あなたとの対話(Q&A)

差別と区別の違い、情報とは、植物人間の生死について

パティパダー2009年9月号(145)

・差別と区別の違い
・情報とは
・植物人間の生死について

差別と区別の違いは何でしょうか?

区別というのは我々の知識でもあり能力でもあります。育てるべきものです。仏教用語の「分別」は「区別」という意味です。脳は区別に反応します。ものごとの区別をどこまで知ることができるか、ということが、その人の能力になるのです。我々はこの世界で、いつでも区別することで勉強していて、区別能力をいつでも使っています。たとえば、耳に何か触れると前の状態と区別する。それが音になるのです。ご飯を食べる時、皿を食べたりしないでしょう。ちゃんと食べられるもの、食べられないものを区別しているのでしょう。魚を食べる場合なら、これは骨、これは肉と区別してより分けている。それができないとたいへんなことになるのです。
 
 ものごとの違うところが何かと知る能力。それが区別です。ものごとに差がなくてまったく一緒に見えたら、脳は動かないのです。
 
 勉強するというのは区別を学ぶこと、訓練することです。例えば、数学を勉強する人には数学の難しい公式も区別がつく。何も知らない人には、単なる数字の羅列で区別できない。各自、それぞれの分野で専門知識を学んでいくのです。区別が知識とは言い切れませんが、区別能力があるほど、知識能力は成長するのです。ヴィパッサナーでも、最初に観察してもらうことで区別能力が発達します。その微妙な心理的プロセスを経て、究極的に区別能力(分別能力)が発達したところで、智慧が生まれて悟りに達するのです。
 
 それに対して、差別は主観で評価することです。「自分が」これがいい、これが悪いと評価する。それが差別なのです。たとえば、体格のいい人と体の小さな人がいたとします。片方を見て、「あなた、背が低いですね」というのは区別です。しかし、感情を入れて背が低い人を「おまえ、チビだなぁ」と貶めるのは差別です。「体格が大きい」というのは区別で、「デブ」というのは差別です。主観で、感情で、傲慢な気持ちで相手を判断しようとすることです。自分が完璧である、という誤解がないと差別はできません。
 
 とにかく、判断に行ってしまうと、かなり差別になりがちです。ただ、知識的・客観的に理解していく場合は区別です。自分の判断がかかる場合は、気をつけた方がいい。差別は罪で、区別・分別は智慧の開発に欠かせない能力です。区別は人の才能です。差別はその反対です。差別は人をバカにすること。それ自体、頭が悪いことの証拠です。よい悪いという判断の場合も、あくまで条件付きなのです。例えば何かの食べ物を、これはよい食べ物だ、悪い食べ物だと、条件を抜きには言えない。「この食べ物はよくない、賞味期限が切れているじゃないか」と言っても、それは人間にとっては食べられないというだけ。他の生命は喜んで食べるかもしれない。よい悪いを判断できるのはある条件の中でのことであって、条件が変われば、それに応じてよい悪いも変わるのです。ですから、善悪判断には気をつけないといけないのです。判断は、ある条件の中ですることだと理解していれば安全です。
 
 私たちは「あの人は嫌い、あの人は好き」と判断してしまう場合があります。これは差別になります。悪いことです。嫌いという気持ちになったら、できることなら「あの人は嫌い」ではなくて、「あの人の何が気に入らないのか?」と分析した方がよいのです。それでも、日常生活では何の躊躇もなく「あなたはバカだ、あなたはうるさいのだ」などなどの判断の言葉(差別語)を相手に言うのです。この場合は、真剣に気をつけないといけないのです。その人がやっていることについての判断であって、その人の全体的な人格判断にしてはならないのです。他人が自分の人格を低く判断すると、それは自分の人権が侵害されたことになるのです。それは嫌なのです。私たちも人の人格を全面的に判断することは止めた方がよいのです。ですから、「あなたはバカです」ではなく、「あなたはバカなことをやっている」と言った方が、相手の人権を侵害したことにならないのです。日常生活では、不注意で差別にあたる言葉を使いますが、人の人権を侵害しないように気をつけないと、その言葉は罪になるのです。悪業になるのです。

情報とは何ですか?

世の中で「情報」と言っているものは、それぞれの人がそれぞれの主観で合成したしろものです。ジャーナリストは、自分の好きなように組み立てた主観を「情報」として語るのです。「情報社会」というが、そんな社会はないのです。インターネットで情報を探す場合は、自分の好みで必要なものを探す。自分の好みであれこれ探して取っている。情報を発する側も主観で発信して、受ける側も主観でえり好みして受ける。情報は主観の観念です。学術的なテキストは、その分野のありのままの状況を伝えようとしています。チャートを作ったり、グラフで色分けしたり。それで知識が増えたり区別能力を増したりする。でも面白いことに、みな学術テキストは「情報」だと思っていないのです。新聞、雑誌が情報だと思っている。違います。あれは主観だけ交わしているのです。それで世の中はすごく困っています。「情報」がぜんぜん役に立っていないのです。マスメディアは、写真・ビデオに好き勝手なテロップをつけています。ウイグル問題でも、同じ映像について、中国政府と外国メディアでは違う説明をする。そんなものに振り回されたら人生が台無しです。それが俗世間でいう「情報」です。

 仏教で定義している「情報」とは、「体に触れるもの」です。我々のこころは体(六根)に触れる情報で回転しているのです。例えば、目に色と形が見える区別。耳に音という空気の振動が触れる区別。そういったものだけが情報です。我々は体に触れる情報を合成したり、解説したり、あらゆる方法で捻じ曲げます。それはもう「合成」であって、「情報」ではないのです。情報を我々の好き勝手に合成して、捏造してしまうのです。仏教でいう情報は、眼耳鼻舌身意に触れる色声香味触法しかない。そのなかには、「美しい女性」も、「美しい声」もない。それが情報です。それもまた無常だから、流れていくから、区別できるのです。

親戚の女性が、一度心臓が停止して死亡した後、電気ショックをかけたら心臓が動きだして、植物人間になってしまいました。亡くなったことに悲しんでいた家族ですが、彼女が電気ショックで植物人間になったらなったで、その状態が次第に煩わしくなってきたそうです。長老のご著書で、「死ぬとは、心が機能しなくなること」と書かれているのを読みました。この場合(植物人間の生死について)、仏教的にはどう教えているのでしょうか?

こういう場合、仏教では答えにすごく注意するのです。科学者の話にも宗教家の話にも乗りません。いまの知識で判断する場合、見解はつねに揺れ動くのです。一番無難なのは生命をいじらない、放っておくことです。生命は自力で続くものです。これに手を加えて余計なことをすると、混乱してしまうのです。自然なら、呼吸できなくなった時点で死んでしまいます。呼吸できなかったら、人工呼吸器で何年も空気を入れ替えたりする。それで人は生きている。それで機械のスイッチを切ったら人を殺したことになってしまうし、どうにもならない状態です。そのまま5年も経って、家族はくたくた。お金もなくなって、病院からも他の人のために機械が必要だと言われて……すべて余計なことをしたために起こる問題なんです。命の方程式は、「自力で続く」ということです。ウィルスも、細菌も自力で生き続けていくのです。

 こういうケースは困ったものです。仏教では「知る機能があれば生きている」と言います。しかし、その患者さんに知る機能があるか否かと、どうやって知るのでしょうか? 知る機能がなかったら、部品を取って活用した方がいい(臓器移植)のです。でも、どうやって「知る機能がない」と知りますか?
 
 脳の機能を見ると言っても、脳はどうってことない臓器に過ぎません。アメーバには脳はないが、アメーバは何を食べるべきかよく知っています。知る機能があるのです。脳の停止も人の死ではないし、心臓停止も人の死ではないのです。人間の一般知識でいえば、人とコミュニケーションするのは脳の働きだから、脳死を死とみなしているだけの話です。アメーバが死んでいるかどうかは、脳波を調べるわけではない。動きで判断しています。物理的な動きと生命の動きはすぐ区別できます。「動きがあるかないか?」それが死の定義です。しかし我々にとってはどうしようもない。スリランカのことわざに、「虎の尾をつかんだら、虎か自分か、どちらか死ぬまで樹の周りを回るしかない」とあります。現代の医療技術で様々な延命装置を開発したことで、我々は虎の尾をつかんでしまっているのです。外すわけにもいきませんし、付け続けるわけにもいきません。
 
 それにしても、医療技術で命を助けてあげるのは決して悪いことではありません。「植物人間になっても、何としてでも生かしてやる」という気持ちは、やりすぎではないかと思います。しかし、技術があるのに、人が死にかけているのに、使わないわけにもいきません。法則は、命は自力で続かなくてはいけない、ということです。食を取らない人に、管で栄養を与えても構わないが、その人の体が自力で栄養を受け取って、分解しなくてはいけない。現代医療は命に手を加え過ぎだと言いたいところですが、医療は開発するべき分野がたくさんあります。医療技術と生命を比較すると、必ず矛盾が起こります。医療は、病気を治したい、死なせたくない、と努力する。我々も命を助けてくれと医療にたのむ。しかし、治しても、治しても、人は病気にかかるのです。何回助けてもあげても、人は死ぬのです。病・死は明確な事実です。医療は事実に逆らおうとする。ですから、いつまでたっても、医療現場から矛盾を無くすことはできないのです。
 
 仏教では、「死があるから生きている。生きることは死の連続である」と言います。瞬間瞬間、我々は生まれては死んで、生滅しつづけることで維持管理されている。死がなかったら、認識さえも起こりません。いま認識したことが、そのまま心に残ったら、次のことを認識できなくなる。黒板を思い出して下さい。何でも書けるボードでしょう。あれは何を書いても消せるからです。前の認識が消えて、新しい認識が生まれるのです。こころは生死の連続で存在するのです。体も生死の連続で成り立つのです。

 仏教では、ただの物体の終わりとしての人の死と、瞬間瞬間起こる死という二つがあります。仏教徒なら、自力で生きている割合が50%以下に減ったら、そこでいい加減やめようと思うのです。70%、90%、98%、機械に頼って他力で生きることは、無意味だと思うのです。生命は自力で生きるものです。我々は素直に人の死を認めないといけない。感情が割り込むので、理性が失われる。それで人の死を認められなくなるのです。他人はともかく、親しい人々は死んではならないと思ってしまうのです。人の理性に欠けた気持ちが、この種の問題を起こしているのです。

 しかし私たちには、自分の親しい人々に「あなたは延命装置をつけないでくれ」と頼む権利もないと思います。それは自分が人を死なせることに加担する行為になります。生きることも死ぬことも、その人が自力で行うものです。
 
 私たちにはこういうことができます。元気な時、ものごとを明確に判断できる時、「私が末期になったら自然に死なせて下さい。延命装置を付けないでください」と他人に頼んでおくことです。親戚は見守るだけで充分です。それなら、自分も親戚も医者も罪に染まることなく済みます。

 そのような約束がない場合は、誰でもつい延命装置をつけるのです。それはやむを得ないのですが、外すことが問題になるのです。安全に答えられるのは、そこまでです。