ブッダが幸せを説く
人の道は祈ることより知ることにある
アルボムッレ・スマナサーラ長老
1 人は何のため、何に祈るのか
自然への恐怖感が宗教を産んだ
人類の歴史の中で、いったいいつ頃から「祈る」という行為が現れてきたのでしょう。おそらく、人間の歴史が始まった直後から、人間は何かに祈るという行動を起こしたに違いありません。祈る、それは即ち宗教の始まりを意味するものです。ですから、人間と宗教は有史以来切っても切れない関係にあるということになりそうです。
この章では、この「祈る」ということについて考えてみたいと思います。いったい、人類は何に祈るのか、何のために祈るのか。
私たちのテーラワーダ仏教では、自分の心を清らかにすることを主に勉強しているので、時々私に「誰かに頼りたいという気持ちをいったいどこへ向けたらいいのだろうか」とか、「誰に向かってお祈りすればいいのでしょう。誰に向かって感謝の気持ちを表わしたらいいのでしょうか」などという疑問をぶつけてくる人達がいます。つまり、この人達は宗教の常識に基づいて、質問をしているのです。
いつの時代でもどんな人でも、人間は常に宗教という枠の中で、何かに対して祈り、感謝しつづけてきたのです。
時代をどこまでさかのぼっても、人間の歴史の中には、必ず宗教という文化を発見することができます。祈る対象は、時代の特色の違いによって一定ではありませんが、祈りによって人々は願い事をしてきたのです。その願望希求の祈りという形態が、やがて宗教というものに発展していき、確立されていったのです。
もっとも遠い昔、人間は自然を拝んでいました。宗教の起源について、百科事典でもひもといてみればすぐわかると思いますが、人間は自然に対して、ある種の恐怖感を抱いていたに違いありません。その恐怖感が拝む行為につながっていったのです。
たとえば、ある時大地を溶かすような大雨が降って、自分の住まいや動物たちが洪水に見舞われ大変な目に遭ったとか、雷が落ちて人が死んだとか、また山や森のなかに入っていった人が、そのまま何日も戻って来ず行方不明になったなどという不安な経験がたくさんあったのです。そういう「雨は怖いものだ」、「雷で人は死ぬのだ」「森や山は人を呑みこんでしまう恐怖の場所だ」等の日常生活の体験から、自然を畏怖しはじめたに違いありません。
昔は、それも大昔ともなれば、鉄砲もナイフもないのですから、素手で狩に出かける以外に方法はありません。自分の腕一本が勝負ですから、そうなると山も森も非常に怖い存在と映るわけです。自然がちょっとでも機嫌を損ねると、人間なんかたちどころに死んでしまうという恐怖感がつのり、自分たち人間の存在は、自然の寛大さや許しの中にこそあるのだという観念が芽生えるのです。
自然に逆らうこと、自然のご機嫌を損ねることは自分の生命を脅かすことだから、お祈りをして許してもらおう、というのが拝み信仰の始まりと見てよさそうです。
その証拠に、モヘンジョダロ文化(現在の西パキスタン、インダス河下流に残された遺跡)、メソポタミア文化(イラン北西部、チグリス・ユーフラテス両河に栄えた遺跡)など、栄華を誇った人間の古代文明にも、そういう自然崇拝、自然を対象に拝み信仰をした形跡が様々な形で遺されているのです。
人間の宗教が、根本的にこの恐怖感から生まれているということは、現代に至っても少しも変わっていません。この事実は一応覚えておいたほうがいいと思います。宗教に惹かれる人は心の中に恐怖や不安があることが多いでしょう。
逆に、自分が完璧に幸せだと思っている人、やることなすことが旨くいくという自信満々の人は宗教にそれほど興味を持たないはずです。宗教を批判する思想は、そういう人達から生まれてきたと思われます。
この施本のデータ
- ブッダが幸せを説く
- 人の道は祈ることより知ることにある
- 著者:アルボムッレ・スマナサーラ長老
- 初版発行日:2001年5月13日