あなたとの対話(Q&A)

清道尼とは

清道尼とは、仏典ではどのような位置づけにあるのでしょうか

Brahmacārinī(ブラフマチャーリニー)というパーリ単語の変わりに使っています。梵行尼といっても理解できないと思われたからです。

仏道修行者の位置づけのリスト

位置は上から下への順番です。

リスト1:

  1. 釈尊
  2. 比丘サンガ
  3. 比丘尼サンガ
  4. 在家の男性信徒
  5. 在家の女性信徒

これは社会的な立場の位置づけです。

リスト2:

  1. 阿羅漢
  2. 不還者
  3. 一来者
  4. 預流者

これは修行の結果から見た位置づけです。

このリストで釈尊は何処にいるのかというのは問題です。
悟り(阿羅漢)の立場から釈尊も阿羅漢たちも同じレベルの最終解脱をしているのです。
最初に悟った60人の阿羅漢たちに、伝道活動をしなさいと釈尊が説かれた時、自分も阿羅漢の一人として数えたのです。しかし、ブッダは解脱の先駆者なのです。発見者なのです。他の人々にその道を教える最上の指導者なのです。指導する能力と説法する能力に、並び立つ人はいませんでした。
その能力を尊敬するために、また、最上の指導者と弟子たちを区別するために、ブッダの悟りを正覚と表現しているのです。

そのしきたりに従って、リストを作るならば、

  1. 正覚者
  2. 阿羅漢
  3. 不還者
  4. 一来者
  5. 預流者

これは仏教の本来のリストなのですが、後の大乗仏教では阿羅漢の悟りは正覚者より劣っていると勘違いしたのです。阿羅漢は完全たる悟りを開いていない、と言い張ったのです。

この理屈は成り立ちません。最初に言い出した人は誰ですか?
その人も悟りを開いた阿羅漢だったのでしょうか? しかし、ひとりの阿羅漢も自分の悟りに不満を覚えたことはないのです。また、阿羅漢より下の悟りに達した人々には、更に上の悟りに達している人々にケチをつけることはできません。その権利はないのです。
ではこの話は釈尊の弟子たちのように悟りに励まない人々が言い出した話でしょうか? そうであるならば、預流果に達した人の心境さえも分からないでしょう。
とにかく他人の悟りの境地にケチを付けてみただけで、その理由・根拠ははっきりと説明していないのです。

もう一つリストが必要です。悟りを開く目的で人々は仏道に入ります。まず三帰依をしたり、五戒を守ったりする。それから、出家もする。覚者でないことは当たり前です。その人々の位置づけも必要になるのです。

リスト3:

  1. 阿羅漢向(悟りの最終段階に挑戦している)
  2. 不還向
  3. 一来向
  4. 預流向(悟りの最初の段階に達するために挑戦している)

4.の方々はまだ悟ってないのです。修行中です。従って、仏道に入る皆、即ち比丘、比丘尼、在家の男性、在家の女性は-from the standpoint of spiritual attainment-最後の四番目の預流向のカテゴリーに入ります。

この説明によると、三帰依しただけで預流向なのです。三帰依した人は真剣まじめに悟りを目指して努力するならば、そのように呼ぶに相応しいのです。

しかし、三宝の僧宝はリストの2と3をあわせた8 種の人々(1.阿羅漢 2.阿羅漢向 3.不還者 4.不還向 5.一来者 6.一来向 7.預流者 8.預流向  漢訳で四双八輩)です。
あれっ? 三帰依しただけで、帰依される聖なる対象になるのかな?
これは大きな問題です。何も理解せず、三帰依する人もいる。ただ家族が仏教だから、他に信仰する宗教がなかったから、三宝に帰依する人もいる。
一応三宝に帰依しているが、他宗教の教えも信仰に値すると思っている人もいる。十把一絡げでどんな宗教でも語っている真理は同じだと思って、自分が三宝に帰依している人もいる。あきらかにこのような人々は頼りにはなりません。人の理解を混乱させるためには、協力するかもしれませんが。

テーラワーダ仏教では、この問題を解決してあります。
修行に専心して励んでヴィパッサナーの智慧の境地にも達して、あと瞬間で預流果の悟りを開ける人のみ、預流向にしたのです。
そうなると、ただ三帰依しただけで、出家しただけで、預流向にはなりません。頑張らなくてはいけません。
ブッダの教えを参考にしてみると、微妙にでも疑いなく完全な納得の上で三帰依に達する人は、預流果なのです。
仏教の理解が曖昧な三帰依者は、他人の悟りには何の助けにもなってくれません。だから、帰依の対象になりません。

このリストの在家と出家の区別を考えて見ましょう。在家でも出家でも、正しく修行すれば悟りを開けます。
しかし、阿羅漢果に達した聖者には在家生活は無理です。一切の執着はないからです。
自分の肉体を維持することにも執着がないから、恐らく在家でいても自炊さえもしないだろうと、私は勝手に思っています。
もしも在家が阿羅漢に達したならば、出家するか、涅槃に入るかです。
在家でいるならば長くても七日までです、と言うのは仏教の一般的な理解です。
(お釈迦様の父王も臨終のとき阿羅漢果に達しました。又、他のケースもあります。女性信徒が臨終の時阿羅漢果に達したケースは経典・仏典の記録にはありませんが、私はこのような方々もおおいに居ただろうと思っています。)ということは、阿羅漢以外の他の7つの境地に達している人々は、在家社会でも見られるのです。

リスト2と リスト3は修行の結果に基づいて作るので一つにまとめる事ができます。

  1. 阿羅漢
  2. 阿羅漢向
  3. 不還者
  4. 不還向
  5. 一来者
  6. 一来向
  7. 預流者
  8. 預流向  です。

この八種類の仏教徒の中にリスト1が入っています。比丘も比丘尼も、在家の男性も女性も、皆入っているのです。

 

悟りを目指す(預流向の)人々

三宝に帰依するならば預流果を目指して励むことは当たり前のことです。
いちおう皆、「涅槃解脱を目指します」と請願はしますが、それは希望であって具体的な修行はまず預流果を目指すことです。
この四番目のグループに比丘も、比丘尼も、在家の男性も、女性も入りますね。

修行のスタートは戒律から始まります。出家と在家の区別は戒律にあります。出家は家族を持たない、妻帯しない。養うこともしてはならないので、当然、畑仕事・商売などの経済活動も止める。在家のお布施で命を守ってもらって修行に専念する。
また、守らなくては行けない戒律・規則は無数にある。
一人前の出家は比丘です、比丘尼です。見習い、二十歳以下の出家は沙弥です。(沙弥の戒律は十ですが、見習いなので比丘の規則などをほとんど守るべきです。

在家の場合は五戒になるのです。
真面目な在家は週一回、又は、月二回か一回は八戒か十戒を守ってみるのです。
八か十戒の場合は大きな違いはその日、完全に性的な行為と異性との関わりを止めることです。
又、芸術を楽しむなどの娯楽も止めるし、午後の食事も止める。この修行は一日(24 時間)行うものです。次の日から又、五戒になります。

しかし、在家仏教徒は自由に家族の状況に応じて修行する日の数を増やすことも出来るので、七日間、十日間、一月、一年間、又生涯などの時間を決めて八戒か十戒を守って修行することもあるのです。結局は在家の修行者なのです。

否、修行者と言えば五戒を守る人も修行者でしょう。それでは、五戒を守る人に不公平な単語でしょう。

 

在家仏教徒と在家修行者

出家の大きな違いは妻帯しないこと。性行為と異性との関わり全て禁止。経済活動も禁止です。在家修行者の大きな違いも同じです。
しかし、在家だから異性の体に触れることまでも禁止ではありませんが。(自分の小さな娘は何の躊躇なく、膝に座るか背中に乗ってしまうかはありえる)。
性行為を戒める戒律の名前はbrahma cariyā sīla です。意味は「清らかな生き方」ですが、中身は「性行為を行わないこと」です。従って、修行者という言葉を止めてbrahmacārī(男性)とbrahmacārinī(女性)と呼ばれるようになりました。

釈尊の時代から、たくさんのbrahmacārī(男性)とbrahmacārinī (女性)がいました。
当然、五戒を守る仏教徒よりは、修行のランクは上です。比丘でも比丘尼でもない状態です。
正式的にサンガに出家を懇願してしきたりに従って出家儀式を行ってないのだから、サンガから観れば在家です。
しかし、在家の人々から観れば、家族活動には参加しないし、修行ばかりしているし…だから、なんと呼べばよいでしょうかね。それで、brahmacāârî(男性)とbrahmacāârinî (女性)と呼ばれるようになったのです。

まだ、あります。もしも在家のだれかが修行の結果、悟りの三番目の段階(不還果)に達したならば、こころから欲と怒りが完全に消えているのです。
その方々は権利上brahmacārī(男性)とbrahmacārinī (女性)です。
仏教ではこれは聖者として生まれ変わったので、brahmacārī, brahmacārinīという位はbirth right(生得権)になるのです。
真剣に修行を始めたいという他の方々は、自分の意志でbrahmacārī(男性)かbrahmacārinī (女性)になって修行することが出来ます。

 

比丘尼出家が出来ない理由

女性の出家は比丘尼たちが行って、比丘たちも賛成儀式を行うことで成立するのです。
これは釈尊によって定められた決まりです。従って、現在比丘尼たちはいませんので、比丘尼出家は不可能になっているのです。
釈尊が涅槃に入られる少々前、サンガは些細な小さな戒律・規則を改良する権利を頂きました。
しかし長老たちはその権利を放棄して、仏陀により説かれた戒律の全てをそのまま守ることを決めたのです。従って、現在の比丘サンガに戒律を改良する権利はありません。
もし改良しようと思うならば、テーラワーダのすべての比丘サンガが賛成しなければならないのです。

この問題は長い間、サンガのなかで話し合われているのですが、一致する結論には達していません。女性の出家に反対する僧侶は誰もいませんが、問題になっているのは認定儀式のしきたりなのです。
いったんしきたりがブッダに決められたら、それも戒律の一部になるのです。釈尊の決まりを変えることになると、ほとんどの僧侶は反対するのです。だからこの問題は解決しません。
たった一つだけ方法があります。
女性が修行して阿羅漢果に達すると、生得権として比丘尼なのです。この世に阿羅漢果に達した女性修行者(比丘尼)が五人ほど生まれたならば、比丘尼サンガとして、出家者の認定を出来るようになります。
現状では、女性で在家生活・活動を止めて修行に専念したい場合はbrahmacārinīになるしかないのです。

 

中間修行者という自然な選択

仏陀の時代から、brahmacārī(男性)とbrahmacārinī (女性)の方々がいました。
位置づけは比丘サンガと在家仏教徒の中間です。これは仏教社会の位置づけです。
仏教教理の位置づけは達している悟りの境地で決めるのです。(お父さんは預流果で娘は一来果に達しているならば、娘は父を「弟」と呼ぶのです。~豆知識~)

疑問:出家しちゃえば良いのになぜ中間的なbrahmacārī(男性)とbrahmacārinī (女性)でいるの?

例えば、寝たきりの親がいて自分以外面倒見る人はありません。また、育てなくてはならない子供がいる。子育てをしてくれる力のある親戚はいないし、赤の他人に任したくはない。その上自分は修行に励んで悟りを開きたい。では、中間位置になるしかないでしょう。村に一人しか医者がいない。代わりもありえない。その医者が悟りを開きたいと思うなら、中間修行者になるしかないのです。(職業的な条件)また、出家組織に入れない中性の人々、手足など切断されている人々などの身体的に不自由な者もいる。
サンガというある特定の社会組織のメンバーになれなくても、真剣に修行して悟ることまで禁止できません。誰であっても、brahmacārī(男性)とbrahmacārinī (女性)にはなれるのです。

brahmacārinī(女性)について、私たちは清道尼という訳語にしました。
日本文化的に言えば、brahmacārī(男性)もbrahmacārinī(女性)も出家です。
しかしテーラワーダ仏教では、出家サンガという別の組織があって、それに参加するためには特別な決まり・規則がいろいろあります。
ゆえに「出家」という単語は使い難いのです。

三宝のご加護がありますように
スマナサーラ

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