パーリ語仏典の法無我について
パーリ語仏典・論では、法無我について、どのように説かれているのでしょうか?
とくに説一切有部の三世実有・法体(自性)恒有との同じ点と異なる点に関連づけて典拠となる典籍名ともども教えていただけたら幸いです。
仏教の世界の中には色々と「論」があります。
「五蘊は無我ですが法は無我ではない」、「法は無我が三世実有です」、「小乗方は五蘊の無我を説きますが法の無我は解っていません」、「全ては無常だといっても輪廻転生するのはだれですか。ですから輪廻転生する pudgala-プドガラ(補特伽羅)が存在する」云々の概念のぶつかり合いは仏教の本来の生き方ではありません。真理を実証してから解るものだとブッダは実践を重視して語ったのに、暇をもてあそんだ仏教徒達が学識を笠に着てあらゆる議論を編み込んで世に出したのです。
しかし、議論を作って争うことは初期仏教では認めてないのです。それは俗人の道です。アリヤマッガ-ariya magga(聖者の道、仏道)ではありません。私どもは身の程もわきまえず、実践を重視したブッダの教えに興味を抱き、理解しようと努力しているものなので、以上述べたような部派仏教、大乗仏教の議論について興味、関わりなどを持つべきではないと言う立場になっています。
それでは、管轄外の質問について私見を述べさせていただきます。
「諸法が無我だ」と説かれています。(Sabbe dhammā anattā)しかし、それは後現れた 「法無我論」について語っているものだと思いがたいのです。すべてのものは無常、苦、無我であるという立場の話です。「法」という特別な概念を設定して「法論」を語る人々の「法無我論」よりは具体的な、実践的な考えです。後世で現れてくる様々な異論についてPāli聖典に何を語っているのかと聞かれても困るのです。(Dhammapada 277-279参照)
Pāli聖典では認識は目耳鼻舌身意と言う六根に入る情報に限ると思っているのです。
ですから形而上学的な概念はありません。神もいません。そのようなものはあると言っている場合も、それはその人の六根に入る情報に過ぎないと思っているのです。(長部経典の第一Brahmajāla Sutta)
目耳鼻舌身意に入る情報は色声香味触法です。意の対象は法です。意根であるものも、ないものも、なんでも考えられます。妄想も幻覚も作ることが出来ます。理論も、思考も妄想も意の対象です。これら一切をまとめて「法」と言っているのです。いわゆる、「ものごと」(phenomena)ということでしょう。この「法」と言う現象は無我ですので、無我ならざるものは何一つも成り立ちません。(色声香味触で成り立っている外界も五蘊で構成されている内界も無我であることはPāli聖典のどこにでも説かれてあります。出典はありすぎです。とりあえず、Saṃyutta Nikāyaの第三部Khandhavagga Saṃyuttaを適当に参照してみてください。)ですから「法無我」と言う形而上学的な概念を妄想して力まなくても初期仏教を知っている人は一切は無我であると具体的な立場で理解するのです。妄想概念を作って力む人も、その人の論説も無我であることも知っているのです。人が何かを考えたからと言ってそれが必ずも実体として存在する必要があると思っていないのです。
説一切有部
この方々が考えている「三世実有」論はPāli聖典に全くも異質なものです。私さえもさっぱりその意味は解りません。Pāli Abhidhammaでも諸々の法の本質、実質は何ですかと説明しますが、それは一つの法を別の法から区別して理解するための努力です。
しかし、全ての法は瞬間で消えて行くという立場ですので、三世実有思考とは関係がありません。(自性と言う言葉はAbhidhammaでも必ず使います。乳にそれなりの特色があってチーズには乳にはない自分だけ持っている特色があります。それが「自性」ということです。ですから、自性は区別認識の働きです。それは三世実有だと言われると乳はチーズになれないのでは?と思ってしまいます。)
説一切有部との同じ点は「自性」(svabhāva)と言う単語を使うとことです。異なる点はその自性は瞬間だけのことだと言うところです。
Pāli仏教では三世実有論は邪険だ、正見ではありませんと詳しく論じてあります。
Abhidhammaの中にあるKathāvatthuppakaranaと言うテキストの第五章-Sabbamatthikathāをお読みになってください。
Sumanasara