ブッダが幸せを説く
人の道は祈ることより知ることにある
アルボムッレ・スマナサーラ長老
私たちは本当に悩んでいるのか
これから「悩み、苦しみはなぜ生まれるのだろう」ということについてお話していくのですが、その前に、もうひとつ考えてみたいことがあります。それは、本当に私たち人間には「悩み・苦しみ」があるのか、ということです。仏教は科学的な教えですから、きめ細かく考えなければなりません。
今ここに、「私は病気です」という人がいたとして、その人に、「ああそうですか、では薬をあげましょう」というだけで、その状態はよくなるでしょうか。そんな大雑把なやり方では、とても危険でしょう。
「私は病気です」という人がいたら、「なぜ病気だと思いますか」とまず訊くべきではないでしょうか。それによって、その人が本当に病気なのか、それとも単に病気と思い込んだだけなのかわかりますし、たとえ病気とわかっても、その病気がどの程度のものなのかなどという詳しい状況が判明してくるのです。
それと同じことで、皆さんもただ「苦しいよ、悩んでいるよ」と訴えるだけでなく、本当に苦しいのか、本当に悩んでいるのか?その原因は、それはどの程度なのか?をよく考えなければならないのです。
まず、自分の状態を客観的に、冷静に、公平に見て判断を下していかなければ、最良の療法というものも見つからないのです。
それにはっきり答えられない人が多いのは、それだけ自分の人生を詳しく診断していないという証拠なのです。
客観的に冷静に自分の人生をみつめているか
さて先ほど、私たちは人生を苦しい、悩み事ばかりだと訴えているけれども、人生の何がどういうふうに苦しく、何が悩みなのかを指摘できるだろうかと問題を提示しました。つまり、自分の人生を客観的に冷静に分析できているのかという問いですね。どうでしょうか、答えは出せますか。
おそらく、誰一人として自分の人生を、命そのものを観察できている人はいないはずです。生まれてからこのかた、あなたはいったい何をやってきましたか。二十代の方も三十代の方も、勿論それ以上のご年配の方も、これまでのご自分の人生でいろいろなことをやってきたでしょう。ご自分の人生ですから、自分でやってきたことなのですから、その過程をきちんと見てきた人なら答えられるはずです。
しかし不思議なことに、私たちが答えられることは、小さいときにはよく遊んだとか、お母さんにやさしくしてもらったとか、どこどこの小学校にいって、どこどこの中学、高校にいって、何とかという大学を卒業して、何とかの仕事に就いて、結婚して子どもが生まれて、いついつお父さんが亡くなって……のようなことぐらいなのです。
誰も、自分の人生を明確に覚えてはいないのです。考えてみると、これはとてもおかしなことではないでしょうか。第一、今例に挙げたことは全部生きるために必要があって、やったことにすぎないでしょう。寒い冬に外出するとき、ちょいとマフラーを首に巻いていく、そんな感じのことを挙げたにすぎないでしょうに。マフラーは自分自身ではないし、勿論人生そのものでもない。ただのちょっとした道具にすぎません。皆さんの回答も、その人生におけるマフラーの部分を答えたにすぎないのです。
どんなに自分の人生でこんな道具を使った、あんな道具を使ったと答えてみても、それは正しい答えにはなりません。
私が皆さんに問うているのは、その道具を使って何をやったかということです。小学校という道具を使って何をやったのですか?結婚という道具を使ってどうしたのですか?仕事という道具を使ってあなたはいったい何をしたのですか?主婦という道具を使って何をしたのですか?夫という道具を使って何をしたのですか?親という道具を使って何をしたのでしょうか?
そこのところを明確に答えて頂きたいのです。仏教は智慧の教えだから、そういった人生でのさまざまな出来事を明確にしっかりと認識できていなくてはいけません、とお釈迦さまはおっしゃるのです。
この施本のデータ
- ブッダが幸せを説く
- 人の道は祈ることより知ることにある
- 著者:アルボムッレ・スマナサーラ長老
- 初版発行日:2001年5月13日