瞑想について
瞑想である程度(ほんの少しでも)成長したこころのある人が長期間、瞑想をしないことによりまたこころは元の(汚れた状態)状況に戻ってしまうようなことがあり得ますか。
それほど成長しない人は、一時的にこころの成長を感じても、長い期間集中することをまったくしないで、煩悩に負けて生活すると、元に戻ります。いったん瞑想をやりだしたら、元に戻れないレベルまで瞑想を踏んばった方がいいと思います。
仏教では、元に戻れない状態というのが、悟りの第一ステージ・預流果に達した時です。しかし、その悟りを開かなくても、一切は無常であることを徹底的に瞑想でもって経験する人も、そう簡単には戻れないと思います。たとえ汚れた状態になっても、それに早く気付くことでこころを清らかに保たれます。ヴィパッサナー瞑想で得られる智慧は、今世で悟れなくても、消えるものではありません。来世でも瞑想をやりだしたら、忘れた経験が蘇ってくるのです。だからといって、今世で悟らなくとも良い、また、自分にその能力がない、試してみたいがそんな暇もない、などと思うことは、とても危険です。邪見・邪思惟になります。
瞑想するよりは仏教について書かれた本を読むのが好きで、内容の事実に気づきそれにより自分は少し変わったような気がします。瞑想以外に知識的にも世の中の真実に目覚める(悟られる)ことはできますか。
仏教の本は、人の生き方を正しい方向へ導く目的で書くものです。自分は少しでも変わったと思うならば、正直な気持ちで勉強したことでしょう。瞑想をしなくてもブッダの説かれた真理を徹底的に理解したい、納得いきたい、という強い気持ちで経典などを勉強したり真理を知る人とディスカッションをしたり、また、自分が疑問に思うところ、納得いかないところ、納得いくまで質問したりすると、預流果に悟る可能性があると思います。しかし、楽な道ではないと思います。高度な知識能力を必要とします。瞑想なら、楽ちんだと思いますけど。
知識的には、世の中の真理に目覚めません。知識というのは、こころが汚れた人々が考える概念です。ブッダは人の理解はあべこべだと逆さまだと説かれています。逆さまな概念を勉強してもしても、自分の知識を真理と比較すると逆さまのままなのです。ブッダの教えに知識でもいいからチャレンジしてみると、逆さま思考が消えて、真理の道が開けるのです。ブッダの教えだけが正しいと言われると、語弊を感じるでしょう。ですからブッダ自身が、真理を知れば誰でも悟るのだと言うのです。真理というのは、「地球が丸い」というような誰にでも発見できる普遍的な事実なのです。
「一切は無常で、苦で、実体のない現象なのです。瞬間瞬間、因縁により変化して変わっていくものです」。これが真理です。あるいは「生きることは苦である。渇愛により苦が生じる。渇愛を断つことにより苦が無くなる。その方法は八正道である」というのも、真理なのです。知識を活かしてこの真理を理解すれば、預流果のレベルに必ず達します。
在家生活は欲があって成り立っており、欲がないと「結局最後はこうなるんだ」と思うと何もかもやりたくなくなります。しかし、欲があるとそれはまた苦しい。在家生活を通して悟りを目指すにはどのようにうまくバランスをとっていけばいいのでしょうか。
欲があるから頑張る人は、欲の奴隷です。自分を破壊する。「欲しいから」という言い訳で、どんな悪いことでもする。悟らない限りは、欲も消えてくれません。自分も幸せで、周りにも迷惑をかけず、出来る範囲で他人も助けてあげて、生きられれば良いと、リミットを作らなければいけないのです。金ならいくらあってもありがたいという考え方は、間違っている。危険です。欲の奴隷です。生活が成り立つくらい収入があれば、また余分に入ったならば他人のためにも使うという目的で生きるなら、欲の奴隷ではなく、欲をうまく使って生きる智慧のある人です。
欲しいものに恵まれて、楽しく生きていることが出来ても、「高慢になって自分を忘れてはならない。真理に逆らってはならない。何があっても、すべてを捨ててこの世を去らなくてはならない。死は必ず来る」という真理を脳裏につねに置いておいて普通に生活すれば、大丈夫だと思います。バランスというのは、そんなものです。
「瞑想しなければ」という気持ちを保ち続けるには何かいい方法があるのでしょうか。
何にも負けたくない。勝利者になりたいと思ってください。
A.Sumanasara