あなたとの対話(Q&A)

怒りのエネルギーは本当に悪い?、冥想はひとりでやってもいいのか?、死の恐怖と冥想

パティパダー2010年2月号(150)

・怒りのエネルギーは本当に悪い?
・冥想はひとりでやってもいいのか?
・死の恐怖と冥想

怒りのエネルギーは本当に悪い?
 仏教を勉強していると、しばしば心の底にある「怒りのエネルギー」に気付かされます。それとともに、怒りというのは本当に悪いものなのか、という疑問も生まれてきました。怒りのエネルギーがなかったら、人間は積極的に活動出来ないし、ひいては人類の進歩もなかったのではないでしょうか?

怒りで何かを成し遂げた人々が、怒りなしに何かを成し遂げたならば、比較にならないほど大きな事を出来るはずです。いま、日本の状況は危機的で、経済は破綻寸前です。これは、生産活動の根底に怒りがあるからです。破壊を伴った発展の矛盾が、いま噴き上がっているのです。私達は怒りしか知りません。ですから、苦労してやっと積み上げた富をいとも簡単に破壊してしまうのです。怒りで思考を抑えられているから、斬新なアイデアも智慧も出てこないのです。

 そう言われてもピンと来ないかもしれませんが、「オレが儲かりたい」というエゴも実は怒りです。「オレが」という気持ちの中に怒りが燃えているのです。怒りという問題は、日常生活で怒らなければ解決、というシンプルなものでもないのです。怒るのはいとも簡単です。一方、怒りなく生きるには智慧が必要です。人が怒りをなくして慈しみで生きることは、たいへんな挑戦なのです。

 怒らないことは、ゾンビのようにぼんやり生きることではありません。余談ですが、この冥想会場に来るまでの間、人々の歩き方を見て、「みんな、ゾンビ・ウォーキングだなぁ」と思いました。歩いていても、どこかしっかりしていない。怒り・憎しみ・欲で頭がフラフラして、麻痺したゾンビのような状態になっている。映画では、ゾンビに捕まると脳味噌を喰われるでしょう?面白い設定だと思います。

 人々は怒りを衝動にして生きています。オレが儲かりたいと、怒りで自我を張るのです。理解して欲しいのは、怒らない方が確実に幸福になるし、他を害することもない、結果として経済的にも成功するということです。商売する時は双方がwin-win関係でなければいけません。商売は勝ち負けであってはダメなのです。日本で消費が冷え込んでいるのも、企業が消費者から奪うことばかり考えているからではないでしょうか? みなが儲け主義で商売をしているからといって、それが正しいと限りません。みながやっていることは、むしろやめた方が良いのです。智慧のある少数者に学ぶべきです。誰もが怒りと欲で商売しているとしても、自分がそれに追従してはいけないのです。

 怒りが心にこみ上げて来るのは、きまって疲れで頭が混乱している時です。判断力がなくなっている時に怒るのです。ですから怒りそうなときは、いったんその場から離れて頭を冷静にした方がいい。何か嫌なことを言われても、その場では反応しないことです。

「怒りとは、人間としての敗北宣言である」

 この言葉を覚えておいて下さい。勝利宣言と一緒にあるのは、笑いのはずです。怒る人には笑いがない。だから、負けています。「生きることは基本的に苦である」というのはお釈迦さまが発見された究極的な真理(苦聖諦)です。でも、私は泣かないぞと、いつでも面白く、なんでも笑いに入れ替える訓練をすることです。人に「バカ」と言いたくなったら、「カバ」と言ってください。そうすれば笑えるでしょう。そうやっていつでもユーモアで気持ちを入れ替えることは立派な修行です。喋るときには30秒くらい修行して、笑えることにしてから喋って下さい。みなさまは、妄想の達人でしょう? その能力をくだらない怒り憎しみに使うなんて、勿体ない。妄想力をユーモアの訓練に使ってみてください。

 私たちはいつでも、「我こそは正しい」という変な思考に囚われて、自我を張って怒ってしまう。でも、「我こそは正しい」と思うのは、路上で裸になるよりも恥ずかしいことです。怒りはすごいエネルギーです。核兵器は開発するわ、戦争を起こすわ、環境を滅茶苦茶に破壊するわ……。そういう悪い行為にもエネルギーが必要です。だから素晴らしいと言えるでしょうか? 怒りをなくす人には、もっと巨大なエネルギーが生まれます。堂々とした落ち着いた心と、真理を発見する智慧が現れるのです。ですから怒らない修行を完成すれば、覚りに達します。どんな状況でもニコッと笑って解決しましょう。我々はいつでも明るく楽しく生きて行きましょう。怒らないことは、我々の人生を完成するための大切な修行なのです。

冥想はひとりでやってもいいのか?
 地方に暮らしていてなかなか冥想会に参加する機会がありません。冥想修行というのは、家でひとりで行ってもいいものなのでしょうか?

特にヨーロッパでは、冥想はひとつのファッションアイテムになっています。インドなどで組み立てられたさまざまなグルの教えがあって、いい加減なことを教えて金儲けしているのです。心の世界について、人間はほとんどわかっていません。心とは何かとわかってないのに、心のことをあれこれ語っていいはずがないのです。ですから、世の中にある冥想に、危険なところがないとは言えません。しかし、ブッダの冥想法は、実践しても危険なことは全く起こりません。それは保証できます。私たちは、お釈迦さまが指導された完全な冥想から脱線しないように、厳密なガイドラインを付けています。やり方は驚くほどシンプルですが、冥想自体は深い理論に基づいて語られているのです。

 冥想は宗教の修行と思われています。しかし、お釈迦さまが教えたのは宗教ではないのです。ブッダの冥想法は、「宗教なんか大嫌い。私は何も信じませんよ」という頑固な方でも実践して構わない。冥想とは、シンプルな科学的なプロセスです。実践すれば本人が知るのです。「これで私は一生、死んでからも、もう大丈夫です」と。ですから、安心して実践して下さい。冥想の仕方は本にも書いていますが、一度は直接やり方を聞いた方がよいでしょう。

 それからは、ひとりで冥想するのです。仏教は束縛する世界ではありません。チベット仏教のように、師匠と弟子の絶対的関係がないといけない、といったことは言わないのです。自分がひとりで自分の心を清らかにして覚りに達することが「道」なのです。しかし、知らないことは先生に教えていただく。教えてもらうことは決して、奴隷になることではありません。みなさまも、学校で先生に教えてもらったからといって、先生の奴隷にはならなかったでしょう? 教えてもらったら、冥想は一人でするものです。実践していて、何か疑問が起きたら、その都度教えてあげます。

死の恐怖と冥想
 最近、自分が死を怖がっていることに気がつきました。俗っぽく言えば、「死に至る苦痛が怖い」のです。冥想が進むと、死の苦痛への恐怖も薄らぐと期待できるでしょうか?

死の恐怖というのは特別なことではありません。生命が死を恐れる、怖いと思う、それは普通です。仏教では、死について考えないことを「無知」というのです。無知な人々は人類に迷惑です。ですから、「私は死ぬものである」ということをまず理解しないといけない。「では、死ぬまで私はどう生きればよいのか?」と考えれば、そこにしっかりした生き方が現れます。自分の生きる道がサッと現れてくるのです。

 ただ「死ぬのが怖い、怖い」と怯えているだけでは話にならないし、「オレは死なんか気にしない」というのもまた話にならない。中道的にアプローチしないといけないのです。死ぬことは確実。では死ぬまでどう生きるか、と考えることです。そこで、人に迷惑かけてまで生きるのか? 人に損害与えてまで儲けていいのか? 自分の好き勝手に殺してもいいのか? という疑問が出てきます。死を考えることで、私の家、私の土地、私の財産、という強烈な執着が消えます。人を許す気持ちになります。人を思いやる気持ちが出てきて、柔軟な素晴らしい生き方が現れてきます。死ぬことは自然の流れだから、問題にすべきではありません。死とは、私たちに管轄外の自然法則です。私の管轄とは、「死ぬまでどう生きるのか?」だけです。

 毎日、責任をもって生きる。すること、しゃべること、考えること、自分で責任をもって生きることです。私たちが生きている時間は短いのです。その短い時間をしっかり運転するのです。死んでから、何か持っていけるのかと、具体的に考えてみて下さい。「自分の家」と言っても、そこで過ごすのはほんの短い時間でしょう。死んでから「自分の家」を持っていくことはできません。自分は日本人だと言っても、誰かが二週間アメリカに旅行すれば、旅行中は一時的にアメリカの法律に管理されます。日本人である自分も、仮のあり方に過ぎないのです。しかし、アメリカにいても、日本にいても変わらないものがあります。それは、「自分の性格」です。ちょっとしたことで怒る人は、アメリカに行こうが、アフリカに行こうが、トラブってしまう。だったら、どこに行ってもスムーズに生きられる性格を育てましょう。仏教はもっと高いレベルのことを語っていますが、その前にこのレベルをクリアして欲しいのです。立派な性格になる、というステップを飛ばして、修行は先に進めませんよ。

「私は死ぬのだ」ということを常に念じていると、よい性格の人間になります。よい性格になったところで、お釈迦さまは、「人間の性格も刻々と変わっていく」ということを教えてあげるのです。結局、性格も刻々と変わっていくから、持っていけないのです。ですから、なにものにもとらわれない、無執着の精神を育てなさいと、教えるのです。

 これはお釈迦さまの説かれた修行のステップです。時々、「私は覚りました」と言う人がいますが、よく見ると性格が最悪なのです。性格は措いておいて「覚った」というのは調子に乗りすぎ。そういう態度自体が、覚りの道を完全に閉ざしているのです。自分が覚ったぞ、皆に見せてやるぞ、という態度では話になりません。そういう人が修行しても、一歩も成長できない。性格の悪い人が覚りを目指しても構いません。でも、修行の過程で少しずつ性格を直しながら、そのご褒美として覚りが得られるということを忘れないで下さい。

 修行しているのに性格が悪くなっているというなら、その人は仏道を実践していないのです。仏道と逆のことをしているのです。覚りとは、人格を完成した人が達する境地です。だから、日々どう生きているのかということが冥想に必ず関係する。冥想は現実から逃げたがる人の「免罪符」にはなりません。奥さんと上手く行っていないからと部屋に篭って冥想したとしても、それは逃げているだけです。心は落ち着くかもしれないが、成長はしない。日本でよくあることで、社会的に問題起こすとお寺に逃げるでしょう。半年位お寺に隠れて、またのこのこ出てくる。それでも自分の性格を直していないならばダメです。

 冥想修行すると同時に、自分の毎日のトラブル、問題、欠点にも気をつけて、それを直していかないといけない。例えば一日三〇分慈悲の冥想をしていて、でもちょっと人に言われただけで激怒するならば、冥想の意味がないでしょう? 性格で表せないならば、何のための冥想ですか?「智慧があるか否かは、自分のキャラクターが表しています」と、お釈迦さまはおっしゃっています。自分が何者かということは、自分の生き方・性格がおのずと表しているのです。人には誰でも性格的な弱みがあるのです。まず、それを直していかないといけない。性格を直した先に、覚りの境地があるのです。

 少し、脱線しました。質問した人への答えを出します。死が極端に怖いというのは、自分への愛着の表れです。心配することではありません。「あれ? 自分はすごく愛着を持っているんだぞ」と事実を発見しただけ。わざわざ愛着を捨てようとしても無理です。お母さんに「あなたは子供への愛着がありすぎ。捨てなさい」と言っても無理なのです。なぜでしょうか? 我々はものごとに価値を付けているのです。例えばここにゴミ箱を持ってきて「さあ、財布をここに捨てなさい」と言われても、やりたくないでしょう。理由は? 財布に「これがないと困る」という価値をつけているからです。この価値観を捨てない限り、執着は消えません。真面目に考えれば、いろいろ捨てられない条件が出てくるのです。

 成人した子供が母親に迷惑をかけている場合、正しい態度は「出て行け」でしょう。家に戻って親を殴ったりして、何様ですかと。しかし、そう教えてもやってくれない。いろいろ理由をつけて「出て行け」と言えなくなる。親は子に対して価値を付けているのです。価値があるから愛着・執着があるのです。

「執着を捨てなくてはいけない」などと、屁理屈で実践しないで下さい。我々は智慧を開発するべきなのです。智慧を開発すると、どんなものにも価値がない、すべて無常で価値がないのだ、とわかると、愛着・執着がなくなるのです。その人は、もう凡人ではないのです。昔は在家の方も在家のままでたくさん覚りました。覚ったけれど、そのまま仕事を続けて、家族を養ったのです。家族や財産にはみじんも愛着はないけれど、すごく気をつけて大切に管理する。「オレのもの」としがみつかなくても、財産を管理することはできます。自分の命に対する愛着を捨てなさいといっても、単純に実践できる話ではなく、冥想で智慧を開発するしかないのです。どんなものにも価値がないと発見すれば、精神の自由を獲得できるのです。
(※冥想会での質疑応答から編集しました)