計画立てるのは、智慧がないんです。
 
 誰にでも、智慧のようなものは、命を守るためにはついてます。命を守る時は、考えないで行動するんです。その時は結構ピッタリ正しいことをします。例えば、転びそうになってパッと手すりをつかむ。それは正解。智慧というのは、そんなようなはたらきなんです。思考は要らないし、あれこれ考えることはしません。
 
 そうなるためにはどうすればいいかというと、すごく健康な、汚れてないこころをつくる。それだけなんです。