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ブッダが教えた「業(カルマ)」の真実

 

アルボムッレ・スマナサーラ長老

第四章 業に関するQ&A

災害・戦争と業の相続

Q:「業(カルマ)」は個人が相続するものと聞いています。しかし、災害や戦争、国王の暴挙など、同じ原因により、一度に多くの人々が苦しむ場合、業論ではどのように考えますか?

A:

業は個人が相続する

業はあくまでも個人が相続するものです。他人に与えることも他人から奪うこともできません。業とは心に溜まるポテンシャルなのです。ただポテンシャルなので、それによって心が重くなったり拡大したりはしないのです。生命が行為するのは意志があってのことです。考える、話す、身体でもって行為をする、これら三つの行為は、意志によって起こるのです。汚れた意志があれば「悪行為」と言い、清らかな意志があれば「善行為」と言うのです。行為にも、その結果にも、業と言うのです。それも個人のものなのです。

生命が亡くなる四つの原因

生命が亡くなる原因は四つ説かれています。

  • 一、寿命が尽きること。生命にはある程度で決まっている寿命があります。明確に日にちは数えられませんが、我々は平均寿命という言葉でそれをあらわしているのです。人間、動物、昆虫たちなどのそれぞれの生命に、平均寿命というものがあります。徐々に細胞の更新能力が減るのです。死ななくてはいけなくなるのです。
  • 二、業が尽きること。業とは命を維持管理するポテンシャルなのです。精神力、心の力、と理解しても構わないのです。栄養などを摂っても、精神的に活気がなければ、明るさがなければ、生きる意欲がなければ、代謝機能は正しく働かないのです。生命がうまれることも、生まれてから死ぬまでの維持管理も、死ぬことも、業の管轄です。手を加えて人生をある程度まで変えられますが、全体的なプログラムを変えることはできません。精神的な力も徐々に衰えるようになっているのです。たとえ健康な身体を持っていても、精神的なエネルギーが尽きたら、死を迎えるのです。
  • 三、寿命と業の両方が尽きること。前の二つの項目の一つがなくなっても生命は死ぬのに、三番目の項目は蛇足だと思われるでしょう。この項目で言っているのは、生命の自然死なのです。長生きができて、生命としてやるべきことをやって、最期に自然に死ぬのです。最期になると、精神状態も身体の状態も、これ以上はもたないと分かるのです。
  • 四、事故死。これは体力も精神力もあるにも関わらず、他の何かの原因で命を失うことです。その特別な出来事がなければ、その生命は寿命を全うできたのです。

事故死や自然災害による死と業

このうち、四番目の項目についてさらに説明しなくてはいけないのです。「生命の死も業の管轄であるならば、事故死は何なのか?」という疑問が起こります。しかしこの場合も、結局は業が絡んでいるのです。分かりやすい例を出します。ひとが殺人を犯したとしましょう。裁判で死刑が確定して、執行されたとします。幸福で長生きできたはずの人間の命が、突然、断たれたのです。それはその人がこの世でおこなった行為の結果です。飲酒運転をしたり、居眠り運転をしたりして、命を失う場合もあります。それはその人々の不注意・無責任という態度の結果です。それも業です。若者が無免許で運転して、事故を起こして亡くなる場合もあります。この世でおこなわれる行為の結果なのです。行為に結果がある、というのが業の話です。ですから、事故死にも業が絡んでいるのです。

よく理解できないのは、地震・津波などの自然災害で命を失うことです。作業現場を通りかかったところで、何かが落ちてきて命を失うこともあります。子供が用水路で遊んでいて、足を滑らせて亡くなることもあります。このようなケースの場合は、不注意が原因とは言えません。注意していても、死ぬ場合はあります。

四つの業の働き

この問題を解決するために、仏教は業の働き方を説明します。四つあります。

  • 一、生まれを司る業。業というエネルギーがなければ、生命はうまれません。輪廻転生もしません。どんな次元でどのようにうまれる生命であろうとも、業によって生まれるのです。
  • 二、支持業。うまれた生命のいのちをサポートして、支えてあげる業です。生まれを司った業をサポートする、別の業です。生まれてから、たくさんの業に支えられて生きる場合もあります。人間の場合はよくあることです。いろんな条件に恵まれて、いろいろな人の協力やサポートがあって、明るく元気に生きる人々の例はあまりにもたくさんあります。サポートがなければ生きていられない、というのが人間の次元です。動物として生まれたのに、人間に飼われて愛されて、楽に生活する生命もいます。野生でいたならば、餌探しに苦労するし、縄張り争いもあるし、戦わなくてはいけないし、他の生命に殺される恐れもあるのに、人間に飼われたらその心配がなくなる。それはペットたちの補助業です。
  • 三、妨害業。生きている間、その生命に邪魔をする、妨害をする業のことです。人生は頑張ったからといって、うまくいくはずがないのです。様々な妨害もあるのです。健康体で生まれたのに、ウィルスなどに感染して一生病弱で生きるはめになる人もいるのです。我々は毎日、妨害業を経験して生きているはずです。
  • 四、殺害業。生まれを司った業が命を維持管理しているのに、その生命に他の業が割り込んできて、命を落とすのです。前に書いた事故死と、この殺害業には関係があるようです。

業の教えは止悪作善の戒め

業を正しく理解できるのは、正覚者であるお釈迦さまだけです。他の人々には、業という法則があることは発見できても、何業によって何が起きたのかと、明確に言うことはできません。一個の業で生まれるのに、生きている上ではたくさんの業が絡んでくるのだと、右の説明で理解できると思います。一般人は、決して人の業を判断してはいけません。正しく判断できる、ということはあり得ないのです。ひとが亡くなったら、誰だって悲しいのです。しかしどんな業で亡くなったのかと、探す必要はないのです。若者であっても、ガンなどが発生する場合があります。妨害業が割り込んだ可能性はあります。それがどんな業であっても、私たちには関係ないのです。治してもらうために頑張ることです。もし業の法則をある程度で理解しているならば、その若者に支持業が割り込んでくるよう、いろいろ手を加えるのはよいことです。

業は理解できないほど複雑な組み合わせで働きますが、あくまでも個人が相続するものです。「他人の業のせいで、私が不幸になった/幸福になった」というのはあり得ないことです。ひとが善いことをする時は、自分もそれに賛成したり、協力してあげたりすると、自分にも善い結果が現れるのです。犯罪をおかしてないが、それに賛成したり、また黙認したりするならば、自分も何らかの結果を受けるのです。

「生まれてきた人々は、善行為を選んで行うべきだ。悪行為を断言的にやめるべきだ」という戒めのために、業の法則が説かれているのです。一般の方々には、その理解で充分です。業についてややこしく考えないほうが無難です。

同じ災難に遭っても業の働きは個人ごと

それでもよく分からないことがあります。戦争では関係ない人々まで死にます。一部の人だけ戦争をするが、国民みんながそれによって不幸に陥ります。電力はみんな使っているが、福島原発事故によって、周りに住んでいた方々だけたいへんなダメージを受けているのです。旱魃でたくさんの人々が死ぬのです。広島・長崎の原爆投下で、戦争とは何の縁もない一般人が亡くなってしまったのです。地震・津波なども同じ結果です。もし太陽に異変が起きたら、地球上に住むみんなが影響を受けるのです。合衆国の何人かが引き起こしたリーマン・ショックの影響で、経済不況が世界に拡がったのです。このような出来事と業の働きを噛みあわせて考えようと思うと、頭が混乱に陥るに違いありません。人々にできるのは、身を守るために頑張ることです。自分のことばかり心配しないで、他の人々の幸福も考えて行動するならば、たいへん立派な生き方です。

太陽の異変で地球上のすべての生命が影響を受けたからといって、それは業ではないとは言えません。しかし胸を張って業だと言うことも、いろいろ問題を起こします。すべての生命が一緒になって、同じ業を積んだのかと訊きたくもなります。ここで言えるのは、個人が受ける苦・楽は、その個人の業の結果である、ということです。十人くらい集まってパーティをやったとしましょう。みんなで料理を作って食べたのです。食べものがあたったとしましょう。同じ物を食べたからといって、食あたりの苦しみはみんな同じではありません。治るスピードも個人によって違います。もしかすると、治ることができなくて命を落とす人もいるかも知れません。ですから、個人差があるのです。たとえ太陽の異変を例にしても、同じ結果になるのです。瞬時に死ぬ生命もいるし、苦しんで苦しんで死ぬ生命もいるでしょう。

業の総量はみんな同じ

すべての生命は、無始なる過去から輪廻転生しているのです。ですから、蓄積している業の量はみんな同じであると推測できます。無量の業のなかから、わずかな一部だけ、いまの生まれで働いているのです。それで量が減ることはないのです。海の水一滴を使いきったからといって、海の水が減るわけではありません。業も同じです。海には大量に水が入るように、いったん生まれた生命は無数の行為をするので、その行為も業として蓄積するのです。そこで太陽の異変が起きて、地球上の生命がみんな死ぬはめになったと推測しましょう。その時は、各生命が持っている無量の業から、何かの殺害業が割り込んでくることでしょう。業も条件が揃わないと結果を出しません。蓮の実は保管しておけば百年、二百年でももちます。しかし芽は出ません。それを泥の中に放り込んだら、二三ヶ月以内で芽が出ます。我々みんなが無量の業を背負っていますが、条件が揃わないので、結果を出さずに種のままでいるのです。結果を出すチャンスに出会うことなく、消える業もあるのです。

生きているうえでは、過去の悪業が実る環境を避けて、善業が実る環境を作るようにすればいいのではないかと思います。

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この施本のデータ

ブッダが教えた「業(カルマ)」の真実
 
著者:アルボムッレ・スマナサーラ長老
初版発行日:2012年