ブッダが幸せを説く
人の道は祈ることより知ることにある
アルボムッレ・スマナサーラ長老
恐怖感から自然崇拝
法句経(Dhammapada. No.188)に、「恐怖感に襲われる人々は様々なことに帰依します」と言う一節があります。山々、大きな森、清らかな場所と思われる聖地(ārāma)、木、大木、あるいはパゴダのような祈りの場所、墓、そんな数多くのものを拝む。それは人間が心に非常な恐怖を抱いている証拠で、その恐怖に心とからだが揺れ、そのためにあっちへお願いします、そしてこっちへお願いします、と色々なものを拝むのだというのです。
これはお釈迦さまの言葉ですが、現代の私たちが聞くと、まるでお釈迦さまがまったくの無神論者であるかのように思えてしまいます。でもこれは、決して批判ではなく、むしろ大変やさしい心で人間を観たお釈迦さまの感想なのです。
人間もいろいろな知恵や知識でようやく自力で田んぼがつくれるようになってきます。田んぼに水が入って農作物ができ、収穫できるようになったのだから、それを食べて、あとは遊んでいればいいはずですが、それでは済みません。田んぼを拝んだり、田んぼに引く水の元となる川を拝んだりするのです。
しかも、それは決して感謝の気持ちからではありません。今年はどうやら無事にお米が収穫できたけれど、来年はどうなるかわからない。ちょっと雨が降りすぎたり、あるいは雨がちっとも降らなかったりしたら、それだけで田んぼが台無しになってしまうかもしれない。
「お願いですから、来年も雨に恵まれ豊作になりますように」と祈るのです。そんなちょっとした当たり前の自然の営みを前にして、人間はまったく無力なのです。自然の前で人間は何の力もなく、お手上げ状態なのです。
しかし、人間は自然に対して無力だからといって、ただ手をこまねいているわけにはいきません。お腹がすいたらご飯を食べなければならないし、家族や子供があれば食べ物を作ってやらなくてはならない。隣の部族が攻めてきたら戦うこともしなくてはならない。やらなければならない仕事がたくさんあるのです。頑張らなくては生きていけないはずなのに、自然の前で人間は何もできない。ではどうするかというと、頼む、お願いするしか、選択の道はなかったのです。そういうところから宗教は生まれたのです。
インド文化におけるいちばん古い宗教経典、例えばVeda聖典などを読むと、ただの雨、ただの嵐、洪水、ただの空気や火や水を拝んでいることが出てきます。そこからも人間が自然を畏怖している様子がよくわかります。
科学技術が発達している今の時代でも、この自然に対する畏怖が人々の心に生き残っているのです。
今ここで、目の前に森があることを想像してみて下さい。自然界のほとんどのことについて理解できているはずの現代人の私たちでも、初めて訪れた土地の深い森の前に来て、そこに分け入って行こうとするときは、ちょっと二の足を踏むでしょう。かなり心臓の強い人でも、迷子になったらどうしよう、獣に襲われたら逃げることができるだろうか、風が吹いてきたり雨が降ってきたりしても大丈夫だろうかなどと、恐怖心が芽ばえるに違いありません。
日本には富士山の麓に樹海があるそうですね。その樹海は入ったら二度と出られないという昔からの風評があって、それだけに自殺の名所にもなっていますが、もしそこに自分が入っていかなければならないとしたら、恐ろしくなって足がすくむに違いありません。この恐怖はいったいどんな恐ろしさなのでしょう。得体の知れない、理屈では言い表せない恐怖なのではないでしょうか。
そういう恐怖を前にしたとき、人はお祈りをして、その恐怖感を何とか和らげようとするのです。富士の樹海を目の前にした現代人だって、樹海に入る前には祈りたい気持ちになるでしょう。
崇拝の心から宗教思想へ
昔の人々も、だんだん森のことについてわかってきます。どこに大きな石があり、どこどこの木は道を塞いで通れなくなっているとか、どのへんに大きな穴が在って落ちたら出られない、などという情報にもたけてきて、森の中に入って行くことに恐怖感をおぼえなくなっていくのです。
そうなると、これまで森そのものが神であると信じていた自分たちの考えが揺らぎ始めるのです。これまでは「森そのものが神」であると考えていたのですが、それが「森の神」というふうに変化し始めるのです。「森の神」とは、森を支配している精霊のような目に見えない存在のことです。
このちょっとした変化が、実は大変重要な信仰の変わり目、分岐点になるのです。森が神、雨が神、風が神、と拝んでいた人々が、森の神、雨の神、風の神と考える時代に入るわけです。Polytheismいわゆる多神信仰時代の到来です。
日本の信仰でも八百万の神といった表現がありますが、夥しい数の神様がいると考え始めたわけです。地上の神、もう少し上の神、あるいは人間以下の霊的レベルの神(日本から一例を挙げれば、お犬様信仰、キツネを祀るお稲荷信仰など)というランクができあがっていくのです。死人の面倒をみる神、病人の面倒をみる神、人々に恵みを与える神、天罰を与える神などなど、四方八方に神がいて、仕事別に神が分けられ、神々の国家のようなものができてくるのです。
そうすると今度は、あまりにも神々がたくさんに増えてしまって、収拾がつかなくなってくる。どの神がどんな働きをするのか、どの神がいちばん偉いのかなどと、政治的に管理しなくてはならない事態になってきたのです。つまり神様の政治的ランク付けが必要になったのです。たくさんの神様がいて、その為に交通整理をしたはずなのに、その結果またややこしいことになってしまったのです。
人々もその頃には、自然管理の技術と農耕牧畜の技術の発展によって、生活にゆとりができてきます。ちょっと暇な時間ができると人間は抽象的に考え始めるのです。つまり、たくさんの神々がいると考えるよりも、神はひとつにまとめて存在していたほうがいいのではないだろうかということで、抽象的な「神」という存在を考えたのです。
それは大文字のGで始まるGod、唯一絶対である神の誕生です。godという小文字の神とはまったく違うのです。その証拠に小文字のgodには複数形がありますが、Godには単数形しかありません。
現代の「神」という概念はおそらくこの時代あたりからはじまったと考えていいでしょう。人間を創って育てて面倒をみる、そして亡くなったら自分の所に連れて帰る、というすべての権力を持っているいちばん偉大なる神を創造して、他の神々や精霊・天使たちもこの偉大なる絶対神が創造したのだという考え方。
これは二元論として展開されます。ひとつはすべてを創った創造者の次元、もうひとつは創られた私たちの次元というふうに分けたのです。
もう少し時代が進むと、すべてはひとつの偉大なる神であると考えられるようになります。一歩進んだ一元世界です。一元論というのは「森羅万象すべては神である」「一切が如来である」などの言葉で表わされている概念です。
創った神がある部屋にいて、創られた人間が別の部屋にいるのではなく、本当は我々も神そのものであるとするのです。ただ我々は無知だからそれを知らないだけで、それに気づけば自分も神そのものであるということを悟るという考えです。これは、宗教思想の発展した今の状態です。
このあと百年も経てばどう変化するかわかりませんが、今まで述べてきた簡単なフレームの中に、世界にある宗教の考え方の全てが入っています。一応、宗教というものにも発展はあったのですね。キリスト教のゴッドは二元論にまだ止まっていますね。イスラム教のゴッドも、ユダヤ教の神様も二元論です。ヒンドゥー教では最近、といっても西暦七世紀ごろのことですが、いろいろなテキストが現れて、その頃から一元論の宗教に変化してきました。日本の大乗仏教も一元論です。「すべてのものが仏さまであり如来である」という考え方です。
どんな宗教も、私が先ほど荒っぽく述べたフレームを外して考えることはできないはずです。これは私が勝手に考えたフレームではないのです。宗教の歴史の中にはそういう展開があるということです。
この施本のデータ
- ブッダが幸せを説く
- 人の道は祈ることより知ることにある
- 著者:アルボムッレ・スマナサーラ長老
- 初版発行日:2001年5月13日