預流果という目標
ホームページに寄せられた質問
ぼくは、「今生で預流果になる」ことを目指して瞑想や善行為に励んでいます。しかし、長老の著書などを読みますと、「目的を持ってしまうとかえって遠くなる」とあったり、「善い人間になろうと思わない方がよい。思うと結果は最悪です」と説かれていたりします。
自分なりの解釈では、目的に執着してしまうことを戒められているのだと理解していますが、どうも自信がありません。修行するための心構えなどアドバイスがいただければ幸いです。
先ず、頑張ってくださいと応援いたします。
目的について明確に(?)カヤの木会館で(12月24日)説明いたしました。目的は純粋に善なら、期待を上回って成功する。悪なら期待に達する前に自己破壊でつぶれるということでした。そこで、問題は目的は善か悪かと判断することです。
1.行為は悪なのにいいことをやっていると勘違いする人もいる。
2.目的は善だと思って入るが、実は悪意が隠れていることもある。これが、ややこしくて、理解するのは難しいです。
1.の例は子供たちのために、徹底的に厳しく躾するぞと思って、怒りたい放題、叱りたい放題、体罰も惜しまない親や指導者、教師などの場合です。
2.例は:周りにバカにされて、悔しくなって、「では、悟ってやるぞと」覚悟してがんばる。しかし、バカにされた周りに対する攻撃態度なのです。怒りと高慢が隠れている。目的は純粋善ではありません。
目的は純粋に善なら確実に成功する(精進すればの話ですが)。善も悪も混じっている目的の場合は失敗かまぁまぁの結果です。
目的がしっかりしないと人間に精進することも難しい。こころは中途半端で、曖昧で揺らぐ破目になります。だから、目的、正確に言うと「請願」が必要です。自分の請願は純粋なものか、まじりっけのものかと定かでなくても「悟りたい、解脱したい」と言う目的は悪くないと経典・仏典などで説明されてあります。
目的だけに執着・固執するとその目的に達する道・方法について不注意になるのです。それでは結果なしです。それから、凡夫の私が推測して誓願する悟りと、煩悩無くして達する本物の悟りは違うかもしれません。上達する過程でそれはわかってくるなら善いのです。しかし、殆どの人は「そんな筈ではなかった」と途中で諦めるケースもあます。とにかく、このポイントははっきりしないのです。
素直に、悟りたいと誓願をして、冷静に、怠けることなく、しかし、極端にやり過ぎにもならず、常に善い結果が出るようにと調整しながら、修行を進んだほうが、誰にとっても無難だと思います。
三宝のご加護がありますように。