「無常」というラベリング、執着のセルフチェック、欲の喜び 善の喜び、タオイズムと仏教、二因心と三因心
パティパダー2010年4月号(152)
・「無常」というラベリング
・執着のセルフチェック
・欲の喜び、善の喜び
・タオイズムと仏教
・二因心と三因心
「無常」というラベリング
人が話している、車が動いているなどの、目や耳から入った現象を確認して「無常」とラベリングすることはヴィパッサナー冥想になるのでしょうか?
精密にいうならば、サマーディ冥想の無常随念という冥想になります。しかし、ヴィパッサナーになりませんと断言する必要もないのです。ヴィパッサナー冥想(sati,観察)する人にとっては、「無常」という閃きは勝手に出てきます。ですから、ヴィパッサナー冥想が進んでいる人が普通に人と話しているとき、「無常」という気持ちが勝手に入り込む場合は、ヴィパッサナーです。無理に入れる場合は、サマーディ冥想の枠に入ります。要するに、「無常」というラベリングはサマーディ冥想になったり、ヴィパッサナー冥想になったりするのです。
執着のセルフチェック
人や物に対して、執着があるかないかをセルフチェックする為にはどのようにすればいいのでしょうか?
執着の対象になる、その人・もののことは、簡単に思い出してしまいます。妄想のテーマになってしまいます。その時、欲や怒りなどの感情が沸きます。これでその人やものに対して執着が生じていることが明確になります。
簡単に発見しやすい執着は、欲と怒りという二つです。その人に、ものに、よろしくない変化が起こると、自分が嫌な気分になる場合、また、良いことが起きたところで自分も嬉しくなる場合は、欲の執着です。
その人に、ものに、よろしくない変化が起こると、自分が良かったと思うならば、自分はその対象に対して怒りの執着を抱いているのです。怒りも執着ですよ。
慈しみの感情が起こる場合も、何か欲に似たような気持ちが起こりますが、区別はできるだろうと思います。慈しみは自然に起こる現象ではありません。あえて育てなくてはならないのです。その過程で自分の感情は変化してゆくことも経験できます。
慈しみの気持ちと欲の気持ちは似ているように感じる。怒りの執着と悲(憐れみ)の感情が似ているように感じる。一つは善で、一つは悪です。「執着」という用語で理解する場合は、善であろうが苦であろうが、感情は執着だと見なすのです。執着は悩みの種です。例えば、善の感情である慈しみが起きた時、冷静に相手にできることをやってあげたい気持ちになります。これも悩みの種です。
結局、執着は「悩みの種」なのです。それで、チェックできると思います。
欲の喜び、善の喜び
欲が満たされている時に感じている喜びと、善行為をしたことで感じている喜びが同じように感じる事があるのですが、区別することは出来るのでしょうか?
アビダンマでは両方もsomanassa_sahagata(喜倶)という言葉で表すのです。ですから、区別できないでしょう。人は欲が満たされている時の喜びに惹かれているのです。ですから、欲を満たすことは悪いことだと思わない、それが悪だと理解できないのです。
区別できるところはあります。
欲は、さらに満たしたくなります。それによって、様々な苦しみが寄ってきます。自分が人格的に向上している感じはありません。欲に溺れて堕落していくように感じるはずです。依存性もあります。さらに、欲から起こる喜びは長持ちしません。「かつては楽しかった」と思い出す時は、悲しみも起こるのです。
善行為の場合は別です。喜びは長持ちするのです。後で思い出して、「良いことができた」喜びのみ生じます。人格が向上するような気がします。その喜びは苦に変わりません。
というわけで区別するポイントは、善行為から起こる喜びは長持ちすることでしょう。
タオイズムと仏教
中国の仙人たちは、最終的にはタオ(道)の世界と合一することを目指して修行しているようですが、そこには存在に対しての執着、渇愛などの煩悩があるような気がします。タオ(道)の世界とは、仏教でいう色界、無色界と同じような世界なのでしょうか?
人間に理解できる、思想、哲学、理論などは、他宗教と比較することはできますが、神秘体験、宗教体験などについては難しいのです。主観と主観の比較はしないほうがよいのです。しかし、お釈迦様は、調べる方法を教えられているのです。
先ず、こころの汚れのことを教え、それから修行によってこころのどのような煩悩がログアウトになるのか(どの煩悩から離脱するのか)ということを教えるのです。お釈迦様は、宗教的見方ではなく心理学的な見方で説明なさるのです。
そのような、相手の神秘・宗教体験そのものの真偽とかかわりなく、結果としてどの程度こころが清らかになったのかが調べられます。しかし、本人に聞かなくては分からないことですね。
もし、こころの状態を分かれば、禅定のどの位置に達しているのかと言えます。
タオの教えでは、こころの汚れについて明確に語られていないのです。しかし、自我が絡んでくるとややこしいことになるのだということを理解しているようです。タオとは自然と一体になること、エゴを控えることなので、そこまでは評価できます。
渇愛などは発見されてないから、修行で渇愛がなくなるか、そのままかよく分からないのです。禅定など人間の認識範囲を超える経験があることは説かれてないから、発見もしてないのではないかと推測できます。
要するに、知識、理性をギリギリまで上げてゆくことでしょう。タオの仙人とは、桁違いの哲学者ではないでしょうか? 中立的に判断するならば、言えるのはここまでです。
色界か無色界かと判断するためには、その仙人のこころの中身を知る必要があるのです。仏教の見方で判断すると、煩悩を滅尽する方法は、仏教以外には説かれていません。そのような教えは、世の中にないのです。しかし、修行で何かの境地に達することなら、他宗教でも説かれているのです。
それは執着を残りなく、根こそぎに取り除く話ではないので、真の解脱ではないのです。
二因心と三因心
『ブッダの実践心理学4』を読みました。『アビダンマッタサンガハ』に説かれた二因心・三因心といった概念の説明に、「二因心で生まれるほとんどの人間は、いくら修行しても禅定も悟りも得られないと生まれつき決まっている」というような説明があって、正直戸惑いました。どう考えればいいのでしょうか?
アビダンマッタサンガハは、10世紀中頃にアヌルッダ長老がアビダンマの概要を簡潔にまとめた網要書です。便利なので教科書として使われてきましたが、『ブッダの実践心理学』シリーズでは、その内容に不合理な点があれば批判しています。あくまで「経典に説かれた釈尊の言葉が第一基準」という立場でアビダンマを論じているのです。
アビダンマッタサンガハの二因心・三因心の記述は、悟りに向かう心がどのようなプロセスで生まれるかということを説明するところで出てきます。アビダンマの後期のテキストでは、心が生滅を繰り返して三世にわたって相続されることを説明するため、経典にはない結生心、有分心、死心という概念が発明されました。さらにアビダンマ・テキストを註釈した学僧たちは、修行しても悟る人は極端に少ないという現状を説明するために、生まれつき智慧の生まれない二因結生心の人と、智慧の生れる可能性のある三因結生心の人がいる、という説明を付け加えました。そうやって学僧たちが、経典の教えにどんどん新しい概念を付け足したことで、「誰でも修行すれば悟ることが可能」という仏教の基本から脱線したのだと思います。
そういうわけで、二因結生心・三因結生心の話は、アビダンマにおいて重要視する必要のない論点かもしれません。しかし、「アビダンマは生命のこころのはたらきをありのままに解明しようとする学問」という立場で考えてみましょう。社会を表面的に見ると、知識に優れている人々は少数派になります。こころ清らかにすること、精神の上達を重大な問題にする人々は、なおさら少ないのです。もしこの二種類の人間が三因結生心だとするならば、少数派になります。他の人間(二因結生心の人間)が多数派になります。
しかし、断言は禁物です。知識能力があって生まれても、それを花咲かせる条件に恵まれない人もたくさんいるのです。名誉・財産よりは清らかなこころが重要だ、と思う人もたくさんいるかもしれませんが、彼らがそれなりの教育を受けられる環境で生まれなかったら、その花は咲かせられません。そういうことなので、私は個人的に、同じアビダンマの教えにもとづいて、安全な結論を導き出します。二因結生心か三因結生心かという区別は、慧根(paññā)心所が生まれるか否かで決まることです。人間の中で、知能指数が標準よりきわめて低い人を除いた大多数の人々は、上を目指して努力すればよいのではないか、ということです。
それでも、注意が必要です。俗世間の知能指数の判断基準は、仏教の知能指数の判断基準と同じではありません。世間的にいくら無知扱いされても、無常を発見できる能力、愛着・欲が少ない性格の人は、仏教から見れば、決して愚か者ではないのです。すべては無常であるし、また、因縁によって生じるものでもあります。それは、ブッダによって発見された絶対的な真理です。その真理に基づいて、たとえ二因結生心で生れても、精進さえすれば次から次へと心が成長するはずです。無かった智慧が現れるはずです。ですから二因結生心の人は覚れない、と決めつける必要はないのです。