あなたとの対話(Q&A)

泣くのはなぜ?、感情を駆り立てる仕事は悪?、余計な希望を持つことについて、こころが病気にならないためのポイント

パティパダー2009年5月号(141)

・泣くのはなぜ?
・感情を駆り立てる仕事は悪?
・余計な希望を持つことについて
・こころが病気にならないためのポイント

4歳の娘からの質問です。今朝こんな質問をされました。「こころがすぐに悲しくなって涙が出てきちゃうのは、どうすれば治るの?」本人は話したがりませんが、恐らく、お友達に意地悪されたりした時に、そのような感情がすぐに湧いてきてしまうことを悩んでいるのだろうと思います。「多分、一生懸命 冥想すれば治るよ」というと、 「本当に? 本当に冥想すれば治るの?」と半信半疑の様子です。

悲しくなって、涙が出る、理由があるはずです。それが分からないと治す方法もわかりません。何の原因もなく、理由もなく、何かが魔法みたいに出てくるわけはありません。私たちは、いつでも、「なぜこうなるの?」という疑問を持ったほうがよいのです。「なぜ? なぜ? なぜ?……」このように調べることは、勉強です。頭が良くなって、しっかりした人間になる方法です。毎日、毎日、少しずつ、理解していけば、やがて立派な人間に成長します。

なぜ?
❶ 赤ちゃんの時から子供は、よく泣きながら成長するものです。自分が言いたいこと、ほしいことを言えないので、簡単に悲しくなって泣いたりします。
 
 しゃべることができるようになると泣くことが減っていきます。時々、身体に、小さい時よく泣いた癖が残ってしまって、四、五、六歳になってもたまに泣いたりすることもあります。それは問題ではありませんし、自然に治りますからほっておけば良いのです。

❷ 嫌なことがあったり、いじめられたり、馬鹿にされたりすると怒ってしまいます。しかし、自分が弱くてどうすることもできません。その時こころが悲しくなって、涙がでます。自分が、怒って、嫌な気分でいることは、自分でもわかりません。自分になにもできないから、弱いから泣くが、これは「怒っているのだ」と分かった方がよいのです。

 怒ることはよくないし、頭が悪くなるし、さらに弱い人間になるから、何があっても怒らないでいるように頑張ってみることは大変立派なことです。格好良いことです。うまくできなくてもやってみるのです。(ちょっと真面目に慈悲の冥想をすれば、見事に良くなります。怒れなくなって、明るくて、強くて、皆に好かれる人間になります。敵がなくなります)

❸ 自分の思い通りに物事はうまくいかなくなると、また、怒って、仕方がなく、悲しくなって泣いたりすることもあります。お母さん、お父さんが欲しいものを買ってくれないとき、テレビを観るのはやめなさいと言われるとき、友達が本やゲームを貸してくれない時、どうしようもなく悲しくなることもあります。これも怒りです。怒っているのです。この時も、自分が弱いと思ったら涙が出ます。
 
 子供に対して、親が、先生が、大人が、「あれもダメ、これもダメ」とよく言ったりするのです。それは、子供のことを大事にするからです。愛しているからです。子供は何がよいのか、何が悪いのかよくわからないのです。ですから、大人は、「ダメ、ダメ」と同じ言葉を歌いながら子供を守ろうとするのです。やり過ぎ、言い過ぎの場合もたくさんあります。
 
 しかし、「ダメ、ダメ」の面白くもない、聞きたくもない歌を止めることは、大人には出来ません。この場合は、「ダメ」だから、止めることにするしかないのです。
 
 親に対して怒ることは、とても怖い、悪いことなのです。不幸になります。
 
 この世で、わがままは通りません。何か欲しいものがあったら、話し合うのです。相談するのです。納得してもらうのです。あれこれと、約束を交わすのです。それで、欲しいものを手に入れる。それが、賢い、良い、人間になる方法です。(慈悲の冥想をすると、わがままもなくなります)

❹ 自分が病気になったり、痛くなったりすると、また、学校の競技で頑張ったのに負けてしまった時、悲しくなって涙が出る。これはすぐ悲しみがなくなって、楽しくなるから、問題はありません。しかしこれも、本当のところ、怒りです。怒っているのです。

❺ 可哀そうな人をみると、病気で苦しんでいる動物などを見ると、殴られたり、苛められたりする人を見ると悲しくなることもあります。人のこと、動物のことを心配するから、自分のこころは優しいから悲しくなって涙が出る場合もあります。優しい涙は悪いとはいえません。しかし、泣いただけではどうにもなりません。できることなら、なんとかしたほうが良いのです。自分に何もできない場合は誰かに頼むのです。「やさしい涙だけは悪くありません。良いものです」
 
 しかし、立派な大人になるとは、簡単に泣いてしまうことではありません。大人は悲しんで、悩んで、苦しんでいる人を見ると、泣くのをやめて、落ち着いて、助けてあげるのです。そのような大人になりたいものです。

終りに
 慈悲の冥想には魔法のような力があります。この冥想を好きになるとどんな問題でも解決します。やってみて、本当か、嘘かと試すしかないのです。幸福でありますように

私は音楽を仕事にしています。感情を動かすことを仕事にしてきたのですね。仏教を学んでいくと、人の感情を駆り立てるのは、悪いことを仕事にしてきたのかなぁと思えてきました。これまでは、ミュージシャンとして目標を持ってきたのですが、それには意味がないのでしょうか? 仕事に意味が無くなったらどう生きていけばいいのでしょうか?

確かに、難しいことだとは思います。現代の音楽の世界は、やりすぎといえばやりすぎで、楽しくない、競争ばかりの恐ろしい世界です。何をやってもゴチャゴチャにするのが人間なのです。音楽は遊びですから、仕事をしたら息抜きにちょっと遊びましょうというくらいのことなのに、音楽大学まであるのです。音楽ではなく「音が苦」だというくらいです。作曲家は、曲ができないからといって、悩んで自殺までする。そういう道を歩むことは危険です。
 
 個人的に答えを出せば、貪瞋痴の感情を引き起こす音楽をつくることはやはり悪行為だと言わざるを得ません。しかし、人々に「感動」を引き起こすことは、また別なのです。感動というのは慈しみです。感動した人は、相手に対して慈しみを持っているのです。自分の悩み苦しみをぶつけて、同じ連中を集めて一緒に泣いたり喚いたりというのは品がない行為です。しかし、「感動」というのはそれとはちょっと味が違う、品格のあるものです。以前、X JAPANというバンドの演奏をテレビで観て、そのリーダーの能力にすごいと思ったことがあります。しかし、その場合でも、私は感情は引き起こしません。ただ相手がまぎれもなくすごいプロで、能力持っていて、人がお金払えるような特定の能力を持っている、ということに感動するのです。
 
 仕事というのは、「私には能力があります」「では、それを買います」ということです。人は何かひとつ、普通よりも能力を持たないといけないのです。人が感動するような能力です。よくできた恋の歌を聞いて、お爺さんでも感動することは出来ます。でもいまさら、恋の感情を引き起こすことはないのです。相手に、「すごいなぁ」と思わせられるならば、それは感動を与えていることです。感動することに、なぜ、それほど問題がないのでしょうか。それは、能力を持っている人に対して感じる、親しみ、慈しみだからです。そこで何となく、お互い仲良くというか、気持ちの面でつながりが生まれるからです。「感動」を通じて、私はこの人が好きですよと、人に優しく接することを学ぶのです。
 
 苦労してつくる音楽というのは、売れません。音楽には、何のことなく現れてくる余裕、気楽さというものが必要です。思考で作った音楽はダメなのです。思考がなくなると頭が勝手に音楽を作ります。頭が勝手に作る音楽が、抜群の作品になるのです。苦しんで作った音楽はこころに残りません。脳のなかで、なめらかな波が起きないと、聴く人も感動しないのです。かえって苦しくなるだけです。
 
 日本の音楽では、愛とか失恋とか、いつまで歌うのかと思います。歌唱力、作曲能力、作詞能力に感動してもらうより、悲しくなって涙を流してほしいという気持ちではないかと勝手に思います。そうであるならば、感動させないで感情を引き起こす行為になります。スリランカの仏教文化では歌詞も仏教的な価値で作られています。実際に歌っているのはキリスト教徒が多いのですが、仏教の影響がない歌は大衆に売れないのです。人の生き方、慈しみ、平和、社会問題なども、歌詞に取り入れているのです。歌手が歌って、人々に何かしらのメッセージを与えているのです。何のメッセージもない歌は世にたくさん出ているが、寿命は短いのです。努力に見合った収入にならないのです。
 
 ミュージシャンは若者から見たら神様のように仰がれる存在ですから、それなりに人格をしっかりする義務があるのです。その点で見れば、ミュージシャンになるのは悪くないのです。せっかく歌うならば、生命すべてを愛することを歌ってみるとか、しっかりしたメッセージを伝えてはいかがでしょうか? そのような音楽ならば、引き起こすのは感動(慈しみ)だけですから、決して悪行為にはならないのです。

太極拳を教えています。教室には、かなり進行したガン患者のような病気を持っている方も来られます。私は健康のためにと、知っていることを教えますが、いくら身体をメンテナンスしたところで、結局それって、死ぬまで続けなければいけないことではないか、という気持ちもぬぐえないのです。死に直面した病気の方に向って、前向きに「希望を持って、これをやっていれば長く生きられますよ」と励ますよりは、むしろ「死ぬ」ということをしっかり観てもらった方がいいのではないかと。そちらのほうが真実ではないかと。希望を持たせて、「頑張って長生きできるように」と励ますのですが、「どうせ死ぬのだから同じなんじゃないの?」とこころの底で思っている自分がいます。生徒さんが太極拳を習うことで、余計な希望を持って、「死にたくない、死にたくない」と思って死ぬことになったらよくないのではないか?という葛藤を感じてしまうのです。

そう思っているポイントは仏教的で、正しいのです。身体というのはいくらメンテナンスしてもやりきれない、手に負えないものです。だからそれ自体、まったく無意味なバカバカしいことです。朝から晩までずーっと身体のメンテナンスばかりですから。24時間メンテナンスしてもまだ終わらない。だったら止めた方がいいのではないでしょうか。なにやっても結局は同じです。いくら健康法や健康食品をとっても、何もやらない人と同じ結果ですから。人は誰でも、食べすぎ飲みすぎはよくないと知っている。それでもやっている人には肉体ではなくこころに問題がある。治すべきはそこです。

 ふつうに生きている人々は、たとえマクロビオティックを食べても、普通のスーパーの物を食べても、結局、同じなのです。いくらメンテナンスしても、やりきれない。壊れます。それ自体で思考が間違っているのです。人間なら、やるべきことはそれではない。われわれは結局、こころがあるから生きているのであって、身体がガンになって悩んでいるのはこころです。身体は悩んでいないのです。すべてこころでしょう。だからこころが命であって、こころで生きているのであって、なぜ肉体が命だと思っているのでしょうか。肉体が命だったら心臓移植も輸血も、何もできなくなってしまいます。ただの物質だから、他人の血液も自分の身体に入れられる、心臓でも他の臓器でもそれなりにつけられる。心臓がうごかなくなったら、ペースメーカーで動かす。身体というのは単純に壊れかけている機械なのに、それを認めないことは愚かさの極みです。ですから、肉体に引っかかっている人は誰であっても不幸になるに決まっているのです。
 
 どんな運動法でも、宗教みたいに信仰してそればっかりやると、何もやっていない人に笑われる羽目になります。やることに意味がないわけではないのです。身体は機械だから運動すれば機械はそれなりに調整されます。気功でもヨーガでも、やれば身体が調整されるし、食べ物を入れることでも調整されます。でも機械は壊れるのです。いくら自動車を買って見事にメンテナンスしても、五、六年で処分しないといけない。車を長く持たせるためにといって、運転しないでビニールシートを被せておいたら、買った意味はない。ビニールシートをかけておいても、結局は壊れていくのです。ローンで車を買った人は、旅に出たりドライブに行ったりして目いっぱい使います。車もくたくた壊れますけど、払ったお金の分、充分楽しんだ、という充実感が現れるのです。長生きを目指すのではなく、身体を使っていかにこころ清らかな人間になるか、立派な人間になるのか、ということに挑戦すべきです。
 
 仏教徒なら、「身体は壊れるものだ」と観察するのです。身体に愛着があると苦しみがなおさら、精神的な病気にまで発達してしまいます。身体が壊れることは、誰にもやめさせられないのです。しかし身体の不調でこころを汚すまいと、そのチャンスを使ってしっかりこころを育てるのです。身体をうまく使って、こころを清らかにするのです。末期ガンであっても、どうでもいいことです。私なら、「あなたは末期ガンかもしれないし、体調は最悪かもしれませんが、人間として生れてその目的に達したのでしょうか?」と訊くのです。こころ清らかで、怒り憎しみのない、慈しみにあふれた人格者にならないといけないでしょう。先がない身体のことは考えるほど落ち込むから、身体のことは措いておいて、こころ清らかな人間になりましょう。だったら、明日死んでもいいでしょう。汚い性格をもちつつ、20年長生きしたってかっこ悪いのです。こころ清らかにすれば、一週間で死んだって、それが価値ある人生なのです。
 
 肉体はいとも簡単に壊れてしまいます。医学が発達しているといっても、今も昔も人は病気になります。完全な治療法は昔もなかったし、今もないのです。ガン治療というのは「治療」と言えるでしょうか? ただガン細胞を攻撃するだけです。ウィルスに感染したら、身体の力でウィルスを排除しないといけないし、病気になったら自分で治すしかない。医学はただ、身体にちょっとサポートするだけです。歩けない人に杖をあげることと同じなのです。杖をあげたとしても、その人の足が強くなったわけではない。高血圧だったら、一時的に血管の薬で下げるだけ。血圧が上がり過ぎるとまずいのだから、サポートする。なぜ人間はそういった事実を見ないのでしょうか。
 
 人に「頑張れ、頑張れ」と言うのはよくないのです。病気で悩んでいる場合は、「たいへんですね、苦しいでしょうね」と言った方がいいのではないでしょうか。「頑張ってください、気持ちを明るく持ったらがんが治りますよ」というのは、とんでもない嘘です。本人も、そんなことを信じているでしょうか?
 
 問題は肉体ではなくて、こころなのです。ですから、健康な人であろうと、ガンになろうと関係なく、しっかりしたこころを持つことです。我々は何としても長生きしたいと願うのではなく、死を直視しないといけないのです。ガンになってからでは遅すぎです。私はいつ死ぬか分からない。今日の午後死ぬかもしれない。一日生きることは一日死に近づくことです。早く生きたら、死に早く近づく。のんびり生きていると、さらに身体の壊れるスピードが速くなる。激しく活発に生きるとまた早く壊れる。人の百倍も力あるスポーツマンに限って、ずいぶん早く身体が壊れたりするでしょう。これはどうにもならないです。
 
 私たちは、健康な時にこそ、「人は死ぬものである、生命は死ぬものである」と理解すべきなのです。「では私は死ねるのか? いま死神が来て背中を叩いたら、はいわかりました、逝きましょう、と言えるか?」と、自問しないといけないのです。成功者というのは、死神が来ても、「おまえ遅かったね、もっとしっかり仕事しろよ」と言える人間なのです。ゲームオーバーになるまえに、皆様それに挑戦してください。
 
 ガンに罹ってもそうすべきだ、というのは確かですが、ガンに罹ると調子が悪くなって、苦痛に耐えられなくなるのです。ですから、我々も病人に偉そうなことを言ってはいけません。重病になると、肉体の苦痛でこころまでくたくた壊れてしまいます。こころが壊れて、ゲームオーバー状態になってから、いくら弾を撃ちまくっても遅いのです。ゲームオーバーになる前に、健康な若い時に、「必ず人は死ぬのだ。私も死ぬのだ。私はいま死ねるだろうか?」という疑問をいつでもこころに入れておいてください。見事に立派な、人間になります。そういう人だけが「明るい」のです。
 
 病気になっても気をつけるべきポイントは、こころをしっかりすることです。肉体をいじることではないのです。こころが汚れると身体は壊れるしかない。こころに怒り・憎しみ・高慢・嫉妬などがあると、身体が簡単にこわれるのです。病気の人も、身体はつらくても、穏やかで明るいこころをつくるのに励むことです。
 
 身体には保証期間があります。それが寿命というものです。身体は保証期間内なら治ります。でも治るためには、身体への執着を捨てないといけない。保証期間内ならただで修理してくれますが、完治する世界ではないのです。機械と同じです。寿命は全うできますが、それにはこころが落ち着いていないといけない。断食したり、特別な水を飲んだり、そういう人々はあまりにも執着があり過ぎで、かえって早く身体が壊れるのです。 身体の保証期間は人によってさまざまです。必ずしも人の寿命は一〇〇年と決まっていない。身体に悪いことを何もせず、適度な運動食事で生きていても、臓器がこわれることはある。それは保証期間が終わったということです。理由は医者に聞いても分からないのです。
 
 最終的な答えを出しましょう。 末期ガンの人に向って、「頑張ってください」とは言わない方がいいのです。言うならば、「病気で苦しいでしょう。太極拳もできる範囲でやってみて下さい。でもやっぱり苦しいと思います。太極拳でガンが治るなどと、嘘は言えません。せいぜい身体にいい、というくらいです。でも、大切なのはこころを明るくすることですよ。人に優しく、よく笑って、いつ死んでもいいという状態で、怨み憎しみなく生きてみることですよ」とアドバイスしてあげてください。

身体が病気であっても、こころが病気にならないために理解しておくべきポイントが他にもありますか?

あります。お釈迦さまと夫婦とも仲良しだったナクラさんという在家信者がいました。旦那さんの方が大病をして、ようやく立ち上がれるまで回復したところで、さっさとお釈迦さまのところに挨拶に行きました。お釈迦さまは彼に向って、「あのね、身体っていうのはそういうものでしょう。正しい生き方というのは、身体が壊れてもこころが壊れないように、身体は病気になってもこころが病気にならないようにすることでしょう」と語ったのです。ナクラさんはそこで喜びを感じて、いきなり元気になったのです。顔を輝かせながら帰ったのです。それを見かけたサーリプッタ尊者がナクラさんを呼び止めて、ブッダとのやり取りを聞くと、その意味をもっと詳しく教えてあげたのです。どうすればこころが病気にならないでしょうか? と。
 
 理性ある人は、健康ということについて、もっと明確に知るべきなのです。健康な身体というのは成り立たないものです。身体は病気で成り立っているのです。仏教ではお腹がすくことも、くしゃみすることも、呼吸することも病気だと言っています。身体というのは、壊れることで成り立っているものです。呼吸しないと死ぬ。これは正真正銘の病気です。しかも治療法がない。食事も、大小便も、しないと死にます。治療法もありません。身体の機能はみな病である。それが真理なのです。心臓を休ませた方が長生きできる? そんなのあり得ないことでしょう。私たちは、健康、健康と追い求めて、いったい何をやっているのでしょうか? 俗世間に「病気」の定義がありますか? ただ身体に起こる現象の一部だけ取って、ガンだとか、狭心症だとか、病名を付けているだけ。それは大海の水を一滴取って、「これこそが海だ」というようなものです。身体の機能そのものが、全体的に病気そのものなのです。ですから、お釈迦様が仰ったことの真意は、「身体は病気になっても……」ではなく、「身体は病気です。しかし、こころが病気にならないようにしなさい」ということなのです。
 
 もちろん、俗世間の人々のこころは貪瞋痴に覆われて病んでいます。病気のこころで生きているから、身体が病気になると簡単にその影響を受けてこころも汚れてしまう。また、こころが病気になるとなおさら身体の病気も回復できなくなるのです。この悪循環を断ち切って、こころを健康にするためには、物を見る時・聴く時・食べる時、なんでも、こころが怒り・憎しみ・欲・無知などで汚れないように、その都度その都度「気をつける」ことが大切です。もっと簡単なのは、つねに「慈しみで生きる」ことです。自分に対しても、周囲の人々や、一切の生命に対しても、「幸福で、穏やかで、安らかでいられますように」と、呪文のようにこころの中で念じることです。こころの土台を慈しみにするならば、身体が病気になっても、こころは病気に感染しません。