回向と随喜
パーリ三蔵では、回向と隨喜はanumodanaというただ一つの単語を使っているのでしょうか?
あるいは”自分の功徳を他にふりむける”という意味での回向を指す言葉を用いる際には、pariṇāmanaやそれに類する単語も使われるのでしょうか?
現在ではpattidāna, pattanumodanaなどのパーリ語の単語をそれほど区別して使っているわけではありません。
日常生活の中で、当たり前のごとく実行している教えなのでほとんどの仏教徒は仏教用語の学問的な、教理学的な意味、定義などは分からない、気にもしないと思います。
仏教を知らない人に紹介する時は伝統的な仏教徒はよく苦労するところです。
自分が積んだ功徳を他人にも分けてあげることは(常識な行為ですが)布施の一種でpattidānaになります。
このようにどなたかに上げた功徳を自分が受けることはanumodanaなのです。それは善行為の一つなのです。
功徳のやりとりだから一般の人は専門的な言葉で区別するよりそのとき気に入った言葉を使います。
功徳を分け合う行為は常に仲間同士で、善行為を行なうたびにやります。
そのとき、pattidānaもanumodanaも一緒に、ワンプレーズで(一つの文句で)やるので、区別などを気にもしないみたいです。
テーラワーダの先祖供養も常に仲間同士でやっているpatti-pattanumodana行為の延長行為です。
(しかし、相手は目の前にいないからanumodanaしたかないかはわからない。また、「相手の功徳も自分がこころより受け入れます、頂きます」という供養した側のanumodana行為もできません。だた、先祖にpattidānaするだけで終わります。)
加えて書きますが、仏教徒は先祖だけに限らず全ての生きとし生けるものに善行為するたびに、回向(pattidāna)します。
日常茶飯事で行なうことだから、pattidānaもpattanumodanaもまとめてanumodana行為と今、表現しているのです。
Pattidāna=功徳を他に差し上げること、与えること。
Pattanumodana, anumodana=他の功徳を頂くこと。
(他人の善い行為を見て、「善かった、素晴らしい、賛成します、共感します= sādhuと言うことでanumodanaになります。だから、辞書では「随喜」なのです。)
Sumanasara