お守りと聖糸?
パティパダー巻頭法話(103)2003年9月号
お守りは不安の泉~理性を育むと迷信は消える~
http://j-theravada.com/howa/howa103.htmlを拝読させていただきました。
5月29日にゴータミー精舎で開催されたスリランカ学生協会主催のウェーサーカ祭でも授与された「聖糸」は、少なくとも事情を知らない私には「お守り」と似たようなもののように見えるのですが、あるいは、そうではないのではないのでしょうか?
なにか合理的・客観的な意味付け・機能があるのでしょうか?
正直に言うと聖糸も「お守り」の類です。
迷信はだめだといいながら、何をやっているのかと疑問するのも然りです。
このような習慣を始めた仏教はこんな単純なことに気づいてない「筈」はありません。
わけがあって説明しませんが、こころの悪いながれを強引に意図的に変える方法があります。
護経だと区別している経典に、(釈尊の一般的な教えですが)このこころの悪い流れを変えてしまう能力があるのです。
どんな経典でも読んで理解して納得がいったら、たちまち幸せを感じます。
ものごとは上手く、スムーズにはかどります。しかし、護経は、理解したいという気持ちも薄く「ただありがた」気分だけで聞く人にも苦難を無くし、幸福をもたらす能力をもっています。
そんなに長持ちする効き目はあると思えないのですが、みな調子に乗って護経、祝福云々を期待します。
糸はbody contactです。不幸を幸福に変えられる能力がある仏法僧とのコンタクトです。
また、仏教徒には仏法僧は親で、本家です。
なにかあったら、先にお寺に走って報告をする。子供が生まれたら先に、仏陀に僧侶に顔合わせをする。そのときお祝いの言葉をかけてあげなくてはいけないでしょう。
稲刈りをして、先に炊いたご飯はお釈迦様に差し上げる。このような仏教徒の世界だから、祝福、お祝いなどの習慣がついてきたのです。
いくら、理屈を叩いてもあの人々はこの習慣をやめないと思います。煩悩も悩みも苦しみも豊富に持っている人からでさえも祝福されるとうれしいでしょうに、
仏法僧の祝福は嫌に思われる筈もありません。
この幸福になるこの機能は神秘的なものではなく、論理的な心の法則に従ったものです。(説明は省く)余談ですが、「あの糸」は確実に効果がありますよう。
A.Sumanasara