なぜ宗教は存在するのか、無宗教は宗教よりまし、永遠の愛
パティパダー2008年9月号(133)
・なぜ宗教は存在するのか
・無宗教は宗教よりまし
・永遠の愛
どうして宗教があるのでしょうか。宗教を持っている人の方が素晴しいのですか?
人間はよく夢を見るのです。生きることはつまらないし、知れたものです。大昔の原始時代でも、森に入って自分で獲物を捕るか、獲物に自分が捕られてしまうか、どちらかの人生しかなかった。自分の能力なんか知れたものなのに、欲はえらく大きい。森に入ったら、ありったけの獲物を簡単に捕りたいという欲があるのです。そうすると一週間ぐらいは、洞窟のなかで寝ていられるのだから。人間の欲は、人間の能力よりも遙かに大きいのです
それからもう一つ、恐怖感というものがあります。人間はどこにいても、簡単にすぐ死んでしまう環境で生きているのです。ほんとうは敵だらけの環境の中で生きている。現代であれ、原始時代であれね。そうすると、「死にたくない」という要求が出てくる。
そこで人間は頭の中で妄想して、「何かにお祈りする」という思考を作り出したのです。神木にお祈りしたり、山にお祈りしたり、川やら滝やらにお祈りしたり。昔は自然にお祈りしていたのですが、山にお祈りして幸福になったとしても、「もしかすると山が神なのではなく、山に住んでいる神がいるのではないか」という具合に、どんどん妄想が膨張していった。
もっと分かりやすく言えば、宗教というのは人間の神話好きの現れです。ギリシャ神話や千一夜物語を読むと、とても正直に、人間が期待する欲望の物語を綴っているのです。そういう物語などを見てみると、人間のほんとうの心の働きが見えます。
それから人間の欲を満たすための物語を偽善的に変形させて、ちょっとお化粧して、宗教に仕立てているのです。宗教のタネはそんなもの。我々には弱味があるのです。すぐ死んでしまうから、死なない境地を妄想する。欲望はすごく大きいけど、能力は小さいから上手くいかない。だから、自分が得るものは誰かのお恵みによって、優しさによって得られたのだと思ったりもする。
人間が妄想しなければ、具体的に物事を考えるならば、宗教は成り立たないのです。そういうわけで、宗教を持っている人が素晴しいかといえば、別にどうってことない。信仰していても、信仰していなくても同じですよ。人間の弱味は消えません。宗教を信じなくても、死の恐れはそのままでしょうし。宗教を信じている人がケタ違いに幸福になるならば、こちらもちょっと考えます。しかし、実際はどうってことない。宗教を信じる人も信じない人も、努力次第で幸福になります。だから、「宗教は素晴しい」ということではなくて、「あっそう、ご苦労さん」というくらいのものです。
しかし、一つ善いポイントもあります。宗教は人間に道徳を語っているのです。未完成でだらだらした道徳ですが、その点は無視できません。「人に迷惑をかけないぞ」というのは、すごく善いことですよ。存在もしない神を恐れて、「神の怒りが降りかかるぞ」と怯えていたとしても、悪いことをしないのには価値がある。神は関係ないけど、人類の平和に役立ちます。
ですから、宗教が道徳を語るほんのわずかな部分は、まんざら否定できません。宗教を信じている人が、同時に道徳的であるならば、その道徳的なところは素晴しいと、認めなければいけないのです。しかし道徳もろくに守っていないならば、信仰していない人より、信仰する人のレベルが低いと思います。
日本人はクリスマスを祝い、初詣は神社、お寺で葬式と、宗教オンチ、節操なしと批判されます。言われると後ろめたい気もしますが、世界中見渡して、宗教をまじめにやってる国の人ほど、不幸だったり戦争好きだったりする気がします。モヤモヤして分からなくなりますが、頭を整理するためのポイントを教えて
日本人に「宗教オンチ」というのは正しくないのです。それは宗教学的に研究して言っている言葉ではなくて、単なる一般人の感想です。欧米のように一つの宗教に固執して、「自分の宗教こそ正しい。他の教えはすべて間違っている」と思い込む極端な排他主義者から見れば、日本人はいい加減に見えるかもしれない。しかし、宗教というものを学問的に勉強してみると、また状況は違うのです。私は日本でも、宗教学者が書いている本をいろいろ読んでみたのですが、学者から見れば、日本人も、正々堂々と宗教心というのを持っています。
英語でspiritualityと呼んでいる宗教心、宗教精神ですね。それは日本において、どんな国でも負けない規模で存在しています。どうせ人間の世の中だからね。日本が特別だと思うのは、おかしいのです。他の国々では人々は何らかの宗教なしに生きていられない。日本人も同じくクリスマスはお祝いしなければ気が済まないし、初詣になってくると落ち着かなくなって神社に行ってしまう。お寺なんて行ったことはなくとも、誰かが死んだらすぐお寺にでかける。試験が近くなると、神社に行って絵馬を奉納したりお守りを貰ったりする。ということは、人生のなかで、やはり宗教なしには生きていられないのです。そういうものは、正真正銘の宗教です。ヨーロッパと違うところは、「一つの宗教にしがみついていない」ことぐらいですね。
それから、「まじめに宗教を信じる国は不幸だったり、戦争好きだったりする」というのは、気がするどころか、そのとおりなのです。まじめに「うちの神様だけが絶対的で、他の神様はニセモノだ」と思った時点で、その人は他人の尊厳も、思考の自由も、信じる自由も、生きる自由も否定しているのです。だから、戦争になるのは当たり前ですよ。不幸になるのは、決まった結果なのです。もし幸福になりたければ、すべての生命を平等で見なければいけない。「みんなで仲良く生きましょう」と言わなければいけない。宗教にしがみつくことは、自分で自分の首を絞める行動です。
人間はどの宗教も信じる必要はないのです。我々はしっかりと、因果法則を考えながら生きていればいい。たとえば嘘を言って人を騙したら、必ず不幸になるでしょう。だったら嘘を言わず、人を騙さないことにしてみれば。「でも世の中はみんな嘘をついているではないか」と、ちょっと気弱になるかもしれません。しかし、「私はただの人間がやっていることをなぞって生きるのではなく、もっとしっかりした人間になってみせるぞ」と決めて、世間が嘘を言っても、自分は嘘を言わないことにする。そうすればこそ、人格が向上するのです。
この社会にしたって、誰にでも金メダルが与えられる訳ではないでしょう。人間に出来ないことにチャレンジした人に、金メダルを与えて賞賛するのです。「みんなやっているからやる」というのは、あまりにも面白くない生き方です。
だから自分で因果法則に則って、着々と物事を判断しながら生きてみるのです。神がいても自分に分かるわけではない。神様が100円のポテトチップスも買ってくれるわけじゃなし。どうでもいいのです、神様なんて。
因果法則は、はっきりと世の中にあるものです。西洋的な心理学もどんどん発展していくでしょう。そうすれば、心の因果関係もいくらか分かるはずです。仏教では、はっきりと心理学を発見して、因果関係を明確に教えている。仏教で語られているものは、一つも嘘ではない。嘘でないものは事実なのだから、信じても信じなくてもどちらでもいいのです。「地球が自転するなんて、俺は信じられない」と誰が言おうとも、関係なく地球は自転するのだから。
因果法則というのは、信じても信じなくても関係ないことです。だから我々は、しっかりした知識人として、理性のある人間として、行為には結果があるのだと思って生きてみれば、もうすべて整理されます。「バチが当たるのではないか」とか、「もしかすると神がいるのではないか」といった非論理的な迷信のモヤモヤは、きれいさっぱり捨てた方がいいと思います。
結婚式で神に永遠の愛を誓うのに、離婚をする。でも神に謝った人はいません。人間って平気で約束を破るのに、何か誓ったりするのが好きですよね。なぜでしょうか?
当たり前の話ですよ。そんなに真剣に考える必要はないのです。将来のことだから、やはり約束しなくてはいけない。それはその時の気持ちです。「しっかりやると誓います」とか言って、相手に落ち着いてもらうのです。しかしその時の条件によって、私たちは自分の反応を変えなければいけないのです。それが事実であって、「約束を守る」というのは、あまり事実になりません。自然の流れのなかで、誓った約束が守れなくなることは、しょっちゅうです。
我々が気安く約束したり誓ったりするのは、真理が分からないからです。たとえば、「一年でお金を返します」ということで、借用書にハンコを押したり、証人を立てたりします。しかしこれは、一年先まで健康に生きていられればの話でしょうに。ほんとうは一分先もどうなるか分からないのに。「すべては無常である」ということを無視しない限り、約束はできません。誓いを立てた瞬間で、その人は真理に逆らっている。「約束を破ってしまった」ということは、真理に従っていることなのです。
だから仏教では、そんなことは気にしません。約束を破ったからといって、信頼出来ない人ということでもない。約束しても別にやってくれるとは思っていないのです。人間はその場でその場で反応して生きているものですよ。一瞬先も分からないのに、「十年後になんとかするぞ」ということは成り立たない。
結婚式は一番いい例です。「永遠の愛」なんて、実際には成り立ちませんよ。その日その日で、人の心は変わるのだから。身体も変わってしまいます。キリスト教を信じてもいない日本人が教会で結婚式を挙げるのは面白い話ですよ。教会の牧師さんや神父さんも、不信心者の結婚式でもって堂々と商売しているのです。しかし、彼らも本気で神を信じているわけではないのだから、神様への侮辱にはなりません。遊びと思えばどうでもいいことです。
もちろん、わざと約束を破る人は信頼されません。嘘をついているのだからね。仏教徒がする「誓願」にしても、条件が変わってしまったら、結果は分からないのです。たとえば、「親に家を建ててあげます」と誓願をする。子供は一生懸命仕事をして、貯金したりもする。そこで親が突然死ぬかもしれません。自分の子供が重い病気になって、治療費で家を建てるお金がなくなったりすることもある。たとえ誓願しても、必ず上手くいくがどうかは分からない。しかし、誓願した人は、着々と、その目的を目指して歩むのです。