ブッダが幸せを説く
人の道は祈ることより知ることにある
アルボムッレ・スマナサーラ長老
幸福への万人の道
私たちが人生の生きる意義や生きる目的を持つとき、そこに充実感が生まれます。そしてそれこそが幸福なのです。これまでみてきたように、生きる意義は、決して崇高なものでもないし、形而上学的なわけのわからないものでもない。目の前の、私たちの身の回りにこそあるのです。自分の家族を大切にすること。自分が生きている社会を大事にすること。
泣いている人を見たら、慰めてあげること。のどが渇いている人をみたら、その人に飲み物をあげること。電車に乗って、からだの不自由な人を見たら、席を譲ること。せっかくこの地球上の恩恵をさまざまに受けて生きているのだから、それを何倍にもしてお返しすること……。
わかりやすくいえば、自分が生きることによって周りも幸福になる。周りの助けになる。自分の生き方は人のためになっていて、生きているそのことが無駄ではないのだと確信できる人生は、決して不幸ではありません。そういう人はどんなことがあっても泣かないし、どこに住んでいようと頓着しない。道端で寝起きする毎日でも、幸福であることに変わりはないのです。
ですからほんのちょっとした理解の問題なのです。自我中心的に生きてきた人は、その自我を捨ててみる。自分は多くの生命のお陰で生きているのだと気がついたら、他の人も、生きられるようにしてあげる。それだけのことで、幸福への道は万人に開かれていくのです。
妄想の世界は不幸への道
一方、不幸に陥る道というのは、どういうことをいうのでしょう。
不幸は、真理、事実から逸脱して余計なことを考えたり、とらわれたりすることから起こるのです。現に今、こうして生きていることを考えずに、何かを空想する。非現実的なことにとらわれる。どんな宗教が正しいのかとか、神さまはいるのかいないのかとか、わが党だけが正しくて他の党は皆間違っているとか、そんなことで喧嘩をする、いがみあう……。
いわゆる妄想の世界ですね。神さまがいようがいまいが、私の幸福には関係のないことです、と毅然としていれば何の問題もないのですが、余計なことを考えることが好きな人は、なかなかそういう妄想から抜け出すことができずに、それで悩み苦しむことになるのです。
例えば、日本には、昔から神の国というイメージがあった。神話などを読むと、まさに神国ですね。しかし、神国だからといって、日本は幸せになったのですか。神さまは日本人を幸せにしてくれたのでしょうか。
そうではないでしょう。戦国時代もあったし、近代になっても大変不自由な目にあったでしょう。戦争に負けて、皆さんも生きること、食べていくことで必死になったでしょう。その結果、神さまという概念など忘れ去り、プライドを捨てて、なりふり構わず働いて、初めて自分たちの力で幸せになったのではないですか。
日本の皆さんは、あの敗戦のあと、身をもって体験したのです。神の国という考え方を捨てて、日本も世界の中のひとつの国にすぎないと理解しました。ヨーロッパやアメリカに比べると小さな国であると理解しました。威張ることよりも、毎日のことだけを一所懸命にしていればそれが幸せになるのだと学んだのです。学んで、それを実践して、家族を守り、自分の人生を考えたところ、結局はそれが国家を守ることにもつながったのです。
余計なことさえ考えなければ、人間は幸せになれるのです。
宗教の世界もそうなのです。ご先祖様の怨念や、悪い因縁、たたりなど、生きていくためには何の役にも立ちません。霊感商法や祈祷師の霊能力にとらわれてしまうと、どうやって元気に生きていけばいいのかわからなくなるどころか、不幸への道に入り込んでしまうのです。
そんなことに関わるくらいなら、会社に行ってきちんと仕事をしたほうがどんなにいいか。一所懸命学校へ行って勉強したほうがはるかに人生のためにもなる。一家の主婦も家族に美味しいご飯を食べさせてあげたり、いつも明るく笑顔で接しているように努力することのほうが、どんなに幸せに結びつくことか。
私たちがどういうふうに生きれば、元気で明るく自分の責任を果たすことができるのかを教えることが宗教のいちばん大切な役目なのです。
この施本のデータ
- ブッダが幸せを説く
- 人の道は祈ることより知ることにある
- 著者:アルボムッレ・スマナサーラ長老
- 初版発行日:2001年5月13日