あなたとの対話(Q&A)

呪術と医学について

前から疑問に思っていたことなのですが、
例えば、「沙門果経」(同書巻1、P88)には、信者の施しを受けながら邪悪な呪術をもって生活するバラモンや沙門のことが出てきます。もちろん仏弟子は、そのような邪な術を離れるという趣旨です。そこには、占いや呪術とならんで、医学医術まで入っています。同様な記述は、あちこちで見ました(スバ経、P457等)。二つ質問があります。

1.どうして医学が、邪な呪術と並べられるのでしょうか?
当時の宗教家の行っていた医学が、呪術がらみであり、医療そのものを否定したというわけはないのでしょうか?
医学の観念が、現在と少し違うのでしょうか? それとも、確か仏の弟子にも有名な医者がおられたように思いますが、僧侶の生活方法として否定しただけで、一般の在家にとっては邪悪ではないという意味なのでしょうか?

イニシエから、医療と呪術・迷信・信仰などが混ざっていました。インドのAyurveda治療方法は現代でもとても優れているが、どのような、研究結果によって今の治療方法にいたったかは分かりません。
Vachaspati, Agastiなどの仙人が自分たちの超能力によって、人の病の原因と治療法方、また医学的な役目を説明する植物図鑑を作ったと言う話です。修行から得た超能力、神から聞いた話などは実証的な学問では▲○*~?でしょう。また、きちんとした治療は専門家に頼むではなくだれでも好き勝手に何とか手当てをしたり、神に頼んだり、祈祷してあげたりして儲けて生計をたてていました。
そのなかで、仕事がない在家の人々はともかく、人の布施で生活しているにもかかわらず、聖職者たちも潜っていました。
人は困り果てているとき、悩んで苦しんでいるときその状態を理由して金を要求する。親しい人は死にかけているとき「高い」とも「取りすぎ」とも言えない。人の弱みを握って金品を巻き上げて生計を立てる生き方は残念ながら、釈迦尊には品のない、邪道的なもので見えたのです。「食うためには仏弟子だけでも行うべからず」ということになりました。

医学的な修行を積んでいた医者の仕事は評価されてありました。仏陀も弟子たちもお世話になっていました。仕事をして人を助けて適切な収入を得て生計を立てるのは在家としての生き方ですから、医学は在家の方々にとってとても賞賛するべき職業なのです。
在家であろうとも、祈祷、占い、呪いなどの迷信に基づいたインチキ行為で儲けることについて(本来の)仏教は見下ろす。在家の仏弟子は Dhammena laddha bhoga(法・真理によって、正しい仕事をして得た収入と言う意味)生活するべきだといたるところに説かれています。
信者は信仰により差し上げたお布施で出家の生活が成り立っている。まじめに修行して、こころを清めれば、また信者に正しい生き方を教えてあげて、精神的に助けてあげれば、出家がいただいた布施に対して何倍にしてお返しをしている。
ですから、出家の本来の仕事は修行です。
それをおいておいて、人に祈祷してあげて、占ってあげていくらか金をもらう。下品な生き方にしても悪過ぎ。皆様方、ある会社から月給をもらって、その会社の仕事をまったくも行わないで、別なところで別なことをやって更に収入を得ているとそれはなんといえばよいでしょうか?
仏陀は在家の人に仕事をしなさいという。しかし、武器売買製造、麻薬売買製造、生き物売買などは dhammaの(正しい)仕事ではないとする。自分の仕事は相手の役に立たないなら金をもらってはならないのです。
迷信に基づいた呪術などが人の役に立つかないかは皆様でどうかお考えになってください。

2.呪術に関しても、同様の質問になりますが、呪術そのものをよこしまと批判しているのか、宗教者たるものが呪術で信者からものをもらって食べていくことを、よこしまと批判しているのでしょうか? 多分、呪術を行う仏教関係者は、ここを都合良く解釈しているとは思いますが、そういった後世の解釈の入る前の原始仏典の文脈で知りたいです。

呪術そのものがインチキです。
仏教は呪術信仰を心理的に説明します。弱いこころを持っている人、悩みに、災難に遭遇した人、ワラにでもすがりたいと言う気持ちになる。こころが完全に受動体制に入っているとき、自立思考が失っている時、「呪術遊び」で暗示をかける。金を巻き上げたいから「呪術遊び」を派手にやる。鵜呑みにする人は「それでよかった、守られた、安全だ、大丈夫だ」思って元気になる。それだけの話です。無視しちゃえばいかなる呪術も効かないよう。
呪術のように見えるかも知れませんが、こころを活発な状態に戻す方法があります。
そのときは心の普遍的な法則とこころを完成した人々のこころのエネルギー・影響力を使用します。それは、徹した合理的な行為ですが、見た目だけは呪術のように勘違いします。(例:仏教の護経)しかし、金を取ってやるものでも、金を取るためにやるものでもありません。この仕来りをやる人のこころが欲で汚れたから効き目はゼロになる。完全に人を助けてあげたいという慈しみ、憐れみでやらなくてはならない。完全に無料でやる。隠れた要求もない。
しかし、ただだからといって受ける側がそれを軽視するとまた効かない。マァ、損はしてないが。

「宗教は職業」だと思って現代の宗教家たちが祈祷儀式やるのは勝手ですが、医学、教育、農業、工学などの職業と比べるとまったくも品がありません。布施で食べている修行者には禁止に決まっている。しかし、見返りを期待しない慈悲で真剣に祝福をいたします。 以上
A.Sumanasara

 

長老様
長文の回答ありがとうございました。
呪術と医学が並べて書いてあることを長く疑問に思っていましたが、お話を見てよく分かりました。
医師免許などのない時代のことですから、いい加減な呪術医師がたくさんいたということが、疑問の文章の背景にあったことがよく分かりました。

呪術に関しては、心の弱さを克服することが課題だと思いました。呪術に頼る心が、呪術を頼む方にも(これは仕方ない面もあるとは思いますが)、呪術を行う側にもあると思います。

2500年を隔てて、また翻訳とはいえ、こうして仏陀の明晰な言葉の数々に触れられること、またたくさん残っているということは、大変大きな喜びです。現在も『原始仏典』の新刊を読んでいますが、このような明晰さが、神秘主義的神話の類で適当に書き換えられてしまうこともなく、その教えの部分がよく失われずに残っているものだと感心します。

ありがとうございました。
合掌

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