ブッダが幸せを説く
人の道は祈ることより知ることにある
アルボムッレ・スマナサーラ長老
「道具」あつめに躍起となっている苦しい人生
お釈迦さまはおっしゃいます。
「人生をきちんと観察していない人は、あれこれむやみやたらに走り回って、ますます自分の悩みを増やし、無残にも苦しみから苦しみへと走ってしまうのだ。だから自己を観察してみなさい、生きるとはどういうことか、きちんと観てみなさい」
一見、とても難しい教えなのですが、本当は論理的にはすごく簡単なのです。仏教の教えからいうならば、人間には並々ならぬ苦しみがあるのです。人間がやっていることはすべてただの苦しみであるというのが仏教の考え方なのです。
「生きる」ということを知ることなく、道具だけを揃えることに躍起となる。せっかく揃えてみても、大半は一度も使う予定もないし、使わないで死んでしまう。
道具は何のために必要なのかがよくわかっていないと、道具があっても何の意味もないのです。
ですから、私たちの人生は苦しみばかりで空しいものであると、お釈迦さまはおっしゃいます。そんなことでは、幸福になれるはずがないのだ、と。
幸福になろうと結婚してみても、そう簡単に幸せにはなれない。子どもがいれば幸せかと思ってつくってみるが、それだけでは幸せにはなれない。お金さえあれば幸せだと思ってお金を儲けてみるけれど、でも幸せにはなれない。健康さえあれば幸福だと思っている人々は、毎日運動して健康なからだをつくろうとする。でも、からだのほうはぜんぜんよくならない。何かどこかで納得いかない、満足いかない、不満ばかり。
何をやっても完全なことができない。それもまた当たり前です。何のためにやるのかが、わからないままやっているからです。仏教の勉強をなさっている皆さんも本当のところを正直に言うと何のためにやっておられるのでしょうか。何のためなのかわからないままでは、勉強したからといって満足することにはなりません。
ウーロン茶を一本買いたい、そこにコンビニエンスストアがある、ということになれば、さっさと店に入ってウーロン茶を一本買ってくるでしょう。このこと自体には何の問題もなく、きちんと満足しているはずです。ウーロン茶が欲しいという目的がはっきりしていますからね。その人が、もう少し店にいたかったなあ、いろいろなものがあったのだからそれもぜんぶ見ておいた方がよかったのではないか、などと悩むことはないのです。
人生もそうやってすべてにきっちり目的を決めたなら、どうするべきかということは、きちんと決まってしまいます。そこですべての悩みは消えてしまうのですね。ところが、それがないために、人は生きることにいろいろ悩んでいるのです。何をやってもどこかで納得がいかず、うまくいかない。
主婦の方は毎日、一所懸命に料理しておられることと思います。でもまだいろいろ不安があるでしょうし、自信が持てないかもしれません。
たとえば、旦那さんから「明日は五十人ばかり人が来ることになっていますから、なにかつくっておいて」と言われたら、どうしますか? 旦那さんの頭をぶんなぐってしまいたくなるでしょう。「あなたはもう二十五年もその仕事をやっているんだからプロでしょう。しっかりやりなさい」なんで言い出そうものなら、「離婚させていただきます」なんてことになるかもしれません。そんなものなのです。二十五年やってきても、まだまだ自信がないのです。
毎日やっていることであろうと、失敗する可能性がありますからね。生まれてからずっと続けていることについてでさえ、何一つ自信がない、何か満足が行かない。どれほど健康なからだで生まれても、毎日努力して健康を維持しなくてはならないし、納得しました、ほっとしましたと言うときがない。
そういうすべてのことが、私たちが常に対峙する苦しみなのです。それを認めないことはさらに大きな苦しみをつくっていることなのです。いちばん大きな苦しみは、ものごとを客観的に判断する能力がないにも関わらず感情だけで、幸福だ、ああ生きていてよかったと、思うことなのです。
この施本のデータ
- ブッダが幸せを説く
- 人の道は祈ることより知ることにある
- 著者:アルボムッレ・スマナサーラ長老
- 初版発行日:2001年5月13日