植物人間①:生の定義
私は印刷職人でしたが、昨今の出版不況で廃業。妹が重度身体障害者で介護経験がある事もあって、介護職に転身し、公立特別養護老人ホームでケアワーカーとして勤務しています。
特別養護老人ホームとは、常時介護が必要で在宅生活が困難な寝たきり老人を入所させて、日常生活上の世話を行う福祉施設です。2000年4月施行の介護保険制度以前は、措置(行政の権限による強権発動)によって入所が決定される事もあって〝現代の姥捨て山〟との陰口も聞かれましたが、社会的に居場所のない老人の受け皿・終の棲家として、一定の役割を果たして来た事は確かです。
しかし介護保険施行以後は、国家財政逼迫の影響で施設経営の効率化が求められたため、教養娯楽費のカット・職員のリストラによって、入所者に提供できる介護サービスは必要最低のものに限られつつあります。そのような情勢下で入所者は、寝たきりで、出されるものをただ食べて、オムツを替えてを繰り返すだけの日々を余儀なくされており、余生を充実感をもって悔いなく生き切るという理想とはかけ離れた現実を目の当たりにして、介護者としては、人の生きる意義について疑問を抱かずにはいられません。
とりわけ重度痴呆によって意思表示ができず、栄養も自力摂取できずに経管(チューブ)摂取で露命をつないでいる方に身近に接すると、これでも「生きている」と言えるのか、との思いに駆られてしまいます。栄養を注入すれば肉体を維持しようとするメカニズムが働くのだから、生命活動が認められる事は確かです。従って本人の意思・精神活動の有無に関わらず、ただ生きている事自体に存在意義がある、また私に自分が生きる事の意味を省みる契機を与えてくれたという一点でも、その存在に価値があると考えるようにしているのですが。
脳死の植物状態にある患者で、人工呼吸器等で肉体の維持のみを図っており、自力で「生きようとしている」とはいえない場合も、「生きている」とみなすべきなのでしょうか。こんな疑問が生じるのは、自由意思をもって生産的に精神活動する事に価値を置き過ぎて、それだけが「生きている」証だと狭量な考えを持っているからではないか、と自問自答しています。
「テーラワーダ」では、植物人間は「生きている」と考えるのでしょうか。
生命とは何ですか?
仏教では存在を物質(ルーパ)とこころ(ナーマ)という二つの働きに分けています。
無限の宇宙を構成している物質について科学の世界でよくがんばって探求しています。仏教でも人の解脱に必要なところだけ説明しています。
こころという働きが生命、いのち、魂、霊魂、SPIRIT,LIFE,SOULなどのことばで世間でよく知られている「生命」です。引いて言えばこころの働きが生命です。
☆: こころという働きが物質を媒介して機能しているとき「からだを持っている」生命になります。
☆: 物質を媒介しないでこころのみ機能する場合もその働きが「生命」です。身体を持たない生命とは特別なレベルです。こころのエネルギーを最高位まで育てたときのみ可能です。専門用語で「無色界」といいますが、またレベルも四つあります。瞑想の究極の達人でないと経験できないレベルなので「極めて稀なケース」だと理解してもかまわないと思います。
普通に生命は身体を持っています。(神も、霊も、いるならば幽霊も、お化けも、鬼も、他の云々も。)
こころが身体という物質を通して機能してこころに刺激を与える。この刺激によってこころという機能が回転するのです。(回転といってもある一つのものが回転するわけではなく、生、滅、生、滅という流れ、波、波動が起こるのです。)
外からの刺激がなくてもこころは自分で自分を刺激させることもできるのです。ですから無限にこころは回転することが出来るのです。(用語:輪廻)
生きるということの意味は「こころが刺激を受けて限りなく回転する」ことです。
繰り返します。
生きるということは只、こころが刺激を受けて回転することです。
こころにとって刺激であれば何でも良いのです。貪りでも、怒りでも、無知でもかまわないのです。怠けないことでも、施しでも、慈しみでも、知識でもかまわないのです。しかし、貪瞋痴は努力しなくてもついているものだからその方から刺激を受けるのです。
こころが刺激を受けて流れるだけのことだから輪廻のなかでいくら長い間、生まれ変わりを繰り返しても成長、進歩、発展ということがないのです。天に生まれようが、地獄に落ちようが、刺激は「楽」か「苦」かだけの違いで、所詮輪廻の中で回転していることには違いありません。
こころとは何ですか
認識する働きはこころと言います。
これを説明するために私はこのような例えを使います。わたしの前に机が一つあります。それで、こちらに私もいます。机と私の身体がただの物質です。地球の物質から生まれたものです。全くも同じです。
しかし、私の場合何かが違うのではないかという気がします。
その違うところをリストアップしてみましょう。
机が自分のことも回りも認識しない。私は認識する。
机が壊れたら自己修理しない。わたしの身体が壊れたら自己修理する。
それで、私は食べる、動く、感情を持つ、考える、寝るなどもする。私の体の物質は次々外へ逃げていく。わたしは換わりの物質を入れる。などなど沢山の機能があることが分かってくる。無数にあるけれども、まとめて言えば「私は生きている」、「机がただの物体です」ということになる。食べる、歩く、怒るなどの全ての生きる機能が「認識する」という一つの言葉にまとめられる。認識さえしなければ生きる機能がひとつもないのです。
ゆえに、「こころ」はただの機能であって「もの」ではありません。
人間だけありがたいか
認識機能が生命(いのち)とするならばミミズもゴキブリもアミーバも人間も同じことをやっているとわかるのです。微生物も同じです。
高層ビルを建てる人間がミミズより偉いのですか。ミミズに高層ビルは要りません。ですから作らないのです。造れないのです。でも必要だから土を掘るのです。人間にも「アリ塚」を作れないのですが、宇宙船なら造れるのです。それは必要とするからです。空を飛べると言って鳥が威張ることも、水の中で生活できると魚が威張ることも(やってはないが)馬鹿馬鹿らしいし、人間が自分たちこそ高等だと勝手に思っているだけで、もっとアホらしいのではないかと思います。
こころが身体という物体を媒介して刺激を受けています。(=生命)。このポイントにおいては一切の生命は平等です。またそれぞれのこころがそれぞれの身体を通して違う刺激を受けているのだから全く同一といえる生命もいないのです。アリ2匹でも違う生命二つです。
「テーラワーダ」では、植物人間は「生きている」と考えるのでしょうか
植物人間という概念は現代技術進歩が生み出したものです。テーラワーダ仏教にはそれほど関係ないかもしれません。初期仏教の立場から説明できないものでもないのです。以上述べた生命の定義に基づいて考察しましょう。
こころが何かの物体を媒介して刺激を受けているならば正真証明の生命です。生きているのです。見る、聞く、話す、考えるなどのこころの一部の機能がなくても生きていることには変わりありません。(と思います)。ミミズも微生物も考えたり話したりしないが外の世界を自分の意志で認識して、自分の意志で生きているのです。
人間の場合は自力で生きていられないとき機械を使って強引に生かして上げるのです。いわゆる他人が他人の意志で強引に死なせないのです。
基本的にはいかなる生命でも、自分の力で、自分の意志で生きるべきだと思います。
身体を持つ生命は他人の力、協力がなければ絶対生きていられないという事実があります。しかし、こころが自力で刺激を受けるべきです。
技術進歩のジレンマ(dilemma)
なにか新しい技術を開発したならばそれを使わないで人が死ぬまで待つ訳にはいけませんね。人に使用するために開発する技術です。風邪に効く薬を開発したら、それを風邪を引いた人には上げないと決めたらどうなることでしょう。ですから呼吸困難に陥ったら機械に入れる。摂食できなくなったら管を入れる。
将来性がある人に機械を使うが、あとは長くない人には使わないと決められません。決めるべき瞬間で患者二人もチャンと生きていますから。だれの後が短いかもわかりません。ですから医者は勝手に死ぬまで何でもやるのです。結果として完全他力に依存して死ぬことも出来なくて、その自由もなくなってしまうこともよくあることですがそれは医者が知ったことではありません。親戚に患者を死なしてくれと頼むことも権利のない話です。殺生の罪にもなってしまうのです。
技術進歩の恩恵を散々受けながら、「技術さえなければ良かったのに」とも言えないのです。人生はどうがんばっても苦で始まり、苦で生きて苦で終わるという仏陀が説く真理は変わらないのです。
老化の問題、痴呆の問題などについて
人間は道徳を実践するべきです。「私さえよければいい」と言う悪魔的な生き方は当然良くないのです。
人はだれでも老いるのだから、先輩たちに親切に接することは当たり前です。もしそれは「嫌」と思う人がいれば精神異常者です。
とにかく人が自然に死ぬまで親切に、慈しみで、感謝の気持ちで面倒みることが正しいのです。
「生きることはいかに無意味で、無念で、苦の続きであるのか」と観察しながら看病をすると智慧が発達して看病する人を解脱へ導かれますからこの上無い有り難いことです。寝たきりには生産力がないから「何で生きているの?」と思うこと自体があまりにも間違いです。元気な人々も何かを本当に生産しているのでしょうか。生産したからといってどうにかなるのでしょうか。ほとんどおもちゃ遊びではないでしょうか。
痴呆の人々のことを親切にしてあげて忍耐と慈しみを育て見ましょう。
我々も痴呆にならないように瞑想でもして智慧の開発しましょう。
貪瞋痴が全ての問題を作り出しますので貪瞋痴をなくすほうへ努力いたしましょう。
人の生きることの価値について云々と考えるのはおかしいです。自分に生きる価値があると錯覚してそうするのです。生きるも死ぬのも、そのそのこころの自由意志で起こる出来事です。(この自由意志も結局は無知ですが)。我々はただ、ひたすら、一緒に生きている仲間の面倒を死ぬまで見て上げる。他人の生に対して余計な口も思考も手も出してはいけないと思います。(いのちの尊厳という訳もわからないことばを使いたくはないが、働きとしてみると同じことです。)
姥捨思考も自己利巧主義で恐ろしいです。苦労しながらでも、損をしながらでも人生の先輩の方々の最後を平安で過ごせるようにしてあげることは道徳です。
三宝のご加護がありますように。
Sumanasara