あなたとの対話(Q&A)

冥想はなぜ最高の善行為なのか?、真我論は成り立たない/宗教の正体、善行為するのは楽ではない

パティパダー2009年12月号(148)

・冥想はなぜ最高の善行為なのか?
・真我論は成り立たない/宗教の正体
・善行為するのは楽ではない

冥想はなぜ最高の善行為なのか?
 長老は以前、「冥想は最高の善行為になる」ということを仰っていました。その意味についてもう少し詳しく教えてください。

私たちは朝から晩まで「湾曲・捏造」して生きています。ちゃんと情報が身体に触れているのに、それを自分勝手に合成して幻覚をつくっています。私たちは合成された「自我、エゴ」という幻覚に捉われ、「私がいる」という前提で思考することで、欲・怒り・無知の汚れた感情を引き起こしてしまうのです。「私がいる」という間違った前提(捏造)から始まる思考は悪に決まっています。私たちはそういう、たいへん厄介なシステムで生きています。
 
 例えば「花がきれいだ」と思った時点で心が汚れています。欲が生まれています。誰かがその「美しい花」を踏みつけたら怒りが生まれるのです。動物が食べてしまったりしたら、もう居ても立ってもいられなくなるのです。別に「自分の花」でもないのに。そのように「花がきれいだ」と思った時点で、煩悩・欲で心が汚れているのです。ですから、普段の日常生活でも心は汚れてしまいます。しかも、その悪から離れる方法は、俗世間にはないのです。私たちは、「花はきれい」というスタンスで生きるしかない。俗世間では、悪から完全に離れるのは不可能なのです。そういう俗世間で生きる私たちが、悪から完全に離れられるのは、冥想で「実況中継」している時間だけなのです。
 
 誤解されるといけないので言っておきますが、私たちは日常生活のなかで、それほど悪行為をして生きているわけではありません。ほとんどの人々は、俗世間のなかで道徳を守って、善い人間として生きています。それも立派な善行為です。しかし、それは「清廉潔白な善の生き方」とは言えないのです。(自我を前提として)考えてやっている、怯えてやっている善です。「恥ずかしい」という気持ちも、エゴ、自我なのです。善行為を起こさせるのは、「こんな恥ずかしいことは自分はできない」というプライドと、「こんなことをしたら自分の社会的立場がなくなる」という恐怖心です。その二つ(慚・愧)があるから、私たちは何とか善い人間として生きているのです。その気持ちも、エゴには違いありません。つまり、私たちは、エゴを前提とした汚れた心の働きを利用して、善行為をしているのです。それは決して、100%清らかな善行為にはならないのです。
 
 一方、冥想で「実況中継」する時、心にあるエゴの働きは一切使っていません。自分勝手に情報を湾曲して、捏造、合成して認識する機能を止めるのです。「私がいる」という幻覚が生まれるプロセスを遮断するのです。湾曲、捏造、合成という認識の流れを止めることが、心を完全に清らかにする唯一の方法なのです。ですから、冥想で「実況中継」することは、100%清らかな善行為になります。清廉潔白な善行為なのです。比較的善という善よりは、絶対的善の方がよいのです。

真我論は成り立たない/宗教の正体
 私はインド哲学やヒンドゥー教の人々の本もよく読むのですが、彼らの言っている「真我論」は長老のなかではどういう位置づけになっているのでしょうか? それなりに評価しているのか、あるいは全否定なのか、教えていただきたいです。

誰でも、理性に基づいて真我があると証明できる人が人類の中で独りでもいるならば、出てきなさい、と言いたいのです。自分が経験したと言うなら、出てきて欲しい。反論して欲しい。でも、人類の中で一人もいないのです。過去から現在まで。真我(アートマン)というのは単なる信仰でしょう。証拠もなしに「ある」という前提で話すなら、何でも語れますよ。たとえば「神がいる」という前提で、どんな下らないことでも言えます。でもそれはただの信仰です。
 
 お釈迦様の教えは因縁論なので、真我論は根本から崩れてしまうのです。因縁論は、純粋に理性的な、論理的な教えなのです。お釈迦様は、人間を宗教の束縛から解放してあげたかったのです。当時のインドでも、人々は宗教に脅されて、搾取されていたのです。いまも宗教は、人間が自由になる道、幸福になる道を歩むことを邪魔して、まるで吸血鬼のように自由と幸福を奪っているのです。いま私が読んでいる本に面白い記述があります。あるユダヤ人が、『聖書』に書いてあることを文字通りそのままに生きてみようと挑戦するのです。結局、彼は私よりも厳しく聖書を批判することになってしまったのです。ユダヤ教の戒律には、「偶像は片っ端から壊せ」「同性愛者を見たら石を投げて殺せ」「魔術師は火をかけて殺せ」云々と書いてあります。文字どおりに聖書の戒律を試してみる実験でしたが、そういう戒律はとりあえず措いておかないと、その本の著者も現実の社会では生きていられないのですね。ですから、堂々と(旧約)聖書の戒律に反する生き方をしなくてはいけないことになります。その本の著者が最後に「聖書に書かれた戒律は、何一つも守れないのだ」と書いています。「何の理由もないことが神の言葉である」と、とことん聖書をバカにする結論なのが面白いです。
 
 宗教とは、人間の自由を奪って、人間が発展する道を邪魔して、抑え付けるためのものです。インドのヒンドゥー教も、中東の宗教も、中国の儒教や道教も、同じようなものです。中国宗教(儒教)で重視する「親孝行」の教えは、それ自体は悪いことではないのです。しかし、儒教では社会秩序を固定化して、動かないように、化石化しようとします。社会の変化を止めようとしているのです。人間を支配したい、管理したいという何人かの衝動の産物が宗教なのです。びっくりされましたか? これまでは目を閉じて本を読んでいたのだから、これからはきちんと目を開けて、宗教の本を読んでみてください。
 
 インド宗教では「真我がある」と固く信じています。しかし、何を調べてみても現れるのは、因果法則という真理だけです。調べれば調べるほど、探せば探すほど、「真我たる実体はどこにもあらず」というデータのみが出てくるのです。「だから真我がある」という結論を出せるでしょうか? だから、目を閉じて本を読むのではなく、目を開けて本を読んで欲しいのです。宝物を自分で見つけて、ガラクタをとっとと捨てることです。宗教というのは、「浦島太郎」の話のようなものです。子供は浦島太郎の話を信仰しないでただ面白がるだけです。しかし大人は、浦島太郎の話のような宗教の話をそのまま真理だと信じているのです。
 
「私がいる」という自我論・真我論・実体論を捨てない限り、人間は煩悩から解放されません(前の質問の答えを参照してください)。差別から解放されません。インド哲学者に聞きたいのです。『バガヴァッド・ギーター』は世界人類に貢献した偉大な文献だと言っていますが、そこに書かれている一貫した論理は、「殺せ」という一言だけ。エゴを捨てて、神に命じられたクシャトリヤの義務(殺人)を遂行せよと。インドではカーストによって義務が違うのです。クシャトリヤ(王族)の義務は戦って敵を殺すことだそうです。ではヒンドゥー教のインド人に聞いてみてください、日本人は何カーストかと。日本人はどのカーストにも入りません。動物と同じ扱いです。
 
 人種差別・出身差別を「神の言葉」として肯定するならば、それほど非道徳的な言葉があるでしょうか? ヒンドゥー教に限らず、どんな宗教でもその聖典に書いてある教えは矛盾だらけです。私はよく言うでしょう、「ブッダの言葉に一行でも矛盾があるなら言ってください」と。聖書にもたくさん戒律がありますが、「なんで?」という理由は何もないのです。宗教の道徳は論理的に成り立っていない。論理的に成り立っている道徳というのは、仏教の教えにしかないのです。宗教があるなしに関わらず、人間はある程度で社会道徳というものに従って生きているのです。社会道徳を守ることによって、その個人が幸せに生きられるし、その社会も繁栄するのです。仏教も、その社会道徳をそのまま認めるのです。世界が一般的に悪いと決めている倫理基準は、智慧によって発見したものより人間の長い歴史の中で経験してきたものです。倫理基準を犯したら不幸になる、ということは経験済みなのです。仏教も、それぐらいの道徳を守るのは常識だ、という態度です。
 
 しかし、お釈迦様が社会一般的に認められている道徳を借りて仏教に取り入れたわけではないのです。人間の心の機能を知り尽くして、どのような行為をすれば不幸になるのか、どのような行為は幸福をもたらすのかと、明確に発見したのです。その不幸になる行為を並べてみれば、社会一般的に語られている倫理基準のいくつかに合致しただけです。仏教の道徳は、きちんと論理的に成り立っているのです。
 どんな学者でもいいから、真我があると証明して欲しいのです。テキストから引用しても意味がありません。テキスト自体が矛盾だらけだから。私たちは冥想実践で、「無我である」と発見するんです。客観的に現象を観察して、自分で真理を発見するのです。「真我がある」という前提を頭に叩き込んでから冥想しても、苦行しても、それで何かを見たとしても「精神病になった」「頭がいかれた」というだけのことです。
 
 私たちは矛盾だらけの宗教の教えで、いわば遺伝子レベルまでもマインド コントロールされてしまっています。宗教のアベコベな教えが何世代にもわたって伝えられて、私たちを束縛しているのです。だから仏教は一切の先入観なく、ありのままを調べましょう、調べて見つけたら、それが正解になるんだよと教えています。それがブッダの自由な世界です。マインド コントロールを全部破るというのは簡単なことではないのです。しかし、簡単ではないからといって、感情で信じているものが真理にはなりません。調べてください。
 
 マインド コントロールから解放されることは厳しい作業になりますが、ヴィパッサナーで、一週間まじめに実況中継してみると、マインド コントロールはきれいさっぱり消えます。それで覚りの第一ステージに達するのです。その人は客観的に物事を見ていることになるんです。客観的に物事を見る人はすごく自由です。毎日、矛盾だらけの宗教の聖典を読みながら、暗く暮らさなくてもいいんです。

善行為するのは楽ではない
 最初の質問に関連しますが、俗世間で生きていても、心の汚れは絶対にゼロにはならないのでしょうか?

汚れはゼロにはならないのです。でも、それだけ言ってしまったら、我々にはどうしようもなくなってしまう。それは危険なことです。お釈迦様は、「それではどうすべきか?」ということで実践を教えているのです。実践をして、自我という幻覚を破ってしまえば、煩悩も生じないのです。心は汚れないのです。お釈迦様は「盆地にいて村を見る人と、山に登って村を見る人の違いですよ」と仰っています。盆地にいて、また自分の家の中にいて村を見る人は、自分中心に村の一部を見ているだけです。山の上から村を見る人は、村を全体的に見ることができるのです。村の中にある個々のものに対して、特別な感情も、人間のあいだにあるゴチャゴチャな関係に対しても、感情を持つことはありません。しかし、全体的に知っているのです。村にいて観察する人には、一部しか見えないのです。その上、たくさん感情や執着が生まれるのです。仏教の修行とは、山に登って山の頂上から村を見ることです。ですから、修行を成功させなくてはいけないのです。修行しない人と中途半端で修行する人の心の汚れは、ゼロにはならないのです。
 
 思考、概念そのものが汚れです。不善です。私たちは絵を鑑賞するときでも、「煩悩が生まれないように観賞する方法」は知らないのです。だから、何とか真理を発見しないといけないのです。しかし、湾曲・捏造は生命たるものは皆やっていることだから、自分はダメだとか、極悪人だとか、地獄堕ちだとか、極端に思うことも、それ自体邪見です。お釈迦様が語られたのは、ありのままの真理です。思考そのものが不善であるというのは、脅しではなく、真理です。「人間はみな死にますよ」というのは真理でしょう? それで落ち込んだところで意味がない。そんな不孝な言葉を言わないでくれと文句をつけても、それは事実ですから。
 
 そのように思考たるもの、概念たるものは皆、不善になります。それでも、踏ん張って善行為にすることはできます。例えば『慈悲の冥想』をするときは、ふんばって思考を善行為にするのです。慈悲喜捨の清らかな感情のみで、心を満たすように精進するのです。私たちが善行為をするためには、そうやって、ジリジリと努力しなければいけないのです。