施本文庫

ブッダが幸せを説く

人の道は祈ることより知ることにある 

アルボムッレ・スマナサーラ長老

人は祈りによって幸せになれるか

さて、お釈迦さまの教えからこの「お祈り」や「感謝」を考えてみましょう。仏教は中道の教えであることはよく知られていますから、人間が何を拝もうと一向に構わないのです。人が何かを拝んでそれで心の苦しみを和らげることができるなら、結構なことです。そのことを否定する必要はどこにもありません。何を拝もうと一切かまいません。山でも川でも、拝みたい人がいれば拝めばいいし、犬でも猫でも拝みたい人は拝めばいい。また一方で、心配事があっても神頼みなどしたくないと思う人は、拝まなければいい。
仏教はそういう無関心な立場をとっているのです。

キリスト教の人々は、神さま、イエス様にお祈りして何かをお願いしますね。仏教の人々は仏さまに、ヒンドゥー教の人々はヒンドゥー教の神々に、みんないろいろな対象に向かってお祈りしていますが、その結果はどうでしょうか。ちょっと考えてみればわかるでしょう。

キリスト教徒が神を拝んでいるからといって、みな同じく幸福になっているわけではありません。あるいは、まったくお祈りをしない日本人のなかにも、一日に何回もお祈りをしているアメリカ人のなかにも、同じように経済的に豊かになっている人々もいます。今ではアメリカより日本のほうが安全で平和です。だから日本人がお祈りする仏さまのほうが偉いのかというとそうとはいえない。日本にも災難や経済的な問題はたくさんあります。

ということは、拝む対象が何であっても、どうということはなく、それで多少は心が安らかになるかも知れないが、結局は何を拝んでも同じである、というのがお釈迦さまの教えなのです。
人間はみんな平等に、いいことも悪いこともそれぞれあって、それぞれにがんばって生きている。人間が幸せになる為には、拝んだり祈ったりするのではなく、一人一人が精進して生きるしか道はない、というのがブッダの教えなのです。
ですから、仏教ではどんな宗教も否定していません。でも、頑張らなくていい、お祈りさえすれば幸せになれるとは決していわないのです。
つまりお祈りも時として必要かもしれないけれど、もっと必要なことは努力である、ということなのです。

では、お祈りを中止して頑張るほうだけやるとどうでしょう。もしそれで豊かに、幸福になるとすれば、お祈りは余計なことになってしまいます。中道の立場である仏教は祈りを完全に否定することも奨励しない。どこの国で誰が何をお祈りしようと腹を立てることもないし、また人にこうしたほうがいいと推薦もしない。日本人は日本人なりに、アメリカ人はアメリカ人なりに、お祈りすればいいし、別にしなくてもかまいません。
そういうことは、文明の歴史のなかで、それぞれの人が、それぞれの環境のなかで心に刷り込まれてきたことですから、自分で納得したことを素直にやればいいのです。

お祈りそのものを分析する立場から考えると、人間はみな誰であろうと自分が幸福になりたいのだけれど、どんなに祈ってみたところで、必ずみんなが幸福になれるというわけではありません。誰だって病気になどなりたくありませんが、いくらお祈りしても病気になる人はなるのです。時として、お祈りが効いたと思えることもありますが、健康になっても、それがお祈りのせいであるとは確信をもって言い切れません。これは人間の歴史が始まったときからの厳粛な事実です。お祈りが効いたなど、有史以来明確な証拠を示せる事例はないのです。

例えば、人が病気になって、家族が皆お祈りをし続けてその病気が治ったとします。でも、誰もお祈りなどしていないのに、同じ病気が治ってしまうケースもたくさんあるわけですから、お祈りの効果があるのかどうか、答えは出せません。お祈りに必ず効果があるとはいえないのです。
人間のすべての幸不幸は、心の働き、物質の働き、宇宙の法則、と様々な働きが絡まりあって生じているのです。科学ではまだそれらのほんの一部しか解明されていないのです。

宗教的呪縛から解放されるために

その心の法則がわからないゆえに、また物質や宇宙の法則がわからないゆえに、人間は暗闇のなかであちこち触ってみたり、いろいろ試してみたりしているだけなのだと、お釈迦さまは指摘されたのです。
人間が心や物質や宇宙の法則を全部わかったとすれば、そのとき初めて、私たちがどうすれば幸福になるか、不幸になるか、そのシステムがわかるのです。つまり私たちは、なぜ人間が幸福になるのか、不幸になるのかという心のシステムが未だわかっていないのです。何故あの人は長生きでこの人は早く死ぬのか、その物質的な働きのシステムがわかっていないのです。

このように、この世ではわからないものの方が多いのです。よく考えてみると、宗教はそのわからないことを説明しているのです。もし、わからないことの一部が科学的に解明されたら、その部分は宗教の管轄から外れます。そしてその分、人間は宗教に頼ることから離れます。
細菌や微生物のせいで、病気になることを発見したら、これまで神さまにお祈りして頼んでいたことをやめて、お医者様のところへいくでしょう。人間にこの世の法則がわかってくると神さまの仕事はだんだん減ってくる。
ということは、人間に法則が完璧に理解できたら、この地上に神は必要ないということになります。

ですから、宗教はこれまでずっと科学と対峙してきたのです。科学によって新しいものが発見されると、最初は宗教がそれに反対するのだけれど、みんなが正しいと認めるようになるとしぶしぶ自分の解釈を変える。そういうふうにお互いが生き延びる選択をしてきて、今日まできたのです。今だって現代人の考え方のなかには、宗教的な観念がいろいろ入っているでしょう。離婚に反対、輸血に反対、あれに反対これに反対など、どれにも合理的な理由などないのです。

仏教が提案していることは、私たち人間はこの世の、この心の法則をできる限り理解するように勉強しましょう、ということなのです。その法則を理解できない限り、すべての現象を客観的に把握することなどできないのです。それでは、私たち人間は無知のまま、これまでの悠久の歴史の中で培われた確信のない概念に振り回されつづけることになるのです。もちろん、宇宙の法則のすべてなどとても理解しきれるものではありませんから、せめて最低限自分に関することだけでも知っていこう、というのです。
自分に関すること、つまりこの自分の「からだ」と「心」の働きと動き、それだけは何とか勉強してそのメカニズム、システムなどを理解しましょうというのが、仏教の立場なのです。

そこまで理解できて初めて、妄信的な宗教的呪縛から卒業できる、解放されるというわけです。そのことに気がつかない限り、人間はこれからも自らが創りだした神さま仏さまのお世話になり続けることになります。

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ブッダが幸せを説く
人の道は祈ることより知ることにある 
著者:アルボムッレ・スマナサーラ長老
初版発行日:2001年5月13日