悟りの後・慈悲の瞑想は欲にならないか?
1.「悟り」の体験をすると、その後は、元に戻らないとうかがいましたが、いったん「悟り」を迎えれば、その後は、極端な言い方をすれば、ヴィパッサナーは必要ないということでしょうか?
2.「慈悲の瞑想」と「ヴィパッサナー瞑想」は矛盾しないのでしょうか? つまり、「~ように」と言う言葉を唱えるということは、「欲」にはならないのでしょうか?
> 1.「悟り」の体験をすると、その後は、元に戻らないとうかがいましたが、いったん「悟り」を迎えれば、その後は、極端な言い方をすれば、ヴィパッサナーは必要ないということでしょうか?
「修行終了しましたvusitaṃ brahmacariyaṃ、なすべきことはなし終えたkataṃ karaṇīyaṃ」といっているのです。
試験を合格したなら、又受験勉強するのでしょうか。さらに、合格者が受験勉強しないからといって馬鹿になるのでしょうか。怪しい例えですが、だいたいの意味ぐらい理解できると思います。
> 2.「慈悲の瞑想」と「ヴィパッサナー瞑想」は矛盾しないのでしょうか? つまり、「~ように」と言う言葉を唱えるということは、「欲」にはならないのでしょうか?
矛盾はありません。欲にもなりません。慈悲について書いてあるところを斜めでもいいから、少々お読みなれば私は楽だと思います。
「見返りを期待しない優しさはどのように欲になるのかとこちらが教えてもらいたいのです。
慈悲のこころがなければ、この世でvipassanāも語れません。(無知で、頑固で、我侭で、苦しんでいるのにも拘わらず認める勇気もない、理解もしようとしないのに反対だけをする、思考はあべこべで、善は悪だと、悪は善だと誤解している、聞く耳さえも持ってないこの俗世間の人々に眼が覚めるように語ることは楽だと思って欲しくない)
「欲」になるかならないかはそのその人の主観の問題です。慈悲の問題ではありません。欲の人はこれも一つの商売だと思っているかも知れません。それは清らかな慈しみではないので、決して自分にとって良い結果も(心の安らぎ)得られないと思います。
「唯、相手が幸福になれば、充分です。それで終わりです。」と言純粋な気持ちは慈しみです。
虫歯で苦しんでいる人には煎餅を食べると痛くてたまらないのです。だからと言ってケーキを食べても痛いのです。悪いのは煎餅でも、ケーキでもなく食べる人の口の中です。したがって、慈悲は欲になりません。
Sumanasara