あなたとの対話(Q&A)

親類の自己破産、殺生と釣り好き、悔恨の気持ちを乗り越える

パティパダー2010年6月号(154)

・親類の自己破産
・殺生と釣り好き
・悔恨の気持ちを乗り越える

親類の自己破産
 義理の親戚が自己破産しそうになっています。身内としては、どう接すればいいでしょうか?

 対応は親戚関係によって区別して考えなければいけないのです。親戚はこのように分けることができます。1両親、2兄弟(姉妹)、3伴侶、4自分の子供、5その他、です。これは責任の順番で言いましたが、実際の人々は、4の子供を優先するのです。子供とは、自分が育ててあげる存在です。独立できるようにしてあげたら、親の責任が終わっているのです。それからも親が世話を焼くならば、それは感情であって、健全な状態ではないのです。1の両親の面倒を見る義務は、欠かせないのです。次に来るのは兄弟姉妹ですが、兄弟というものは、よほどの問題に遭遇しない限り、自分の兄弟に助けてくれと言わないのです。兄弟とは、変えることができないのです。また、自分の両親が自分と同じく大事に育てた人々なのです。親に対する敬意としても、兄弟の心配をする義務があるのです。失礼に思うかもしれませんが、3の伴侶は、気に入らなかったら変えられるものなのです。しかし伴侶とは二人三脚の生活なので、親戚という範疇には入らないかもしれません。夫や妻の面倒をみることは、自分の面倒をみることでもあります。
 
 この親戚関係を理解した上で、我々は親戚が困ったらどのような態度を取るべきかと判断しなくてはいけないのです。理論的に言えば、どんな人でも、他の生命でも、困っている時は助けてあげることが道徳行為になるのです。しかし、それは助けてあげることができるならば、の話です。助ける力もその方法も自分にない場合は、「よくなって欲しい」という気持だけで済ませなくてはならないのです。この態度を私は「放っておく」という言葉で表現したいのです。助けられる能力もあって、困っている人も複数いる場合は、優先順位が成り立ちます。この場合は、相手が親戚であるならば、優先になるのです。親戚が困っているのに、赤の他人の面倒を見るというのは、一般的にも称賛される行為ではないのです。これでシステムは理解できると思います。
 
 それから、問題について考えてみましょう。義理の親戚が自己破産寸前ということです。では自分に助けてあげることができますか? できないならば、上に言った、「放っておくこと」です。他宗教の道徳では、自分がダメになっても他人を助けることが正しいと言うような話があります。しかし、自己犠牲は仏教ではいちがいに道徳と思っていないのです。場合によって、道徳ではなく愚かな行為になる可能性もあります。自分ひとりが犠牲になっても、たくさんの人々がそれによって助かるならば、道徳行為になるのです。一人が死んで一人が助かる行為では、プラスマイナスで結果はゼロになるのです。
 
 ですから、自分の家族、両親、兄弟などを不幸に巻き込みながら、親戚を助けることは、正しい道ではないのです。義理の親戚であるし、自己破産から救ってあげる能力もありません。それなら、放っておいて下さい。それでも親戚なので、何か迷惑なことをやっている厄介者扱いはやめた方がよいのです。何も起きてないような感じでふつうに接することです。自分に消すことができない炎に飛び込んでも、意味がないのです。自分に消すことができない炎は、消防士に任すでしょう。自分は冷静を保って、見ていればよいのです。ですから、仏教からの答えは、「放っておいて下さい」です。
 
 ついでに言いますが、仏教は借金することはすごくだらしないことと考えるのです。新しい商売をはじめるために銀行から金を借りて融資を受けるのは認めます。意欲と能力があって頑張る人には協力すべきだし、それが社会全体の幸福にもつながります。しかし、ただの借金は、仏教ではまったく認めていないのです。
 
 我々一人ひとりに経済を自己管理する能力が必要なのです。我々一人ひとりには何とか収入があります。自分に入る分で完全に生計を立てないといけないのです。自分の収入ではコンビニ弁当しか食べられないのなら、無理してレストランに行ってはいけない。自分の能力範囲はここまで、と堂々と認めて生きることです。
 
 逆に、毎日贅沢しても構わないが「その金は自分で払いなさい」ということ。自分ひとりで苦労した人は、結構うまくいくのです。周りも応援したくなる。逆に周りの人にたかってばかリいる人は、煩いやつだなぁと思われる。周りも「この人に成功して欲しい」という気持ちにはならないのです。
 
 仏教は、はっきり言えば究極の資本主義みたいなところもあるのです。自分の力で頑張りなさいと説いているのです。自分の生きる能力は業として相続しています。人間で生まれたなら、その業で楽々と生きていられるはずなのです。社会全体が混乱しているならともかく、それなりに安定した社会で、その人だけが不幸になっているというのはどこかおかしい。きちんと自分の業を管理しているのか、という問題を考えるべきです。
 
 何か問題があっても、自分の業があるから何とか立ち直れるはず。人から恵んでもらうことを期待すると、自分の善業を壊してしまいます。我々は業の管理を勉強しないといけない。それは、節約して、清らかな心で怒り憎しみを持たず、周りの人々を助けてあげながら、バランス整えて生きることです。
 
 それで人間関係、家族関係もよくなります。我々一人ひとりが、経済能力を持って生きないといけない。俗世間で言っている経済能力はデタラメです。世界経済を混乱に陥れて、国の経済を破壊して責任も取らないで開き直っている。それは経済能力とはいえないのです。世界経済は、極端な愚者に管理されているのです。
 
 自分が安らいで楽に生きられる程度に金があればいい。「いくらでも金があればいい」というのは仏教経済学から言えばとんでもない話です。金の量ではなく、金の管理が重要なのです。管理出来る範囲で金を持つことで幸福になれるのです。
 
 覚えておいて下さい。通帳の残高は重要ではないのです。自分がちゃんと管理しているか、マネジメントしているのか、ということが重要なのです。それができていれば、誰でも豊かなのです。マネジメント能力が上がると収入レベルも上がっていきます。
 
 自分の収入をいかに管理して幸福に生きるのか、ということを考えてほしいのです。

殺生と釣り好き
 仏教では殺生はいけないと教えているそうです。自分はずっと魚釣りが好きで、釣りを楽しんできました。それは、仏教的にはどう考えればいいのでしょうか?

「生命を殺して楽しい」と言うのは、恐ろしいことではないですか? もし誰かが、「人を刺し殺すのはけっこう刺激的で面白いよ」と思ったらどうしますか? 殺すことを楽しむのは、恐らく人間だけでしょう。獲物を取らないといけない動物も、楽しい、という感覚はないのです。生きるために仕方なしにやっているのです。
 
 人間だけがどうしてそんなに「立派」なのでしょうか? 人間は「殺すのが好きだ」と堂々と言うのですね。戦争のように、大量に人を殺すためのシステムまで作っている。やっぱりそれは、本当の楽しみではないのです。生き物を殺すことよりも、苦労して生き物を助けてあげることが楽しいのです。簡単に草履で虫を潰すことは楽しくないのです。
 
 それにしても、日本人の釣り好きって何なのでしょうか?「釣り文化があるから釣りは正しい」とは言えないのです。TVでも釣り番組が多いけど、すごく品がないと思いますね。私は動物を殺したことはないし、間違って虫でも潰しちゃうと、何ということかと、悲しい気持ちになりますよ。
 
 私の母が教えたのは、「なぜ(人と魚と)役柄を反対にして考えないのか?」ということです。自分が魚になって、人に釣られることをしっかりとイメージしてみて下さいと。どんな気分かと。例えば殺すことが楽しいとしても、だから他人が殺されるべきですか?
 
 アメリカのように鉄砲が自由な国では、当然、射撃場で練習する。練習すると楽しい。では、本人が楽しいからと人間をピストルで撃つべきですか? 本人が楽しいから正当化すべき、という理屈はどうしても成り立たないのです。人間が肉や魚を食べているとしても、だから殺せという理屈にはなりません。
 
 現実、事実があるから殺すのは正しい、という理屈は成り立たないのです。できればその楽しみ(釣り)は止めた方がいいと思います。後が恐ろしいのです。生命を殺すたびに、自分が生きるために必要な生命力がなくなっていくのです。他の生き物の命を取ったのだから、健康と寿命にはかなり響くのです。
 
 他の命を取る度に、自分の命が伸びるのではなく、減っていくのです。これは、人間が肉魚を食べてはいけないという話ではありません。肉、魚を食べたからといって殺生にはならない。しかし、誰にも生命を殺す「権利」はないのです。世界が仏教になって誰も殺さなくなったら、自然に肉魚を食べなくなりますが。
 
 肉魚を食べる人が減れば、野菜の栄養分があがるのです。世界は心とともに変化していくのだからね。仏教は、すべての生命には生きる権利がある、という立場で語っているのです。
 
 人間はいろんなことで刺激を求めます。楽しみではなく刺激なのです。楽しみというのは品格よく上品であるべきです。麻薬やらアルコールやら賭博、うわさ話、ムダ話、悪口、あれって楽しいでしょうか? 麻薬中毒と同じなのです。自己破壊すると、かなり刺激的なのです。それは知識、思考がおかしいからやっていることです。
 
 品格ある楽しみはたくさんあるのですが、性格的に品格のない、破壊的な刺激に耽ってしまう人もいます。子供の頃からそういう性格は見える。白い壁をみると放っておけなくて落書きしてしまうとか。落書きする人はほんと、楽しいと思います。だからといって法律を作って落書きの自由を認めるべきでしょうか? 人はいろんな事を楽しいと思うけど、そこで立ち止まって考えるべきです。「それで本当にいいのか?」とね。

悔恨の気持ちを乗り越える
 私は七十代の男性です。最近、死のことが頭から離れません。これまで自分がしてきた数々の悪いことを思うと、取り返しのつかないことをしてしまったと言う悔恨の念が耐えがたくのしかかります。かと言って、これらを償う方法もありません。このままでは、「自分の人生これで良かったのだ」と思って安心し、満足して死ねない気がします。臨終の時にどんな心構えでいたら良いか、お教え戴きたく、よろしくお願い申し上げます。

 道徳的にも完全な人はあり得ないのです。大事なポイントは、自分の悪行為に気づいたのはいいですが、これから自分を改良する気持ちはありますか、その努力をしますかということです。償いなどといった、あり得ないことを妄想してもこころがさらに汚れてしまうのです。償いが出来ることなら、それをするのは当たり前ですが(例えば、被害者に謝罪したり、損害賠償したりなど)、それだけで罪は消滅しません。自己改革、改良、こころの成長などが必要です。
 
次のことにチャレンジしてみて下さい。
・余計な妄想をやめて、その代わりに(一日中でも)慈悲の瞑想を行ってください。こころが清らかになります。死を、死後を、心配することが消えてしまいます。明るくなります。
・できるかぎり、人々に優しく接したり、助けてあげたりしてください。
・善行為の中で「智慧」は最高位なので、初期仏教を学んでみてください。

三宝のご加護がありますように