ブッダが幸せを説く
人の道は祈ることより知ることにある
アルボムッレ・スマナサーラ長老
幸福とは充実感があること
そういう定義を知った上で、もう一度幸福とはどんなものか考えてみましょう。
幸福というのは、ごく簡単明瞭にいってしまえば、「充実感」ということに尽きるのではないでしょうか。Satisfactionという語になりますが、いわゆる「満足感」ですね。
私という個人が生きていることに意味を見出せること、つまり生き甲斐があるということです。充実感、満足感があればたいていの人間は幸福なのです。
ある人が朝から猛烈に忙しくて、朝ご飯を食べられなかった。お昼も食べることができなかった。ふつうなら、朝食も昼食も食べないのですから、お腹はすくでしょうし、イライラして機嫌も悪くなるところでしょうが、その人にとって、今やっていることがとても重要なことで、自分にしかできない急ぎの仕事だったりすると、お腹がすいた事もすっかり忘れて仕事に没頭してしまうのです。
こういう時は、ものすごい充実感があって、食事のことなど頭に浮かびませんし、空腹から起こるであろうイライラもストレスも感じないのです。そこで、その人は幸福感を味わうのではありませんか。
未だに忘れることのできないあの阪神淡路大震災のとき、被災者の方もボランティアの方も、皆さん必死になって行動しましたね。燃えているところに飛び込んで多くの人を助けたり、瓦礫のなかから、何とか頑張って一人でも多くの人を救い出そうとしたり、飢えと寒さのなかで誰ひとり文句もいわずに協力し合ったのではないですか。ふだんはいつも親のことなどまったく無視してわがまま放題生きていた茶髪の子どもが、必死になって他人である被災者を助け、何か手伝えることはないかと走り回ったのです。ご飯はないし、眠るところもない。そんなない中でみんな必死に行動した。
あのとき、誰か一人でも、こんないやな仕事などしたくないな、と思った人がいたでしょうか。勿論、地震そのものは不幸な出来事だし、悲惨な状況ではあったけれども、みんなの心のなかは充実感で満たされていたのではないでしょうか。気持ちは「自分が生きていることに意義がある」という幸福感に満たされていたことだろうと思います。自分がここでやらなければダメなんだ、何とかしてみんなを助け出さなければ、という使命感に燃えて頑張ったのでしょう。
地震は不幸な出来事だったかもしれないけれど、皆さんの心はそれぞれ幸福を感じたはずです。
自分が必要とされる生き方こそ有意義
このことからもわかるように、私たちは、家でノンビリとお煎餅でもかじってテレビを見ているようなことが幸福であるとは決して思わないのです。ラクをして贅沢に暮らすということでは、本当の充実感は味わえないのです。
アフリカとかインドの奥地とかで、今いろいろとひどい状況になっているでしょう。時おり、テレビでも紹介されます。先日もバングラディッシュの難民が放映されていましたが、悲惨な状況ですね。飢えと疫病などで子どもたちがやせ衰えているのです。そういう土地へ、援助活動をしようと大勢の人がボランティアで行くのですね。しかも、ボランティアの人々は日本をはじめみんな裕福な国の人ばかりです。そういう土地での難病や疫病を見たことも聞いたこともない人が行くのです。行って援助活動をすれば、病気が移るかもしれませんし、自分も危険な状態になる可能性が高い。あっちでもこっちでも、人が死にかけているわ、高熱にあえいでいるわ、孤児になった赤ん坊が泣き叫んでいるわ……。
それでも、彼らは喜んで行くのです。そういう状況下で彼らは頑張っている。一所懸命話しかけたり、食事を配ったり、医療の世話をしている。じゅうたんを敷き詰めた居心地のいい自分の居間で美味しいものを食べてノンビリ寝ていればいいものを。
しかし彼らはそうした幸福は望まなかった。僻地のボランティアは確かにからだも疲れるし、精神的にもつらいでしょう。それでも彼らは、「これは自分たちがやらなくてはならない仕事だ。今の自分の行為によって、瀕死の状態にある人々を救うことができるのだ。これは自分にとって、とても大きな意義のある仕事なのだ」という充実感で、遠く僻地にまで出かけるのです。
彼らはそこで初めて、自分たちがこの世の中に存在する意味を自分でつかんでいくのです。そしてそのことが非常な幸福感となっていくのです。
自分は今、体力をつけるために、お腹いっぱい食べなければならない。体力をつけたところで、初めて思う存分かれら難民のために行動ができるのだと考えるとき、彼らにとってお腹いっぱい食べることが、大変な幸福になるのです。国にいた頃、太ってしまったらどうしようなどと、あれほど食べることに神経を使って、ダイエットしなくてはと悔しがっていたのが嘘みたいな変わりようです。
今の皆さんはあまりにも豊かすぎて、食べるときも苦労するでしょう。ああどうしようとか、これを食べてしまったらちょっと余分だろうか、どうすればダイエットできるだろうか、などいろいろ思い煩うとすれば、それは不幸なのですね。もう少しわかりやすくいえば、こういうことです。
十分に栄養を摂らなければ体力がつかない、体力がつかなければいい仕事ができない、ということになると食事が本当に意味のあるものとなって、いろいろ後悔せずに食べることができるのです。
美味しいものは食べたいけれど太るのはイヤだとか、ダイエットばかり心配して恐る恐る食事をしているようでは、幸福とはいえないでしょう。いえないどころか、そんなことでは却ってストレスを溜め込んでしまうだけです。
食べることは本来非常に大事なことです。体力をつけて、人生を充実感で満たして生きようと頑張るための原点でしょう。そういうふうに生きれば、現代人のように食べることにあれこれ悩むこともないのです。単純に食べることひとつからも、幸福感が生まれてくるのです。
以上のように、幸福というのは日本語でわかりやすく簡単に言えば、「充実感」である、ということがおわかりになったことと思います。
要するに、自分が今生きていることには意義があります、意味があります、私が生きていることは、自分のためだけではなく、他人にとっても必要なのだと確認できることなのです。
幸福は充実感であるということをわかりやすく理解していただくために、震災などの人間にとって大変不幸な出来事を例にしました。このような究極の状態では「自分が生きることが必要だ、大事だ」と理解しやすいと思ったからです。
それは決して災難がなければ幸福になれないという意味ではありません。どんな状況の中でも、人が日々充実感を味わえるように努力するならば、その人の頭の中から「不幸」という言葉は消えてしまうのです。
幸福へのステップ
生きていくことに意義を求めるとき、私たちに必要になることは生きることへの目的とその理由なのです。なぜ、生きていかなくてはいけないか。なぜ、勉強しなくてはいけないか。なぜ、仕事をしなくてはならないか。なぜ、結婚しなくてはいけないか。なぜ、子どもをつくらなくてはいけないか。
そういう生きるための目的とか、必然の理由をはっきりさせた方がいいのです。そういうステップを踏んでからやっと幸福の感じが生まれてくるのです。
今の人々が忘れているのはその大切なステップなのです。それは「豊かボケ」とでもいっていい現象なのです。あまりにも豊かになりすぎていて、自分がなんとなく不幸になっているのではないかと錯覚しているのです。
例えば、美味しい食べ物があふれています。ぜんぶ美味しくて、何を食べればいいか困ることになります。どれかひとつ選んで食べても、「あれも食べたかったな」という気持ちが残ります。「何を食べるか」と困るばかりで、「何のために食べるのか」という大事なステップはきれいに頭の中から飛んでいってしまいます。
この「何のために食べるのか」を理解しない限り、「食べるために生きている」という不幸な存在になってしまいます。服もアクセサリーもお化粧も同じことです。あまりにも物があふれていて、選んだりコーディネートしたりすることに思いわずらいます。「何のために生きるのか」という幸福をつくり出すきっかけの出番がありません。
その結果、豊かなのにも関わらず、不幸を感じるのです。豊かになりすぎて、ものを選ぶことだけを思いわずらう人生においては、智慧の出る場がなくなりますので、私はこの状況を「豊かボケ」と名付けています。
生きるための目的について、違う例をとって考えてみましょう。
お母さんが子どもに「学校へ行け」と言う。どうして学校に行くのかというと、「学校に行ってしっかり勉強していい成績をとって有名校へ進学して、一流会社に入っていい生活をするためだ」、と教える。こういうふうに教わった子どもは、大変不幸になるのです。
なぜかといえば、自分がラクをするために、自分が贅沢をするために学校へ行くとなると、その子は自分のわがままのために学校へ行くというふうに考えるようになってしまうのです。子どもに学校へ行くことを教えることからして、大きな間違いを犯しているのです。では、どういうふうに言えばいいのでしょうか。
私ならこう言いますね。
「君が学校へ行って勉強しなければ、世の中が困ってしまうのです。今の世の中がこういうふうに素晴らしいのは、お父さんやお母さんたちが一所懸命に勉強して、社会を発展させ、皆さんの住みやすい世の中にしてくれたお陰でしょう。
科学を勉強して便利な世の中にしたり、医学を研究してどんどん新しい医療方法を考えだしたりして、大勢の人々の役に立っているのでしょう。
ですから今度は君がしっかり勉強して、多くの人間の役に立てるよう頑張らなければいけないのです。
ちゃんと勉強して、物事をよく理解できる人間にならなかった人々が、強盗をしたり戦争をしたりして人類に大変な迷惑をかけているのです。
君には人間のゴミではなく、人類の宝物になって欲しいのです。文句を言わずに学校へ行きなさい」と。
この施本のデータ
- ブッダが幸せを説く
- 人の道は祈ることより知ることにある
- 著者:アルボムッレ・スマナサーラ長老
- 初版発行日:2001年5月13日