あなたとの対話(Q&A)

妊娠中絶について、何度も怒りを繰り返してしまうことについて、強迫性障害について

パティパダー2009年7月号(143)

・妊娠中絶について
・何度も怒りを繰り返してしまうことについて
・強迫性障害について

アメリカ合衆国では、妊娠中絶の是非が大きな政治的争点になっています。中絶反対派であるキリスト教原理主義者の意向を受けて、共和党のブッシュ前大統領が国策として中絶反対を打ち出したこともありました。一方、仏教では五戒のなかで、「殺してはならない」としています。釈尊の時代には、妊娠中絶と言うことはなかったかもしれませんが、仏教的にはこの問題をどう考えるべきでしょうか?

妊娠中絶ということは、どんな世界でもあったのではないでしょうか。インド社会もそんな美しい社会ではなかったのです。たいへん不公平な、差別制度が激しい世界でした。いまもカースト制度が残っていて、平等にはなってないのです。弱い人、経済的に恵まれてない人は、権力を持った人々に攻撃されたり犯されたりしているのです。ですから、女性が妊娠中絶するということは、世界でどこでも昔からあったことだと、まず理解しないといけません。
 
 釈尊は戒律を定めた時に、「妊娠した時点で人間である」と定義しています。ですから、妊娠中絶は仏教では殺人なのです。それだけです。なぜ妊娠した時点としたのかといえば、当時も妊娠中絶があったからなのです。
 
 暴行されたりして妊娠した人にとって、「中絶は殺人」というのは、納得のいかない答えかもしれません。しかし、そういう酷い目にあった女性たちが、なぜ妊娠中絶という形で、されに酷い目にあわされないといけないのでしょうか。本当は、望まない妊娠をした人でも、幸福に生きられるように社会が助けてあげないといけないのです。なのに社会は被害者を非難するわ、子供も育てられないようにするわ……。女性にしてみれば、暴行されて出来た子供のことなど、どうしても辛くて育てることは出来ないでしょう。もし妊娠中絶に反対だというなら、そういう子供は社会がひきとって育ててあげるのが、社会の責任です。やみくもに 中絶反対と言うのは、被害者を責めることであって、非道徳なのです。
 
 中絶反対も、中絶賛成も、ろくなことではありません。仏教では人助けは基本的な教えです。悩んでいる人は助けてあげないといけないのです。妊娠にいろいろな事情があるにせよ、生れてくる子にだけ人権がないという立場はとれません。妊娠した理由が何であれ、中絶することは殺人なのです。ですから、せっかくこの世に生れようとしている人間を社会の誰かが育てることは、とても徳のある行為です。中絶に賛成しても、反対しても、悩み苦しむはめになるのは女性なのです。決断を迫られている女性たちの悩み苦しみを無くせるようにした方がよいのではないでしょうか。
 
 私もよく分からないポイントもあります。妊娠した女性の胎児に何か問題があったり、またお産によってその女性の命が危険にさらされたりする可能性があると、現代医学では、生まれる前に発見できるようです。その場合は、医者が医学的な判断で中絶することを勧めるのです。殺人になるからといって、医者の反対も振り切って産むことで、生れてくる子供も死んで、母親も死んでしまう事態は望ましくないし、道徳的でもないのです。しかしその場合も、人間の行為で一人の命が亡くなるのです。このようなケースの場合は、仏教の道徳判断はどのようになるべきかとは、私もよく分かりません。
 
 ある女性に相談を受けたことがあります。妊娠しているが胎児に何かのウィルスが感染して、産まない方がよいと医者に言われたそうです。本人はお腹の中の子供を大事に思っていたのです。しかし産んでも、子供は生きていられるかどうかは分からない。どうするべきかと私に訊かれたのです。「医者の話を聞きなさい」と私が言ったならば、一人の人間の命をなくすことに私も参加したことになる。私の比丘としての資格も、その時点で消えてしまう。たいへん困ったのです。それで私は、このように答えたのです。「この世で生まれて、人間として成長する善業に恵まれているならば、子供は勝手に生まれるでしょう。子供に人間として成長する業がなかったならば、命は絶えるでしょう。私に言えるのはこれだけです」と。その後、その女性は流産してしまいました。それで、医者も母も罪に責められることなく、問題は解決したのです。しかし、いつでもこのようなことが起こるとは思えません。

今年のはじめから資格試験の勉強をしています。久々に集中して取り組んだのですが、自分の嫌な気持ち、怒りなどが出てきてひどく混乱してしまいました。そこで『慈悲の冥想』を寝る前にやってみたところ、怒りはあまり感じられなくなりました。二ヶ月後くらいに自分のこころが理想的な状態になって、勉強する時に雑念がでてこなくなったのです。これはすごいなと。でも友達と会って一日話したりして次の日になると、友達と遊んで会話した時に反論できなかったこと、こころに思ったことが勉強中にまた出てきたりします。出てきたこころは、怒りのこころだと思って、観察して、怒りが静まっても、また同じような怒りというか雑念のようなものが出てきてしまいます。『慈悲の冥想』をする前よりは怒りで支配されることはなくなっのですたが、何度も同じような怒りの気持ちが出てきてしまう状態は、いまより良くならないのでしょうか?自分のこころをきれいにしたいと思っているのです。それが質問です。

こころをきれいにするというのは、さまざまな人格的な欠点をひとつずつ治していくことです。ぜんぶいっぺんに治せるというのはありえない。治せないわけではなく、そこまで人間はできていないのです。人間というのは、まず、いちど痛い目にあってもらわないと。痛い目にあってから、人間はそこで二種類に分かれます。二度とやらないという人と、あまり気にしないで、またくりかえしやっちゃう人。人格を治す場合も、こころをきれいにする場合も、いちど痛い目にあって治すぞと思う人は自分の人格を治せる。成長できる。痛い目に遭わずに治すというのは、珍しいまれな人間にしかできないことです。一般的な人々にとって は、痛い目にあってから何とかしないといけないと思う。そう思わない人はどうしようもないのです。
 
 質問から読めるのは、感情が激しく働いているということです。感情があること自体が、人間にとってはこころが汚れている状態なのです。感情の代わりにすぐれた理性で置き換えないといけない。理性が出てくるためには智慧が必要だし、ちょっと時間がかかるかもしれません。何か忘れられないというのは、感情です。欲も怒りも感情です。こころの悪いところは感情。なぜ感情かというと、理屈がない、論理がないからです。なぜ怒ったから、なぜ欲が出てきたかと、なんで? という訳を聞いてもない。私があれが好き、これが好き、ということもあるでしょう。その好きになった理由を言って下さいと言ったら、そんな理由はないのです。ただ、好きなのです。理屈がないことは悪であり、こころの汚れです。理屈がないから治し難い。理屈があって理由があることは筋道付けて解除できるのです。感情はそれがないから、そう簡単には消えてくれないのです。
 
 役に立つ、ひとつのアドバイスをします。それは、「過去を埋葬する」という方法です。過去は存在しないのです。過去と思って、我々は忘れることもできず悩んでいるのは、過去に起きた事実を覚えているからではなく、感情に振り回されているからです。過去は忘れるのです。過去は存在もしないし、過去に実体もない。存在もしない過去に振り回されて、現実の幸福を破壊しないことです。
 
 友達と会って話してから、後でごちゃごちゃ悩むはめになったと仰ったでしょう。それで家に戻ってから「こう言えばよかった。このように反論すればよかった。私の言い方が悪かった。言葉をこのように変えた方がよかった」などなどを考えて、悩む。これは明らかに感情です。それで一晩二晩悩んで、自信のある返事も作って、友達に会ったりするでしょう。その時は、二日間も悩んで煮込んだ返事は言う機会がないのです。友達は別な話題をもってくる。またはその友達は意見対立したことさえも、そのような話があったことも、忘れているかもしれません。せっかく苦労して煮込んだ返事が、無駄になったので、また新しく悩むための材料が生まれたのです。
 
 過去に出会った友達も、いまいないのです。いまいる友達は、新しい人間なのです。新しい人間に、新しい対応が必要なのです。過去の感情で対応すると、また外れるのです。また悩むはめになるのです。また何日間も悩んで正しい返事を煮込んで作っても、次に会う時も同じ結果になるのです。ですから、過去のことで振り回されること、過去のことで悩むこと、過去のことに対して妄想すること、すべて無駄な行為なのです。失敗する生き方なのです。悪循環を作るやり方なのです。
 
 過去は存在しない。過去に実体もない。過去に振り回されると、現実離れになる。失敗をする。そのように考えて、過去を永眠させられるように深く埋葬してください。掘り返さないでください。それができれば、現在を活発に生きることができるのです。その場その場で正しく対応できるように、能力が現れてくるのです。私たちには他人に正しく対応することができる場合もあるし、自分の対応は外れる場合もあります。それは普通なことです。失敗したからと言って悩むのは、無駄にエネルギーを浪費することです。失敗に悩むのではなく、過去を埋葬するのです。過去のことについて悩んだり怒ったりすることは、感情に振り回されていることです。過去の事実をありのままに覚えていることではないのです。

 感情の制御をできれば、過去に起きた出来事をそのまま覚えておく能力が増すのです。私たちの過去の記憶は、いい加減です。感情が激しかったものだけ覚えておいて、他のことはいくら大事なものであってもきれいさっぱり忘れるのです。人に大事なことを言うと、みなにメモを取る習慣があるでしょう。やっぱり大事なことを記憶したくないのです。感情的なことなら、誰でもメモったりしません。何時何分何秒で、どこで何人の前でどのように起きたことかと、よく覚えておくのです。それには、怒り憎しみ嫉妬、自己嫌悪などの感情が必要です。

 ですから結局は、感情の奴隷になっている人間は、覚えてはならないことをあえて明確に覚える。記憶する必要があるものを、見事に忘れる。過去を埋葬して、感情に振り回されない人だけが、覚えておくべき事を明確に覚える能力を身につけるのです。ですから、感情に振り回されないこと、過去を埋葬することが、記憶力を育てるためにも役に立ちます。頑張ってみてください。

家から外に出かける時に、なんども鍵を確認したり、火元を何度も確認したりを繰り返してしまいます。お医者さんに訊いたところ、それは強迫性障害と言うらしいですけど。

それを治すのは簡単です。いつでも手元にノートをもって、チェックすることです。一週間くらいやってみてください。しっかりと丁寧に、自分の行動をノートに記録しておくのです。デザインのよいノートを美しいストラップで首にかけておけばよいでしょう。それで、その場その場でメモをとる。

 このようにするのです。「鍵 - 〇(まる)」これは鍵をかけた、という意味です。「火元 ー 〇」これは火元を確認したという意味です。それから、日にちも時間も書いておくのです。ついでに人の電話番号や、気づいたことや、あとでするために覚えておくべきことや、何でもふつうにメモを取ることができるでしょう。いとも簡単にその症状は消えます。大げさなことではないんです。各病気には、それなりの原因があります。いま言った方法は、強迫性障害の原因を無くす方法です。