あなたとの対話(Q&A)

仏舎利について

約一週間ほど前、台湾のニュースに星雲和尚が再び「中国の佛舎利を台湾に持ち込んで展覧するつまり」という記事があり、この催しは中台禅寺の惟覚と星雲が委員となり、星雲は委員長になりたがっているということでした。
記事によると、舎利は釈迦の指で、「玉のように白い」とありましたが、私が以前に調べたところ、お釈迦様の舎利がそんなにたくさんあるわけがないし(8個、うち7個はインドにある)また中国はバイブルを密輸入した廉(かど)で明日ホンコンの商人を死刑にするなど、けっして宗教に熱心な国ではないし、過去に於いて文化革命で宗教は迫害され、寺や和尚は追い払われた経緯があるのに、今になってからお釈迦様の指がでてくるなど、非常に疑問を覚えます。こういったことが本当なのか、真偽を確かめたいのですが、どなたかお教えしえいただけないでしょうか。

疑問に思われているところは私も「具体的な論理だ」と思います。
ものは本物かと偽物かとちゃんと調べるべきです。
台湾の件については私に何も申し上げられません。「疑問だなぁ」と思ったら手を引いた方がよいのではないでしょうか。信じたい方々は信じるのはそちらの自由ですので、人々の人権を守って黙っていましょう。

* 仏舎利について
Pāli経典を参考するとお釈迦様の骨はすべて残ったのです。八個ではないのです。
それは、八部にDoṇaと言う人が分けて八つの国々にあげたのです。
分けたバラモンの人が舎利を計った壷をいただいて仏塔を作りました。
王様達がそれぞれの国で仏塔を作ったのです。結局は仏舎利に関連あるできごとはすべて国家行事でした。

壷と訳することばの元のPāli語はtumbaです。Tumbaは穀物を計るときの単位です。Tumba一つを計るために使用する枡にもtumbaと言います。(枡は1合より大きいと思います。一升より小さいでしょう。私に言い伝えされた先輩たちの言葉をいうと、普通のtea cup二つぐらい枡に入るそうで。…あてにならんか…)。
お釈迦様の骨はすべて燃えて灰にならないで残ったことは特色として書かれています。普通の人間のからだでしたから、舎利は八tumbaというのは全くも珍しいことではないのです。
八tumbaといったのは私の間違いで、実は経典を見ると八部に分けたので、使った計りはtumbaでした。一部にtumba一つか二つか1.5かなどはわかりません。
BC3世紀に現れたEmperor Asokaがその仏塔がすべて壊れていることをみて、発掘して新しい仏塔をたくさん作ったのです。法門に合わせて84000だそうです。
当時<一部>に当たる量の仏舎利をスリランカもいただきました。当然ながら一つの仏塔にあるのは、ほんの僅かな仏舎利一粒ぐらいです。

経典の注釈書に仏舎利はマスタードの種ぐらいに小さい粒になって残ったと書いてあるのです。私が見たものもやはりピンセットで取れるぐらいのものでした。
粒にならなかったものもいくつかあると注釈書に記してあります。
4つの犬歯、顎の一部、胸の前にある方を支える骨二つ、額と、のどぼとけです。(テキストは手元にないので間違いもあるかもしれません。)そのその舎利がどこの仏塔に安置しているのかは決まっています。

Authenticity-確証
これは本当に難しい。ほとんど仏塔のなかにあります。
今も礼拝して大事にしているところですので発掘は不可能です。壊れたら修復するだけです。
インドではAsoka帝王に作られた仏塔などを発掘したところで、名前を書いた舎利容器がでたのです。そのときは中身は学問的に認められます。そのような仏舎利もあります。インド政府からいただいた発掘された仏舎利はスリランカにもあるのです。
それから、お釈迦様の教えに従って阿羅漢になった僧侶がたの舎利も仏舎利と同格で拝みます。
阿羅漢は個人名を残さないので、結局「舎利」になってしまうのです。
おなじく、大事に拝むものですので、仏舎利になってしまうのです。スリランカ人ならそのことを良く知っています。ですから、「舎利の量は多すぎでは?」と言われると、「まぁ、阿羅漢の舎利も混じっているからね、どちらにしても尊いものですよう」と返事するのです。

SāriputtaとMoggallāna両尊者の舎利はスリランカにあります。
確かなもので、インドからのいただき物、発掘した舎利容器に名前があったのです。たまに展示する場合もあります。
とりあえず、仏舎利はやたらにあるものではないのです。
どんな人の手に入るものでもないのです。たとえイギリス博物館にあるとしてもスリランカのような国が文句を言って返してもらうのです。スリランカのお寺にもあることはあるのですが、仏舎利か、阿羅漢舎利かはわかったものではないのです。古い仏塔には本物が恐らくあるでしょう。

ここだけの話:
ですが、スリランカの仏教徒は中国に仏舎利あるとは信じてないのです。
人の信仰にケチをつけてはならないのだから、「仏舎利」といわれたら拝むことはするのです。

23年ほど前にNepal で発掘を行われたところで、壷に「釈迦の骨、親族が安置した」と書かれた骨壷が出たのです。「これこそ釈迦尊の舎利だ」Nepal は大騒ぎ。(まぁ、インドに抵抗でしょう)
私がそれをみたのですが、人骨には違いなかったのです。でも、スリランカの学者も、信者も認めたくはなかったのです。
1.すべての骨は一箇所に集まるわけがない。
2.分配されたことは確か。
3.Asoka王のことは学問的に確証を得られている。
4.釈迦民族は皆、釈迦といいます。釈迦族の偉い人の骨かもしれませんが、釈迦牟尼仏陀の骨という証拠はありません。などなどの、理由でした。
仏舎利をこの上のない尊いものだと信仰する人々の信仰に乗りあがって商売する人々も少なくないのです。
以上

Sumanasara

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