ブッダが幸せを説く
人の道は祈ることより知ることにある
アルボムッレ・スマナサーラ長老
自分の幸不幸は自らのおこないの結果
もうひとつ別の観点から「宗教」に問いを投げかけてみましょう。もし、尊い存在が本当にいて私たちを支配しているならば、なぜ人間や他の生命に不幸なことばかり起こるのでしょうか。人間がどんなに熱心にお祈りしていても、世界のあちこちで毎日トラブルが多発しています。
私たちの日常を眺めただけでも、きりがありません。いくらお金があっても夫婦関係は悪くなるし、夫婦仲が良くても子どもが悪い道に走るし、家族はよくても会社ではトラブルが起こるし、どこかに必ずトラブルはあるのです。トラブルのない人生なんてありえません。ですから、神さまは一体何をやっているのでしょうかと尋ねたくなります。
ここで大胆にはっきりいうと、「神」という概念を使うのはよくないのです。なぜならば、世の中の不幸・不満・不公平などにたいして、その概念は適切な説明にならないからです。もし神さまがいるとするならば、彼自身も迷惑していることでしょう。神さまのような存在をつくり、それに向かってお祈りをしようと考える人は、カルマ論を否定していることになるのです。誤解されることを恐れず、乱暴かつ大胆にいいますと、カルマというのは、私たちが、自分の行動によって幸福にもなり不幸にもなる、心のもち方次第で人生は決まるという考え方です。
もしそのカルマ論を否定したり無視したりして、「すべては神さまのおかげであって、人間の運命も神さまによって決められるのだ」という主張をするなら、こういう矛盾が出てくるはずです。それは、神さまというのはなんと残酷な方ではないかということです。神さまの創ったとされるこの地球上を見てごらんなさい。お腹いっぱいご飯を食べられる人より、飢餓に苦しむ人のほうが圧倒的に多いし、最新の医学の恩恵を受けられる人より、ちょっとした病気でも薬ひとつもらえないで死んでしまう人の数のほうがずっと多いわけです。そういう現実を目の当たりにすれば、人間をつくった神さまほど悪い人はいない、ということになりませんか。
カルマ論では、あなたが何かをすると何か結果が生まれるといいます。このほうが具体的でとてもわかりやすい話でしょう。
これから一年間、自分は美しくきれいな言葉だけをしゃべるのだと決心し、偽りや人を傷つけることをしゃべらないように頑張ると、確実に立派な人間になるのです。立派なこと、人の役に立つこと、正しいことをしゃべるには、また無駄話をやめるには、心のコントロールが大変重要です。心をコントロールするとからだもコントロールされ、無駄がなくなり健康になってきます。人間は自分のからだや心を通して他の人と関係をもっています。するとその関係も随分良くなってきて、またそのことに影響されて、自分自身も立派になっていくのです。それがカルマ論です。
そういう生活をして一年経ったところで、幸福になって神さまに感謝してもそれはあまり意味のないことです。それだったら、自分が頑張ったのだから自分の写真に手を合わせたほうがいいのではないかと冗談で思うこともあります。
私たちが幸福になるとすれば、それは神さまのおかげでも仏さまの力でもなく、自分自身が過去にいいことをしたからです。何も良いことをしないのにどんどんいい結果が出るとすれば、それは法則ではありません。そんなことは有り得ない。
ずっと人をだまして泥棒したり強盗を働いてきた人が、どんどん社会的に認められて総理大臣になったり、偉い学者や尊敬の念を一身に集める偉人になるなどということは有り得ません。世の中の法則、宇宙の法則というものは、必ずあるのです。
もしあなたが今を幸せだと感じるなら、今まで良いおこないをしたその結果が現われただけのことなのです。そのことで関係ない誰かに感謝して、ああ良かった、感謝できて気が済んだと思ってしまうと危ない。
例えば突然宝くじが当たって大金持ちになったとしましょう。それであまりにも楽しくて幸せで、神さまに感謝して恩返しした気持ちになって、「本当に助けてくれる神さまがいるのだ」と、自分の運命を勝手に解釈して納得したとします。でもそれは非常に危ないのです。自分はそういう運命をつくってくれた対象に感謝したからこれで済んだ、借りを返したと考えると危険なのです。その結果、以後高慢になって悪いほうに走り出し、人生が暗い方向に傾き始めるということは、よくみられることです。
幸福になったら、それは過去におこなったことの当然の結果です。でもそれまでいいことをしてきても、これからひどい目に遭う可能性もあるわけです。
そういう運命を自分でつくらないためには、せっかく現在幸福になったわけですから、さらなる幸福のためにもっと自分を戒め、姿勢を正して生活していくべきなのです。幸福になったらその新しいエネルギーでさらに何か良いことをするのです。今の宝くじの例の場合は、入る大金は神さまから貰ったものではなく、宝くじを買った人々のものなのです。自分だけ神さまに可愛がられていると思ったら大間違いです。
これからは皆に感謝し、恩返しできるように生き方を変えなくてはならないのです。そのお金を自分の欲望などに使わずに、誰かの面倒を見たり、お布施をしたり、世の中の為になる使い方をする。お金もいっぱい手に入ったから、もういいやと誰かに感謝して終わるのではなくて、新しい良いおこないをするために、これをバネにしようという気持ちのほうが仏教的なのです。
この施本のデータ
- ブッダが幸せを説く
- 人の道は祈ることより知ることにある
- 著者:アルボムッレ・スマナサーラ長老
- 初版発行日:2001年5月13日