感謝に対する疑問
よく感謝の心が大切だと言われます。感謝・感謝と皆(お坊さんとかですけど)が言うので、感謝について知りたいと思いました。感謝できない場合もあるのに、なんでみんな感謝しろと言うのかいささか押しつけがましく感じて、理由が知りたくなったのです。
http://j-theravada.com/kogi/kogi17.html
のところを見ました。無闇に感謝するというのではないのですね。しかし、苦しみの方が多い時に、小さな幸せでも見つけて感謝するのは難しいとも思いました。本当の感謝は仏にしかできないようにも思います。
一つ疑問が湧きました。講義の内容そのものはとてもよく分かったのですが、こういう幸せを見出す感謝と、苦諦とか、ダンマパダにあるような、この世は怒りと愚かさによって燃えているというような内容を、どうやってつなげたらいいのでしょうか? 確かに人間は身勝手で、人のためとか言いつつ怒っていたりもします。他人にそういう目を向けないで自分の心として見ようという意味だとは思いますが、やっぱり他人もそうかなとは思います。だからと言って、他人を責めるとか、開き直ろうという意味ではもちろんないのですけれども、感謝している心というのは、ちょっとしたことにでも感謝して「みんないい人だなぁ、ありがとー」みたいな感じとは違うのでしょうか? ちょっと例えが滑稽ですみません。
人間の愚かさや怒りを醜さを自覚すると、感謝することもあっても、そんなに感謝ばかりの日常は送れないような感じがします。戦争もあるし、喧嘩もあるし。あれは明らかに醜い面で、戦争もありがとうとは、特殊な位置にいないと思えないし・・。
人の愚かさやこの世の苦を見ることと、感謝をどうむすんでよいのかもう少し教えていただけないでしょうか? それとも感謝と言っても、しなくてもいい感謝を抱え込もうとしているのでしょうか
★これに対して仏教の定義、最低でも私が書いた定義が明白だと思いますが。感謝がお世話になった人にするものです。これもまた、生命に対する感謝なのです。というのは、例えば、太陽、雨、土、植物などのお陰で生きていることは言うまでもない。太陽、雨、大地、森などに感謝して悪い訳ではないが、それほど意味があると思いません。自然を守る、最低限で利用する、破壊しない等の行為で十分だと思われます。やっぱり、感謝は生命にするものです。お世話になった人にするものです。
★何故でしょうか? 樹木に川に、大地に感謝したからといって、自分の人格が向上するかはわかりません。もしかするとその人は人を憎しむ、生命に不親切な人かも知れません。社会は嫌いだ、人間は嫌いだと行って田舎で、一人で生活する人のことも知っています。しかし、川にさえ感謝する、樹木に、草花にさえも感謝する人は違います。
★夕飯を食べて、お母さん、お父さん有難うと言える子供は立派な人格者になれないと思いますか?
ですから、例え僅かでもお世話になった人、助けてくれた人に感謝をするべきです。感謝で、お返しして貸し借り無しとチャラにした訳ではありません。自分のこころを育てる為の習慣なのです。感謝をするという良い習慣が身に付いた人は幸福でいられることは、周りも幸福にさせることはくどく言わなくとも分かるものです。
★苦しい時、悩みがある時、誰かに感謝したからと言ってその苦しみ、その悩みが消えないと思います。感謝できる相手をみつけたならば、一時的にその苦しみは忘れることはあるかもしれませんが、それは話題を変えると言うやり方です。解決ではありません。悩んだり苦しんだりする場合は、「何故悩むのか、原因は何なのか」と観察するべきです。自分が、要らんことを粘り強く妄想し続けることが原因だと発見出来ると思います。
★またこのような話しもあります。あなたのこの苦しみ、この不幸、この悩みはあなたの為に神様、仏様が与えた者です。神に仏に感謝してその苦しみに向き合えば、またそのまま受け入れれば、きっと幸せになる。このようないい訳はどうかなぁと思います。ポイントは苦しみに、不幸に自分がどのようにアップローチするのかです。苦しみから学ぶ、苦しみを乗り越える、落ち込みをしないで勇気を持つなどのアップローチであれば良いのではないかと思います。もし成功すれば神様ではなく、自分自身の勇気を讃えて自分に感謝すればいいのではないでしょうか。
★感謝は助けてくれた人に、生命に、お世話になった人にするものですが、それは総ての生命は善いものだと言う意味ではありません。皆煩悩で汚れているのです。皆間違いを犯すのです。他人に協力ではなく迷惑を掛けるのです。わがままなのです。なのに、「私に協力してくれた、私を助けてくれた。だからこころから感謝します。」
総ての生命に対して慈しみを育てるのです。「生きとし生けるものが、幸せでありますように。」これが、感謝するよりも大変立派な善行為なのです。修行なのです。
★戦争したり、他人を破壊したりする人々に哀れみを持つのです。彼らが、無知の上で、「これが幸せになる道だ」と誤解して他を殺す道を選んで、他人にも自分にも不幸をもたらすのです。どうか幸せになって欲しい、怒り憎しみ、恨みが消えて欲しいと憐れみを育てなさいというのは仏教的な見方なのです。「戦争する人々は、テロ行為をする人々は嫌だ」と世の中の不公平、恐ろしさを憎しむことになるのはまた愚かなことです。悪いことに手を染めてない自分のこころも汚れてしまうのです。悪の共犯者になることは仏教が説く理性的な生き方ではありません。「例え世の中が悪一色であっても己のこころを清らかに保つ」
★感謝出来る人は幸福です。感謝したくなったらその瞬間で幸福を感じているのです。感謝することで、その幸福は一層増すのです。幸福は長持ちするのです。
A.Sumanasara