あなたとの対話(Q&A)

物惜しみとは何か?節約との違いは?、生命の飼育、親子は協力し合う関係

パティパダー2009年2月号(138)

・物惜しみとは何か?節約との違いは?
・生命の飼育
・親子は協力し合う関係

物惜しみは悪だというお話を聞きました。しかし、物を節約したりリサイクルしたり無駄を少なくしたりすればゴミも少なくなっていいことばかりと思います。物惜しみと節訳はどう違うのでしょうか?また、物惜しみはなぜ悪なのでしょうか?

物の節約・リサイクル・ゴミ削減と物惜しみはまったく関係ないことです。節約はとてもよいことで、善行為です。世の中で言う、できるだけ節約しましょうという話は決して悪くありません。ゴミを増やすよりは減らす方がいいのです。
 
 では、悪行為である「物惜しみ」とは何なのでしょうか? 分かりやすく定義すれば、ケチということです。自分のものだと思うものに対して、自分でも使いたくないし、他人にも使わせたくない、できれば風呂敷で包んで置いておきたいという気持ちです。自分では使っていても、他人に触らせたくないという気持ちも物惜しみです。自分のものを自分でも使いたくないし、自分が使っても他人が共有することはすごく嫌な気分になる、という精神的なちょっとした病気です。

 結果としてみると、物惜しみの人はとても暗くて、排他的です。人が自分の家に来るのを嫌がる。パーティなんか絶対やろうとは思わない。そういう暗い、排他的な思考を、仏教では精神的病気の一つとして観ています。ブッダがいう精神的病気は本物の病気なのです。自分の幸福をむしばんで、今世だけではなく輪廻のなかでどんどん不幸になって堕落していく。そういう精神的な病気です。
 
 しかし、わざわざ物惜しみの人間になるのは難しいのです。「今日から私は物惜しみの人間になってやるぞ」と言っても無理な人には無理です。なんとなく生きているうえでそういう物惜しみの性格が埃のようにたまって、掃除しても変色してしまって取れないような感じになる。やがてどうにもならないことになってしまう。生れつき、赤ちゃんの時にも、物惜しみの性格がある人はそれがよく見えます。仏教心理学を学ぶとよく分かることです。本当は母親がチェックして、自分の子供がこういう性格の方向性を持っているのだと知って、そこから改善のためにあらゆるしつけをしないといけないのです。

 それから、生まれた時はこれという性格はなくて、ごく普通、という子供もいるが、そういう子供も大きくなる過程で自分の色が決まっていきます。生きていく過程で物惜しみになるということもあるのです。定義は「私のものはあまり使いたくない。他人が使うのも嫌だ」と覚えておいてください。
 
 なぜ物惜しみが、精神的な病気なのかと考えてみましょう。そもそも、わたしのもの、とは何でしょうか? そんなものがありますか? 私が持っているものをよく見ても、ひとつも「私のもの」と言えるものはないのです。ただ「使っている」だけです。良く見ると、私のものと自慢しているものは、すべてもらったもの、いただいたもの、借りたものです。ひとつも自分のものはないのです。この身体さえも借りたものです。私のものになりません。なぜ我々はものを「借りる」のでしょうか。風呂敷で包んでおくためではないでしょう。レンタカーを借りるのは、そのままガレージに入れて鍵を閉めておくためではなく、乗って走らせるためでしょう。
 
 レンタル品を使う時は、決まりがあります。責任もあります。車を乱暴に使ったり、事故を起こしたりあちこちぶつけたり、それは契約違反です。そうしたら自分が全部弁償してお金を払わないといけないのです。決まりに従って、安い料金で充分つかって、必要な用事を済ましたら返す。人生はレンタルです。身体はレンタルなのです。正しく使った方が勝ちです。レンタル品は貸した人に権利があります。それが分かっていない人は物惜しみになるのです。我々の人生の中では、すべてその法則で生きていかないといけない。自分のものははじめからないし、誰かが共有したくなったら、どうぞ、と共有することを認めないといけないのです。
 
 それが「善人の生き方」です。「善人になる生き方」でもあります。幸福に活発に明るく生きるための生き方です。何一つ、自分のものではありません、と認める人は明るいのです。
 
 やがて人が善くなっていくと、自分が仕事で得た収入を使ってこそこそ一人で御馳走を食べるより、誰かに御馳走してあげることを喜ぶようになります。自分より他人が使うことを喜んだりすることができます。自分がちょっとしたスペースのある大きな家を建てたなら、みなさんどうぞ使ってくださいと呼びかける。自分の家でみんなが踊りの稽古をしたりして、それを自分が喜ぶのです。それで、お金を有効に使っているのだと言う喜びが生まれるのです。一人より二人が、十人、二十人が使ってくれれば、そのために使ったお金に価値が出てくるのです。だから物惜しみは精神的な病気で、物惜しみが無くなったら、こころが健康的に成長して幸福になっていきます。そのポイントを学んでおかないと、節約志向が物惜しみになる場合もあります。ですから、気を付けてください。
 
 節約には基準があるのです。みなの財産を無駄に使わない、最小限に使うぞという基準です。いろいろなものを使わないと、生活はできない。命は成り立たない。しかし、他の人々も同じものを使って生活しなくてはいけないのです。分かりやすい例で言えば、生命たるものは酸素を吸わなくては命が成り立たない。自分だけ酸素を吸っていいわけではありません。他の生命にも、酸素を吸う権利があります。そこで身体に必要な酸素量というものは決まっているのです。誰でもその量の酸素を使っているのです。もし誰かが自分の酸素量よりもたくさん酸素を無駄遣いするならば、それはよいことだと言えないのです。

 その問題は、酸素の例で分からないが、地球の資源、食糧などの問題で、一部の人々がそれらを独り占めにして無駄遣いすることで、地球の多数の人々がたいへん苦しんでいるのです。それは他の生命の生きる権利を気づかないうちに奪っていることです。それに気づいてないが、自分たちは喜んで自慢しながら無駄遣いしているのです。ですから、罪を犯している気持ちはないと言って、罪から逃れることはできないと思います。節約というのは、自分の命を維持するために必要な量の資源を使いつつ、その資源を決して無駄にしないことです。

 しかし、節約という看板をあげて、ただ単にものを貯めておくだけでは意味がないのです。たとえば自分が高収入を得ている。節約して生活するから、金は溜まる一方です。それは意味がないのです。金という財産は、自分のものではなく、人類のものです。貯まった金を自分より恵まれていない人々、また病気・障害などの原因で収入を得ることができない人々に、分けてあげることが善行為なのです。それは有意義な節約なのです。
 
 ただの節約は、物惜しみという精神的病気に、悪行為に、陥ってしまう恐れが大いにあります。理性にもとづいて、「生きている権利は自分だけにあるものではない。我々はすべて、お借りして使って生きているのです。自分にとっては欠かせない量だけを使用して、残りは他の生命のために分けてあげます」という気持ちがあれば、正しい節約なのです。要するに、節約にも理性と慈しみが必要です。節約によって、自分も他人も幸福にならなくてはいけないのです。

自分の慰みで鳥や虫、魚などを飼育するということは、「生きとし生けるものが幸せでありますように」と念じている私たちにとっては悪いことでしょうか?

これは大きな問題です。生命の自由というものがありますから、基本的には、仏教の厳密な論理では動物を飼ってはならないのです。動物の生きる自由を奪うことになるからです。動物を刑務所にいれて終身刑にすることですから、これはかなり怖い行為なのです。しかし人間は長い歴史のなかで、動物と一緒に協力して生きてきた歴史もあります。人間が幸福に生きるために動物が協力するし、動物が幸福に生きるために人間も協力する。そうやって牛や馬の面倒を見てあげたりしてきた。牛は森で生活することをまったく知らないで、人間のお世話で生まれて成長することになって、半分野生、半分人間と一緒に生活するのが当たり前になっています。その場合、自由を奪っているとは、一概に言いきれないのです。

 犬や猫にしても、ずーっと人間と一緒に生きてきて、人間なしの生活はかなり難しい。お互いに協力しましょうよ、あなたは私を助けて、私はあなたを助ける、という関係ならあまり自由を奪ったことにならないのです。単純に自分の都合のために、自分の喜びのために、野生動物を捕って檻に入れるということは明らかに悪行為になります。動物のほうが助けを求めている場合、エサも取れなくて、捨てられて、どうにかしてちょうだいと訴えている場合は、飼ってあげるのはよいことになります。
 
 我々が自分の好き勝手に動物を飼うことで、何をしているかと言えば一種の奴隷制度を作っているのです。誰かがペットを飼う。飼ったら自分のもので、そのペットが子供を産んだらまた自分のもので、欲しい人がいたらまた売ってしまう。仏教から見れば、それは正しいことと言えません。お釈迦様は人間や動物の売買を明確に禁止しました。「生命の自由を奪うなかれ」と説かれました。
 
 人間というのは、自分は自由で我がまま放題に生きていたいと思うけれど、他人の自由は素直に喜べない、という病気にかかっています。それも物惜しみと同じく、精神的な病気ですよ。人を捕まえておかないと気が済まない、鎖をつけておかないと気が済まないのです。でも、自分が鎖をつけられるのは嫌なのです。なぜ動物が野生で、自然の中で自由に生きているのを楽しめないのでしょうか。頭が病気なのです。

 私には檻にいる鳥よりは、木にとまっている鳥の方がすごく美しく見えますけれど。檻にいる鳥でも、逃げたいと思っている鳥を逃がしてあげると、すごく喜びを感じます。逃した鳥が、見えないところまで飛んで行ったら、「ああ良かった、自由な世界で幸福にいてほしい」という気持ちになるのです。鳥たちの邪魔をしないように、野鳥の生活を隠れて観察するとすごく楽しいのです。鳥を檻に入れると歌わないでしょ。鳥は歌っているのではなく、同類とコミュニケーションしているのです。檻に入れられたら、誰としゃべればいいのでしょうか。相手がいないと鳴けなくなるのです。それを喜ぶ人間というのは、相当な病気ではないでしょうか?
 
 とにかく、そういう複雑な状況だと思います。人間と動物が、たがいに協力し合う場合、犬と人間の関係などは、それほど悪くないというか、いまさらその関係を絶つことはできなくなっているのです。飼われている犬も、それほど嫌がっているようには見えません。しかし、自分の我がままで、自分が楽しいから犬を飼っている場合は、犬はけっこう精神的に苦労していることもよく見かけます。犬は自由に遊びまわりたい気持ちもあるが、日本のような社会では、様々な決まりがあって、一時的にでもチェーンを外すことはできなくなっています。美味しい餌をもらって、病気になったら治療してもらうだけで、自由は成り立たないでしょう。自由がないことを人間は気にしませんが、動物たちにとっては自然のままが本来の生き方なので、本当は自由が必要なのです。

動物と人間について、「所有」という関係はいけない、協力関係ならいいというお話がありました。人間関係ではどうでしょうか?

人間関係でも、所有関係になるとたいへん危険です。人間関係がまったく崩れてしまって、やがて殺されることにもなるのです。いちばん悲しいのは、親まで殺すことです。現代日本は、ずいぶん簡単に親を殺す文化になってしまっているようです。私たちにはそれだけは考えられない、想像も理解もできないことです。親とケンカはしてもそれは丁寧なケンカで、いろいろ意見が違ってケンカはしても真っ向から逆らったり、やがて殺したりとか、想像も理解もできません。だから、いかに精神的な病気かということです。病人の振る舞いを理解しようとしても無理ですから。

 しかし、親を殺したからと言って、子供だけが悪いわけではないのです。親子が所有物関係だからそうなってしまうのです。お互い様、そういう原因を作っているのです。親は子供を所有物にするし、子供はそれに攻撃しようとする。攻撃しようとしてもできないから当然、そこで怒りがこみ上げて、やがて殺すはめにもなるのです。私たちが忘れているのは、親子は所有物関係ではなく協力関係だということです。親は子供に協力しているのです。子供は自由ですが、協力してあげないと生きていられないというだけのことです。協力関係はずーっと死ぬまで続くものです。
 
 親子が所有物関係を前提にするから、「親離れ」という言葉が成り立ってしまうのです。仏教的に見れば、誰から何のために離れるのかという話です。別に誰からも離れる必要はないのです。親子はお互いに協力し合う関係だから、協力なら死ぬまでお互いに必要ということです。離れるのは敵対関係だからであって、敵というのはお互い協力しないで破壊し合うものです。ですから「親離れ」という単語は、日本語なら意味があるけれど、私たち仏教文化の人間には意味のない単語です。「親離れって何なの?」と首をかしげてしまうのです。

 生まれた時から、別に親に束縛されたわけではないのです。親は必死に、一生懸命やってくれたのです。それで、自分が成長したらさっさと親離れするというのは、理解できないことです。親子関係は協力関係だと、理解している世界なら、親離れという単語は成り立たないのです。はじめから束縛されたわけではなく、助けてくれただけ。それなら、逆に親が困っている時には子供が助けてあげると言うことも成り立ちます。死ぬまでその関係を続けるのです。ということで、所有するという考え方が入り込むことで、何から何までおかしくなるのです。
 
 何一つも、所有不可能なのです。所有という思考は病気です。私たちはこの世に何も持ってこなかったのに、あれもこれも私のものだと思った時点で病気なのです。ですから死ぬ時はすごく苦しんでしまう。人間関係に限らず、所有物はない。しかし、協力というものは当然ある。私たちは、生命同士の協力関係で生きているのです。それをどこで切るのでしょうか。切るところは、どこにもないのです。死ぬときでも、協力してもらっているのですから
 
 世の中では、関係を切るとか、親と縁を切るとか、親離れ子離れとか、変な単語までできています。それは論理的に成り立たない話なのです。はじめから病気だから、執着があって、子に執着した親が「子離れ」という言葉を使わないといけない。親にいつまでも依存する人は病気です。その人には治療として「親離れ」という言葉が相応しいのです。しかし、それは治療の言葉であって、決して、真理の言葉ではありません。真理の世界で、「何々離れ」という言葉は成り立ちません。もとから何一つ、自分のものにはなっていなかったのです。だから協力の世界です。

 所有するという一言がなかったならば、かなり美しく生きていられるはずです。お釈迦様は、自分の財産を執着しないで使うこと、みんなで分かち合うこと、自分の子供にも執着しないことを説かれました。「自分のもの」と仮に世俗的に言うものは、ただの世間の単語に過ぎないのだと仰いました。「これは誰の家族ですか?」と訊かれたら、「私の家族です」と答えるしかない。世間でコミュニケーションをとるための言葉にすぎないのです。厳密に真理として「私の家族」というものが存在するわけではないのです。
 
 人間関係において、所有ということは決して成り立ちません。あるのは協力だけです。一緒に協力し合って生きているのです。私の家族、ではなく、あるグループでお互いに心配したり協力しあったり、助けたり、助けてもらったりする。それがいつまでかと言えば、死ぬまで続けなければいけないことなのです。仏教的に我々が生きてみれば、うまいことに家族関係も親子関係も何の問題もなくうまく行きます。親離れ子離れという単語さえなくなって、親にやられている、子供にやられているということもなく、お互いにそれぞれ自由にやっているんだ、という気楽な気持ちで生活できます。